第16話 マスターの新たな問題
ふぅ。
ギルドマスターはいつもの部屋のいつもの椅子に深く腰を下ろした。
最近は個人的に少しめんどくさいことが続いていた事もあり、少し疲れていた。
コンコン。
「どうぞ」
「マスター。お客さんです。前にあの薬を買った方だと思いますけど……なんだか、様子がおかしいような気がします」
クルトはそう言った。
……。
パチン。
ゼインは美男子からいつものもっさいマスターの姿に変わった。
「入ってもらえ」
クルトはこくんと頷いて部屋を出た。
しばらくして、一人の客が部屋に入ってきた。黒いローブを着て、フードを目目深に被っている。
マスターは静かに気配を探った。
確かに以前来たご令嬢オリビア・ニアリスだ。マスターは幾帳面な男なので、ギルドで何かを購入した人物の記録を全て残していた。裏商売だ。いつトラブルが起きるかわからない。だからこそ慎重にやってきた。
「どうされましたか?」
マスターは尋ねた。
「あの、こ、これ!!」
オリビアは机に小さな瓶を置いた。
追想の結晶だ。
「これをどうして?」
マスターは落ち着いた口調で聞いた。
「あの、あの……返品したいんです」
オリビアは切羽詰まった様子だった。
「……なぜ? 理由をお聞きしても?」
そう聞くと、オリビアはびくっと肩を震わせた。
「こ、これ! 副作用があります!!」
マスターはオリビアの言葉に静かに驚いた。
(……副作用?)
「未開封だと思いますが……どうして副作用があると思うんですか?」
「あるご令嬢たちがこれを使ったんです。そしたら……魔法がかかった婚約者たちが、倒れてしまったんです。それで……」
オリビアは少しの沈黙の後、声を絞り出すように言った。
「婚約者は……ご令嬢たちのことを、忘れてしまったんです……」
オリビアの声は少し震えていた。
(なんだと?!)
そんな副作用が今まであったのか? いや、聞いたことがない。マスターは顔には出さないが内心とても驚いた。
「失礼ですが、そのご令嬢たちのお名前を聞いても?」
オリビアは一瞬、何かを言いかけて唇を噛んだ。そしてぶんぶんと首を振った。
「と、とりあえず、お返しします!! お代の返金はいりません!!」
オリビアは立ち上がり、急いで部屋を出ていった。
残されたマスターは、机の上の小さな瓶をじっと見つめた。
「……なんてことだ。致命的な副作用じゃないか」
ぽつりと呟いた。
「マスター?」
クルトがそっと部屋を覗いていた。狐の耳がぴんと立っている。
「何かありました?」
「クルト、そこへ座ってくれ」
はあー。
マスターは大きくため息をついた。
「先程の令嬢が返してきたものだ。副作用があるらしい」
机の上の小さな瓶を指さした。
「え?! これ追想の結晶ですよね?! 副作用?? でもそんなこと今まで一度も聞いたことありませんよ!」
クルトも動揺していた。
「そうだ。彼女とはもう二年のやり取りをしている。この二年、一度だってそんな噂はなかった」
マスターは静かに整理した。
情報収集を常にしていたが、追想の結晶の効果で副作用が出たとは聞いたことがない。ましてや記憶の消失など、かなりやばい副作用だ。そんなことがあればこれまでにギルドへのクレームがあるか、社交界でも噂になっているはずだった。
なぜ今更になって。
マスターは頭を抱えた。
マスターのギルドは裏稼業だが、質のいいものだけを取り扱っていた。危険なものは絶対に出さない。副作用があるものなど論外だ。それはギルドの信用問題に直結する。帝国の貴族にも裏組織の人間にも幅広く支持されているのは、そのゆえだった。
「ちょっと待って下さい! その令嬢が嘘をついている可能性は?」
クルトがもっともなことを言った。
「それもそうだが……あの様子はどうも疑いにくい。よほど演技が上手いか……」
マスターは少し考えてから続けた。
「とりあえず副作用の話が出た以上、絶対にないとも言い切れない。あのご令嬢が絶対に嘘をついているという証拠もない。調査しないわけにいかない」
普段は飄々としているマスターが、少し焦りを滲ませていた。
「でもこれ、未開封ですよ? なぜ副作用があるなんてわかるんですか?」
「これを使った別の令嬢が、その魔法のせいで婚約者が倒れ、記憶消失を起こしているらしい」
「そうなんですね……」
クルトはゼインの顔色を伺った。いつもは涼しげな黒い瞳が、今は静かに何かを考えている。
「お嬢様には言うんですか??」
クルトが恐る恐る聞いた。
「そうだな……彼女にも聞いておかなければな」
マスターは少し言葉を濁した。
「あのお嬢さんが意図的にするとは思えないが……」
それ以上は言わなかった。
ルティミアを見極めたのはマスター自身だった。あの追跡魔法を消せる実力、あの立ち振る舞い、あの目。信用に値すると判断した。マスターはその人を見る目に自信を持っていた。
だからこそ、その判断を疑いたくなかった。
「クルト……ロゼを呼んでくれ」
マスターは静かに言った。
クルトは頷き、部屋を出た。
しばらくして、ゼインの部屋がノックされた。
「入ってくれ」
「マスター。調査ですか?」
黒いローブを纏った痩身の男が入ってきた。
「ロゼ。頼みたいことがある。ある令嬢の身辺を調べてくれ。オリビア・ニアリスだ。あと彼女の周りで追想の結晶を使っている者がいるか、それをどこで手に入れたかも調べてくれ」
ゼインは少し悩んでいるように見えた。いつもは飄々としているこの男が、珍しく表情に影を落としている。ロゼは不思議そうにゼインを見たが、何も言わなかった。
「わかりました。マスター」
それだけ言って、ロゼは部屋を出た。
ロゼはギルドが雇っている調査部隊のリーダーだ。ゼインが調査を必要とする時、ロゼを中心に部隊を動かしていた。
「ロゼがどこまで掴めるか……」
マスターはぽつりと呟いた。
追想の結晶を購入した人物のリストはある。だがその人物が自分のために使ったのか、誰かに譲ったのかまではゼインには把握できていなかった。
オリビアが言っていた令嬢が誰かわかれば、少しは手がかりになるかもしれないが……彼女は頑なに名前を明かさなかった。
マスターは机の上の小瓶をじっと見つめた。
琥珀色の小さな結晶。手のひらに収まるほどの、ささやかなものだ。それが今、帝国のどこかで、静かに人を蝕んでいるのかもしれない。
……一体、何が起きている。
掴みきれない違和感だけが、胸の奥に重く沈んでいった。
ふぅ。
マスターのため息が、静かに部屋に消えた。




