第18話 ルティミアとマスター
ブラックパンサー。
「こんな怪しげな店、ここしかないわよね」
ルティミアは店の扉の前で、小さく掲げられた看板を見つめた。城下町の裏通り。陽の差し込まない狭い路地の奥に、その店はひっそりと佇んでいる。表通りの賑わいが嘘のように、この一角だけ時間がゆっくり流れているようだった。
ギルドマスターにオーナーのことを聞いてみよう。
ルティミアはそう思って、ここまで足を運んでいた。今日も黒髪に茶色の瞳。いつもの変装だ。フードを軽く直して、扉に手をかけた。
カランカラン。
扉の上の鈴が、軽やかな音を立てた。
店内は相変わらずそこそこ賑わっていた。木のテーブルが並び、温かい料理の匂いが漂っている。客の話し声、食器の触れ合う音。表向きはどこにでもある、普通のレストランだ。誰もこの奥に裏社会が広がっているなんて思わないだろう。
ルティミアは慣れた足取りで、奥のカウンターへと進んだ。
カウンターでは、いつもの愛想のいい女性が笑顔で対応してきた。
「いらっしゃいませ」
ルティミアはフードの端を軽く引いて、少し深く被り直した。顔が影に隠れる。それから声を落として言った。
「黒豹さんに、会えるかしら」
女性の笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。それからすぐに、何事もなかったように柔らかく微笑む。
「はい。お待ちください」
そう言って、カウンターの奥へと静かに入っていった。
ルティミアはその場で待ちながら、店内をさりげなく見渡した。賑わう客たち。湯気の立つ料理。誰もこの奥の扉の向こうを知らない。
……ゼイン・アーツベイト。その男がこの店のオーナー。
ルティミアは静かに、その事実を頭の中で転がしていた。
コツ、コツ。
女性に奥へどうぞと促され、薄暗い廊下を、いつものように歩く。前を歩く黒いローブの少年についていく。クルトは相変わらず一言も喋らない。ただ静かに先導するだけだ。
廊下の突き当たりで、少年が扉を開けて中へと促した。
「やあ。お嬢さん。久しぶりだね」
笑顔で迎えられた。
今日は珍しく、あのもっさいとした変装をしていなかった。黒髪に黒い瞳の、すらりとした美丈夫の姿だ。窓のない部屋の薄明かりの中でも、その整った顔立ちははっきりとわかる。相変わらず不思議な雰囲気を纏った男だった。
「久しぶりね、マスター」
ルティミアはソファへ向かい、腰掛けた。
「今回は薬とは別のことなんだけど」
「別のこと?」
ゼインがわずかに片眉を上げた。
「何か、面白いことですか? でも、いいところに来てくれて嬉しいですよ。私もちょうど、あなたを呼ぼうと思っていたところです」
そう言いながら、マスターはルティミアの向かいのソファに腰を下ろした。長い足を組んで、静かにこちらを見ている。
「あなたが私を呼ぶ?」
ルティミアは少し目を細めた。
この男が自分を呼ぶ。それは珍しいことだった。いつもは薬を渡して、金を受け取って、それで終わり。わざわざ呼び出すようなやり取りはこれまでなかった。
何か、嫌な予感がした。
「とりあえず、先に話してもいい?」
ルティミアは尋ねた。
マスターは「どうぞ」とでも言うように、手のひらを上に向けて、すっとルティミアの方へ差し出した。お先にどうぞ、という優雅な仕草だった。
「ねぇ、あなたゼイン・アーツベイトって人物、知ってる?」
ごふっ。げほっ。
マスターはその名前を聞いた瞬間、気管にお茶を入れてしまった。口元を手で押さえ、咳き込む。
「失礼しました。ゴホッ……どうして、その人のことをお尋ねに?」
マスターは呼吸を整えながら返した。
「ゼイン・アーツベイトって、ここの表のレストラン、ブラックダイガーのオーナーでしょ? あなたが知らないはずないわよね」
ルティミアはストレートに聞いた。
少しの沈黙が落ちた。
マスターはゆっくりとカップを置いた。そして、すっと冷たい目をルティミアに向けた。
「どうしてそれを、あなたが知っているんですか」
声のトーンが、一段低くなっていた。
でもルティミアは、そんなものには怯まなかった。涼しい顔で見返す。
「秘密事項だった? 別件で彼を知りたいことがあってね。その過程でたまたま知ったのよ」
少し誤魔化して言った。
「たまたま、ですか……いえ、調べれば分かることですから機密事項ではありません」
マスターは探るようにルティミアを見たが、やがて小さく息をついた。張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
「まあ、もう調べていらっしゃるでしょう。ええ、そうです。ここのレストランのオーナーですよ」
意外にも、あっさりと認めた。
「ギルドとも関係あるの? それとも本当にレストランの方しか関係ないの?」
ルティミアは少し前のめりに聞いた。
「さぁ。そこまでは、教える理由がありません」
マスターはふいと顔を背けた。それ以上は語らない、という態度だった。
「……関係ないわけないか」
ルティミアは小さく呟いた。
「私の部下にギルドとレストランのことを調べさせたけど、いまいち掴めなかった。でも考えてみればおかしいのよ。アーツベイトは貴族だけど、今まで飲食店なんて事業をしていた記録はなかった。代々続く、厳格な騎士の家柄。その中でただ一人、騎士の道ではなく魔法の才能に優れた三男ゼイン」
ルティミアはマスターをまっすぐ見据えた。
「その彼が、ただのレストランだけを経営するとは思えないわ。こっちが――ギルドの方が、本命なんじゃないかしら」
にやりと笑った。
マスターは内心で舌を巻いた。この女の勘の鋭さと賢さは、以前から知っていた。だが、どこまで掴んでいるのか。それとも何も掴んでいないのか。その表情からは、まったく見抜くことができなかった。
はぁぁー。
マスターは長いため息をついた。
「この秘密を話して、私はあなたから何か見返りをいただけるんですか?」
じとっとした目で見てきた。タダで教えると思うなよ、という目だ。
「……まあ、あなたはそういう人よね」
ルティミアはくすりと笑った。それから少し間を置いて、静かに言った。
「私の正体を教えてもいいわ」
にこっと微笑んだ。
……!!
マスターは思わぬ提案に、わずかに目を見開いた。
どんなに調べても、この女のことはわからなかった。正体不明の実力者。掴もうとすればするりと逃げる、影のような存在。それが自ら正体を明かすという。これはなかなか、いい取引だ。
「なぜ? 今まで頑なに正体を教えてくれなかったじゃないですか」
マスターは少し怪しんだ。
「……まあ、こっちもそれほど欲しい情報ってことよ」
ルティミアは軽く肩をすくめた。
親友ソフィリアの婚約相手候補のことだ。黒い部分があるなんて、許せるわけがない。なるべく全てをクリアにしておきたい。大切な親友のことだからこそ、ルティミアは譲るつもりはなかった。
「……いいでしょう」
マスターはふっと口角を上げた。
「その条件なら、こちらもあなたの知りたいことの答えを教えて差し上げますよ」
少し機嫌よさそうに言った。
「ゼイン・アーツベイトは、ギルドのオーナーでもあります」
「……あなたを雇っているの? そんなにすごい人なの?」
ルティミアは少し考えた。
雇い主。つまりこのマスターの上に、ゼイン・アーツベイトという存在がいる。いや、待て。何かが引っかかる。
少しの沈黙が落ちた。
ルティミアはゆっくりと顔を上げ、マスターをまっすぐ見た。
「……あなたが、ゼイン・アーツベイト?」
探るように、ゆっくりと聞いた。
「……ふっ」
マスターは小さく笑った。
「ええ。そうです」
微笑んで、まっすぐにルティミアを見返した。
……まじか。
ルティミアは、がっくりと首を垂れた。両手で顔を覆いそうな勢いだった。
「私がゼイン・アーツベイトで、がっかりしました?」
ゼインはルティミアのその反応を不思議に思った。普通、自分の正体を知れば令嬢たちは目を輝かせるか、媚びてくるかのどちらかだ。こんな風にあからさまにがっかりされたのは、初めてかもしれない。
「それにしても……脳筋兄貴たちとは全然違うわね」
ルティミアはソファに頬杖をつき、足を組んだ。気だるげに、でもどこか面白がるような目でゼインを眺める。
厳格な騎士の家系。その中でただ一人、剣ではなく頭脳と魔法で裏社会の頂点に立った男。確かに、兄たちとは何もかもが違う。
「ははっ、そうですね。兄たちは立派な騎士ですから」
ゼインは軽く笑った。
「私は母に似て、兄たちみたいに体が丈夫ではなかったので。早々に騎士の道は諦めてしまいましたよ」
両手を広げて、肩をすくめてみせる。どこか飄々とした仕草だった。
「それにしても、アーツベイトの三男がなんでこんな怪しいギルドなんかしているのよ。なんかあれ? 立派な兄への劣等感からの反発みたいな?」
ルティミアは揶揄うように笑った。
「ふっ」
ゼインは小さく息を漏らすように笑った。
「まあ……大きく外れてはいないですね。アーツベイトとしてではなく、ゼインとして何かをしてみたくなったんですよ」
そう言って笑ったゼインは、いつもの飄々とした雰囲気が少し抜けて、ほんの少しだけ幼く見えた。本音の片鱗が、その表情から覗いた気がした。
「貴族の家ってのは、どの家も色々あるものよね」
ルティミアは改めてそう思った。完璧に見える家にも、それぞれの事情がある。自分の家も、そうだ。
「では」
ゼインが居住まいを正した。黒い瞳が、わずかに期待の色を帯びる。
「あなたのことを教えてください」
いつもは何を考えているかわからないこの男が、今は珍しく、子供のように好奇心を隠せずにいた。掴めなかった謎が、ようやく明かされる。その瞬間を待つ目だった。
「そうね」
ぱちん。
ルティミアが指を鳴らした。
その瞬間、ふわりと空気が揺れた。黒髪が夕日色のボブに変わり、茶色の瞳が深い紺碧へと色を変える。地味だった顔立ちが、息を呑むほど整った美貌へと一変した。薄暗い部屋の中でも、それははっきりとわかった。
「私の本名はルティミア・アルノ。アルノ伯爵家の長女よ。知っているかしら?」
ルティミアは綺麗な笑顔で言った。
「あははははっ!」
ゼインが爆笑した。腹の底から、おかしくてたまらないという笑い方だった。
「まさか、アルノ家のご令嬢とは。納得です」
ひとしきり笑ってから、ゼインはソファの背もたれにゆったりと体を預けた。
「アルノ家のご令嬢は、王立学園を歴代トップで卒業するほど魔法に長けた魔法使いだと聞いていますよ。なるほど。それなら全部、辻褄が合う」
彼女ほどの実力があれば、自分の追跡魔法をいとも簡単に消すことも可能だろう。長年掴めなかった謎が、たった一つの名前で綺麗に解けていく。
ゼインはどこかすっきりとした顔をしていた。胸につかえていたものが、すとんと落ちたような表情だった。
「あなたが私を調べた理由が、わかりました」
ゼインは静かに言った。
「グランバート嬢に、アーツベイト家が婚約を申し込んだからですよね」
「……ええ。そうよ」
ルティミアは落ち着いて答えた。隠す気もなかった。
「グランバート嬢とアルノ嬢が親友なのは、貴族の中では有名な話です。親友に婚約を打診したゼイン・アーツベイトという謎の男が、どんな人間か調べようとしたんでしょう」
ゼインは全てを見透かしたように言った。それから、少し肩をすくめる。
「あの婚約は、私が打診したわけではありません。ふらふらして結婚しない三男を見かねた父が、勝手にお節介をしたんですよ。私に相談もなしにね」
少し呆れたような口調だった。
「……ソリアは、それ知ってるの?」
ルティミアは声のトーンを少し落として聞いた。
「はい。先日、夜会でお会いした時に説明しました」
「そう……」
ルティミアは小さく呟いて、黙ってしまった。
ソフィリアは全て知っている。父親が勝手に進めた話で、ゼイン本人にその気がないことも。それなのに、政略結婚のようなものを選ぼうとしている。
どうして。
ルティミアには、ソフィリアの気持ちがわからなくなっていた。あんなにラミアンを想っていたのに。あの恋する顔を、誰よりも近くで見てきたのに。
ルティはクルトが出してくれたお茶をすすって気持ちを整えた。
「ますます、なぜあなたのような人がギルドに商品を卸しているか不思議です」
ゼインは心底不思議そうな顔をした。これほどの実力者が、なぜ裏のギルドにこっそり薬を流すような真似をしているのか。
「ほんとに、大した理由はないのよ」
ルティミアはあっさりと答えた。
「よく出来たから、売ったら売れると思っただけ。それにお金も必要だったし。想像よりずっと売れてくれて、助かったけどね」
魔塔の立て直しには、想像以上の金がかかった。家には内緒にしている以上、頼るわけにもいかず、自分でどうにかするしかなかったのだ。
「……」
ゼインは何とも言えない顔をした。天才魔道士の動機が「なんとなく」と「小遣い稼ぎ」。拍子抜けにもほどがある。
「それより、あなたの用はなんだったの?」
ルティミアはさっきから、それが気になっていた。この男がわざわざ自分を呼ぼうとしていた、その理由が。
「あぁ……そうでした」
ゼインの顔から、ふっと笑みが消えた。さっきまでの軽い空気が、潮が引くように静まっていく。膝の上で軽く指を組み、少し言いにくそうに口を開いた。
「これはまだ、確信のある話ではありません。調査段階で、あなたに話すべきかどうかも迷っているんですが……」
そこで一度、言葉を切る。黒い瞳が、まっすぐルティミアを捉えた。いつもの飄々とした男の目ではなかった。
ゼインは、オリビア・ニアリスとの出来事と、追想の結晶に副作用が出たという話を、ルティミアに静かに語った。
「嘘……」
ルティミアは言葉を失った。
「そんな危険な副作用、あるわけないわよ!!」
思わず声が大きくなった。
「私が作ったのよ!! それに友人が使った時だって、副作用なんて全く無かった。今まで、あなただってそんな話一度も言ってこなかったじゃない!」
あの薬は、ルティミアにとってかなりの自信作だった。成功したレシピをそのまま使っている。品質がぶれることなど有り得ない。そう信じていた。
でも。
……百パーセント安全なものなんて、この世に存在しない。
それはルティミア自身、わかっていた。魔法とはそういうものだ。わかっている。わかっているのに、信じられなかった。
ルティミアは、黙ってしまった。
「私も……信じられません」
ゼインが静かに言葉を継じた。
「あなたの薬は、私がいつも自分の目で調べて、中身に変動がないかチェックしていましたから。今もこの件は、部下に調査させています。正直、この話の信憑性が高いとは、まだ言いきれない」
ゼインは念を押すように言った。
この男自身、あの薬を気に入っていた。同じ魔法を扱う者として、これを生み出したルティミアを密かに尊敬してすらいた。だからこそ、悪いものであってほしくなかった。信じたかった。何かの間違いであってほしいと。
「……記憶障害? それって……どんなもの?」
ルティミアの脳裏に、ある嫌な予感がよぎった。どうか、ただの予感のままでいてくれと願う。
「あぁ。確か……使った令嬢の婚約者が、その令嬢のことを忘れてしまう、と言っていたかな」
ゼインの言葉に、ルティミアはがくっと頭を垂れた。
「嘘でしょ……。まさか……」
その反応に、ゼインが驚いた。
「どうしました? え、まさか……心当たりが?」
まさか副作用について何か知っているのかと、ルティミアの様子にゼインは不安を覚えた。
「その話、知ってるわ。まさか私の薬が関係あるなんて、思わなかったけどね」
はぁ、とルティミアは長く深いため息をついた。
ルティミアは、ソフィリアから聞いた噂のことをゼインに話した。記憶障害を起こした令息たち。その被害者には共通して婚約者がいて、なぜか令嬢たちが婚約者に忘れられてしまったということ。令嬢たちは皆、原因については頑なに口を閉ざしていたこと。
「……そんな噂があるなんて」
ゼインは落ち着いたトーンで呟いた。
ゼインはそこそこ情報網に長けた男だったが、社交界にあまり顔を出さないので、令嬢たちの間で交わされる噂の全ては把握していなかった。
それにしても、と内心で感心する。
当事者の令嬢たちが頑なに口を閉ざし、表に出てこなかった話だ。それをここまで掘り下げて、被害者の繋がりまで辿り着くとは。よほどの社交性と、人脈と、聞き出す手腕がなければできることではない。
さすがソフィリア・グランバートだ。
そして、ゼインは少しだけ彼女に興味を持った。
彼女は、なかなか面白い人かもしれないな。
ルティミアには言わなかったが、ゼインの中で密かに、ささやかな心情の変化があった。
「そこは繋がりがあるかもしれないですね。まだ全貌は分かりませんが」
ゼインはふむ、と考え込んだ。
「……この記憶障害の件は宰相が動いてる。魔塔にも調査を入れてきた」
ルティミアは呆れるように言った。
「魔塔……ですか? そうですね……魔法関係のトラブルなら、魔塔を真っ先に疑うのも無理はありません」
ゼインは頷きながら答えた。それから、ふと感心したようにルティミアを見た。
「魔塔の内部の情報まで知っているんですね。さすがアルノ家のご令嬢だ」
「あー。言ってなかった。まぁ、いいか……」
ルティミアの言葉に、ゼインが首を傾げる。
「私が、あの魔塔のトップなのよ」
にこっ。
……。
長い沈黙が落ちた。
「……え?」
ゼインのいつもの涼しげな顔が、ぴしりと崩れた。
「私が今の魔塔主なんだってば!」
ルティミアはもう一度言った。
「えぇーー?!」
ゼインがでかい声を出した。あの飄々とした、何があっても動じない男が、目を見開いて口を半開きにしている。クルトがいたら腰を抜かしていたかもしれない。
「えっと……魔塔主は神出鬼没の中年の女性だと聞いていました。それと、年老いた男とか……こんな可憐なお嬢さんとは、誰も……」
ゼインは珍しく、しどろもどろになっていた。
「ああ。それはたぶん前の魔塔主。私の師匠よ。あの人、変身して色んな偉い人のところへからかいに行くのが趣味の変態だったから」
ルティミアは軽く肩をすくめ、片手をひらひらと振りながら、心底どうでもよさそうに言った。
「……そうなんですか」
ゼインはどこか複雑な顔をした。
実は、ゼインは密かに今の魔塔主に憧れを抱いていた。陰気で近寄りがたかった魔塔を一新し、魔道士の印象をがらりと変えた立役者。その恩恵を、ゼイン自身も少なからず受けていたからだ。
「魔塔改革は……あなたがしたんですか?」
ゼインは恐る恐る聞いた。
「あぁ。ええ、そうよ。あんな陰気な塔で働くの、嫌だったし。トップクラスの魔道士たちが陰気なやつ扱いされてるのが許せなかったのよ」
ルティミアはサラッと答えた。当たり前のことのように。
ゼインはしばらく、目の前の令嬢を見つめていた。憧れていた魔塔主が、こんな飄々とした、薬を小遣い稼ぎで売るような変わり者の令嬢だったとは。
……世の中、わからないものだ。
「……魔塔のために、薬を開発して売ることにしたんですか?」
ゼインは、ふとある疑念を抱いてルティミアに聞いた。
「開発きっかけは違うけど、売った理由はそうよ」
ルティミアは少しだけ誇らしげに、それでいて柔らかい笑顔で、短くそう答えた。多くは語らない。ただ一言だけ。
「……そうですよね。魔塔は大工事のもと、全て立て直して作り替えられた。アルノ家といえど、膨大な金が必要だったはずです」
ゼインは真剣な顔で言った。あれだけの規模の改革。どれほどの資金と労力が注ぎ込まれたか、同じく裏で金を動かす人間として、ゼインには想像がついた。
「まぁね」
ルティミアはあっさりと頷いた。
「あの薬は本来、そのために作ったんじゃないのよ。友人が悩んでたから、彼女のために作ったの。それが思いのほか、いいものができたから。売ろうと思ってね」
軽い口調だった。深刻さの欠片もない。
「私の資産だけじゃ魔塔を立て直すのは難しくて、色んなところに借金したのよ。それを返すのに役立つかなって思って、あなたのところに持ってきたってわけ」
そこまで言って、ルティミアはふっと笑った。
「なんか思ったより高値で売れて、予想より早く借金返せたから、良かったわ!」
まるで他人事のように、軽やかに笑った。
その横顔を、ゼインは静かに見ていた。
膨大な借金。それを背負って、たった一人で魔塔を作り替えた。普通なら、苦労話の一つも語りたくなるものだ。どれだけ大変だったか、どれだけ無理をしたか。誇らしげに、あるいは恨めしげに。
でもこの女は、そういうことを一切口にしない。大変だったとも、すごいことをしたとも言わない。ただ「良かったわ」と笑うだけ。やり遂げたことを、まるで道端の小石でも跨いだかのように話す。
……本当に、凄い人だ。
ゼインは改めてそう思った。
ふと、初めて彼女がギルドに来た時のことを思い出した。今より少し幼くて、でもどこか大人びた雰囲気を纏っていた。フードの下から覗く凛とした佇まいに、思わず目を引かれたことを。
あの時から、この女はずっと変わらない。
「そんな理由だったんですね」
ゼインは優しい表情で笑った。いつもの大人びた、余裕たっぷりの笑みではない。少し幼くて、飾り気のない笑顔。本来のゼイン・アーツベイトの顔だった。
「尚のこと、追想の結晶のことをちゃんと調べないといけませんね」
ゼインの目に、やる気が満ちていた。黒い瞳の奥に、静かな火が灯っている。
「追想……あぁ、そんな変な名前付けてたわね」
ルティミアは少し呆れたように呟いてから、表情を引き締めた。
「そうね。オリビアの事も引き続き調べて。私の方でも動くから」
「はい。私の方でも、売った人のルートをできる限り追います。私が売った相手から、さらに誰かに渡っているケースも多いでしょうし」
ゼインは自信ありげだった。
裏ルートは彼に任せればいい。ルティミアはそう思った。
この男が、相当な実力者であることはわかっていた。ギルドマスター黒豹。裏の世界で、その名を知らない者は少ない。正体までは知らずとも、その通り名くらいは誰もが耳にしたことがあるだろう。
ネットワークの広さ。狡猾さ。賢さ。取引の巧みさ。そして魔法の腕。あらゆるスキルが要求されるこの世界で、彼の右に出る者はいないとさえ言われている。
ルティミアが薬を卸す先を徹底的に調べていた時、何度も耳にしたのが「黒豹」という単語だった。そして、彼ならば自分の正体を明かさずに取引ができる、信用できる相手かもしれない。そう思って、ブラックパンサーの扉を叩いたのだ。
その勘は、間違っていなかった。
「あのさ、ソリアのこと……正直どう思ってるの? 面識あるんでしょ? ソリアがそう言ってたわ」
ルティミアは、ここまで踏み込むのはやりすぎかと思った。でも、どうしても気になった。
「え。あ……そう、ですね」
ゼインは少し言葉を探すように間を置いた。
「グランバート嬢は、とても賢く可愛らしい方だと思います」
いつもの笑顔だった。何を考えているか読めない、あの笑顔。
「ねぇ……グランバートが婚約承諾の返事をしてきたら、どうするの? ソリアと結婚するの? ソリアにこんな仕事してること、言うの?」
ルティミアは矢継ぎ早に聞いた。
「……夜会でお会いした時に、彼女には断っていただいて構わないとは言いました。それに、彼女には好きな方がいると噂でしたが……それはどうやら、事実のようですし」
「……そう。そこまで分かってるんだ」
ルティミアは少し間を置いて、静かに続けた。
「あなたに悪いけど、私はその好きな男とくっついてほしいのよ。でも、私がお節介したらソリアは嫌がると思う。だから貴方を調査したことは、ソリアには言わないで」
一度言葉を切る。
「それに……ソリアが決めたことなら、あなたと婚約しても私は止めないわ」
ルティミアの顔は、親友を心から思う顔だった。揺るぎなく、まっすぐで、優しい。
ゼインは、何も言えなかった。
しばらくして。
ルティミアはゼインに別れの挨拶をして、クルトに連れられ、来た道を戻っていた。薄暗い廊下に、二人分の足音が響く。
「あなたは、ゼインに拾われたの?」
びくっと、クルトの肩が跳ねた。
こうやって話しかけられたのは初めてで、驚いたらしい。
「えっと……そうです」
クルトは恐る恐る、ルティミアの方を振り返って言った。
「帝国で獣人は住みにくいでしょ。ゼインはどうして、あなたを拾ったの?」
「……親が殺されて……人に、奴隷商人に捕まって……マスターが、助けてくれたんです」
クルトは少し気まずそうに話した。
「そうなの……大変だったわね」
ルティミアの声は、柔らかかった。
「じゃあね。案内ありがとう」
ぽん、と。
優しい手が、クルトの頭をそっと撫でた。
クルトが目を丸くする間に、ルティミアはそのまま店を出ていった。
クルトはしばらくの間、ルティミアの帰っていった方を見つめていた。
なんだか今日は、いつもと少し雰囲気が違った気がした。あの飄々とした、掴みどころのない人が、ほんの少しだけ柔らかかったような。頭を撫でられた感触が、まだ残っている。
「……相変わらず、謎に満ちた人だ」
クルトは小さく独り言を呟いた。
そしてくるりと踵を返し、ゼインの部屋へと向かった。




