第22話
23
ルティミアはギルドからの帰り道、街で馬車を拾おうと通りに出たところだった。
「ん? あれ……今の、あの人!」
雑踏の向こうに見えた横顔に、ルティミアは思わず人混みをかき分けた。人気のカフェの脇をすり抜けるように駆けていく。
そういえば、あそこはケーキが美味しいと噂になっていた。いつも混んでいて、入れたためしがないのだけれど。
追っていた女性は、通り沿いの屋台で苺飴を一本買っているところだった。
あの人、やっぱり。オリビア・ニアリスだわ。
ルティミアの薬を一度買い、無理やり返品してきた令嬢だ。後を追ったところで、意味はないかもしれない。それでも気づけば、ルティミアは彼女から目を離せずにいた。
オリビアは夜会にも時折顔を出していて、いつも目立つ令嬢の後ろに控えている取り巻きのような娘だった。そういえば、ここ最近はまったく見かけていない。
彼女が……私の薬を、一度は買った人。
ルティミアは足音を殺し、そっと後をつけた。
オリビアは何度も周囲を気にする素振りを見せながら、やがて細い路地裏へと入っていく。
どうして? こんなところに。
路地の奥で、オリビアは二人の人物と合流した。
ルティミアは、路地に積み上げられた空き樽の陰にそっと身を滑り込ませる。ちょうど死角になっていて、向こうからこちらは見えない。
息を潜め、ルティミアは指先に小さな魔法を編む。ほどなく、一匹の小さな虫がふわりと指先に止まった。
「あの人たちの話を、聞いてきて」
囁くと、虫は音もなく飛び立ち、オリビアのローブの裾にそっと留まった。
ルティミアの手のひらに、淡い魔法陣が浮かび上がる。
「リディア様! お久しぶりです。お身体は、もう良くなられましたか?」
オリビアの声が、魔法陣を通して耳元に届く。あの虫が、そのまま盗聴器というわけだ。
「ええ、オリビア様。……まだ本調子とは言えないけれど。ハリーが、いまだに良くならないものだから」
リディアの声は、聞いていてわかるほど力がなかった。
もう一人は、誰?
この位置からでは、その人物の顔までは見えなかった。
ルティミアは、樽の陰からこっそりと三人の様子を窺っていた。
「――今日は、探偵のお仕事ですか?」
気配を殺して忍び寄っていたのか、すぐ耳元で、ふいに低い声がした。
ひぃっ、と飛び出しかけた悲鳴を、ルティミアは慌てて両手で押さえ込む。心臓が、爆発しそうなほど早鐘を打っていた。
誰だよ、このやろう……!
歯を食いしばり、勢いよく振り返る。そして、固まった。
「え、あなた……!」
「しっ」
声をかけてきた人物は、じっと人差し指を唇の前に立ててみせる。
「あなた、この前の……」
ルティミアは声を潜めてそう言いながら、どこかばつの悪い顔になる。
「また会えましたね。あの時はどうも、お世話になりました。おかげで、素敵な宝石が買えましたよ」
にこにこと、爽やかな笑みを浮かべてその男は言った。
ルティミアの頬が、ひくりと引きつる。そう、忘れもしない。苛立ちのあまり、宝石店の前に置き去りにしてやった、あの失礼な美男子だ。
「で、何を覗いていたんです?」
「……あ、そうだった」
ルティミアは驚きのあまり、いつの間にか魔法陣を消してしまっていた。慌ててもう一度、手のひらに淡い陣を浮かび上がらせる。
令嬢たちの声が、再び耳元に流れ込んできた。
「アリシア様……ディラン様は、その後どうですか?」
オリビアが、もう一人の令嬢の名をそう呼んだ。
アリシア……!? アリシア・ウィークだ。侯爵家のご令嬢。
社交界でもひときわ目立つ彼女は、いつも大勢の取り巻きを引き連れている。リディアも、オリビアも、その一人だ。彼女は変わらず夜会に顔を出していた。まさか、彼女まで巻き込まれていたなんて。
「婚約者は、確か……」
どこの家の人だったか。ルティミアが思い出そうとするより先に。
「ディラン・グラディア」
すぐ隣で、美男子がくっと口角を吊り上げ、低く呟いた。
「……これは、思わぬ収穫だ」
その後にもう一言、美男子が何かを小さく呟いた気がした。けれど、ルティミアには聞き取れなかった。
「今、何か……?」
「いえ。なんでもありませんよ」
男は、何事もなかったかのように爽やかな笑みを浮かべてみせた。
ルティミアは、再び三人の会話に耳を傾ける。
見れば、アリシアが泣き出していた。
「まさか、こんなことになるなんて……。ディランは目を覚ましたけど……突然、私のことは知らないと言い出して……今も、私のことを思い出してくれないの……。それに、消えた記憶と昏睡の後遺症で、いまだに起きてベッドから出ることもできなくて……」
リディアとオリビアが、両側からそっとアリシアを慰める。
「お父様はずっと苛立っていらっしゃるし、グラディア公爵様は、ウィーク家との婚約を破談にしようとなさっているようなの……。ディランが目を覚まさなければ、後継者にすることも難しいかもしれない。弟のラディアン様は、とても優秀でいらっしゃるから……。そうなれば、私は婚約破棄を余儀なくされてしまう。そんなことになれば、お父様が、なんておっしゃるか……」
グラディア家とウィーク家が、破談――!?
どちらも古くから続く名門で、社交界に影響力を持つ家だ。二人の婚約は、そんな両家の結びつきを強めるためのもの。それが破談となれば、家同士の関係に大きな亀裂が入るのは避けられない。
「まさか、あの薬に……こんな恐ろしい副作用があったなんて」
オリビアが、ぽつりと呟いた。
その一言に、ルティミアと美男子が、わずかに反応した。
「ええ……。私も、アリシア様から伺った時、その薬のことは少しだけ耳にしたことがありました。あれを使って、仲を取り戻したご夫婦も知っていましたから……。副作用なんて、考えもしませんでした」
リディアが、暗く沈んだ声で言う。
「そうよ。あの薬は社交界でもとても人気で、手に入れるのも難しくて……私だって、必死で手に入れたのに」
ん――!? 入手困難なほど、人気がある……!? それって、私の薬の話だよな……? あれ、違う薬……?
自分の薬が評判になっていることは、以前ゼインからちらりと聞いてはいた。けれど、まさか本当だったとは。
「追想の結晶……」
オリビアが、その名を呟く。
隣で、美男子がそっと口元を覆った。込み上げる笑みを、隠すように。
「……やはり、そうか」
小さく落とされたその呟きは、やはりルティミアの耳には届かなかった。
「オリビア様は、お使いにならなかったのですか? 確か、買っていらっしゃいましたよね」
リディアが尋ねた。
「あ……はい。その……怖くなってしまって、返品してしまいました」
「いい判断だと思いますよ」
「アリシア様は、これからどうなさるんですか?」
オリビアが、気遣わしげに聞く。
「……分からないわ。ディランの記憶が戻るのが、いちばんいいのだけど……」
アリシアが、わっと泣き出した。
「う……。グラディア公爵様は、帝国の内外を回って、ディランを治そうとなさっているけれど……」
リディアとオリビアが、両側からそっとアリシアの背をさすり、慰める。それでも、涙は止まらないようだった。
「リディア様は……?」
アリシアが、涙を拭いながら、リディアに問いかける。
「あ……そうですね。ハリーは、そこまで重くはなくて……。私のことは思い出せないままですが、日常生活に戻れるくらいには回復しました。今は少しずつ、また一から知り合っているような感じで……。それに、この件で、あの人の女性への興味もすっかり落ち着いて……。皮肉なものですね。結果だけ見れば、望んでいたとおりになったのかもしれません。……それでも、ハリーと過ごしたあの一年の思い出は、私にとって、かけがえのないものでした。それが、あの人の中から消えてしまったのは……とても、悲しいです」
リディアの声も、震えていた。
どうして、こんなにも副作用の症状に差があるの。
ルティミアは考え込む。
リディアが、鞄から小さな小瓶を取り出した。中には、ほんの少しだけ結晶が残っている。
「全部は、お使いにならなかったんですか?」
アリシアが、少し驚いたように言う。
「あ、はい。その……買った時は、全部使うようにと言われたんですが、怖くて……半分だけにしたんです」
リディアが、そう答えた。
そうか。服用した量で、症状の重さに差が出たのか。
ルティミアの顔が、険しくなる。その隣で、男もまた、何かを考え込んでいるようだった。
その時、小瓶に微かに光が当たった。
「リディア様……それ……」
オリビアが、結晶をじっと見ている。
「……何か?」
「あ、いえ! 気のせいのようです!」
ルティミアもまた、何かに気づいたようだった。
ちょっと待って……あれ……。もし、そうなら……。
ルティミアは、わずかに身を乗り出す。
「お嬢さん?」
男が怪訝に思い、つられたように結晶のほうへ目をやる。
ガタッ。
「っ……!」
「え、なんの音……?」
リディアたちが、怯えたように身を強張らせる。
ルティミアと男は、息を潜めた。
このままここにいては、ばれるわね。
「撤退しますよ」
ルティミアは男にそう告げると、二人、気づかれないようにその場を後にした。
三人と出くわさないよう、二人は大通りまで戻ってきた。
「今日聞いたことは、絶対に誰にも言わないでくださいね!!!」
ルティは、男に強く釘を刺す。
「ええ、もちろん。お約束しますよ。あなたのおかげで、私の悩みも少し解決しました」
男は、爽やかに笑って言った。
この人、ほんと、見た目だけはめちゃくちゃかっこいいな。まぁ、あと声も……。
けれど、こんな得体の知れない男と、長く一緒にいたくはなかった。
「約束を破ったら呪いますからね! では、私は急ぎの用がありますので、これで失礼します。お気をつけてお帰りください」
ルティミアは、男に何かを言わせる前にさっさとその場を離れ、雑踏の中へと紛れていった。
男は、彼女が消えていったほうをじっと見つめる。そして、くっと口角を上げた。
「彼女はどうも、私には幸運の女神のようだ。……あぁ、また名前を聞き忘れてしまったな。また会えるといいが」
男もまた、ゆっくりと人混みの中へ紛れていく。
通りの向こうでは、茜色の夕日が、街並みの影を長く伸ばしながら、ゆっくりと地平へ沈もうとしていた。
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