第14話 ソフィリアの婚約
夜会の翌日。
ソフィリアはルティミアの屋敷に遊びに来ていた。
「リディア様に聞いたの。ハリントン様は……リディア様との記憶を無くしてしまったらしいのよ」
ソフィリアはルティミアにリディア・ラグジーから聞いたことを報告していた。
「え? どういうこと?彼女の記憶だけがないってこと?」
ルティミアは驚いた。
「ハリントン様がこの一年分のある記憶だけが曖昧で、それはリディア様との記憶が中心のようなのよね」
ソフィリアは憐れむような顔をして言った。
「リディア以外にも、ユリシア・ローズ、ハンナ・エリシーも同じ立場らしいわ。婚約者に忘れられた人たち」
「……」
ルティミアは少し黙った。
特定の人の記憶だけを消す。
記憶を消す魔法というのは、基本的にその出来事ごと消す。それだけでも上位中の上位の魔法だ。なのに特定の人物との記憶だけを消すとなると、その難しさは遥かに上がる。ピンポイントで、他の記憶は残したまま、その事だけを消すなんて、可能なのか。
……自分が作った薬に、少し似ている気がした。
ルティミアの思考が、静かに深いところへ潜っていった。
ソフィリアは慣れっこだった。こうなったルティミアに話しかけても返事が来ないことを知っている。そっとテーブルの上の本を手に取り、ページを開いた。
なぜ消せたのか。他の人たちも同じなのか。そうだとして、それは量産できる類のものなのか。それとも誰か特定の人物による魔法なのか。
記憶を消す……どうやったんだ。
ルティミアは小さくぶつぶつと呟きながら、頭の中で術式を展開し始めていた。
ならば、その反転を行えば記憶は戻るんじゃないか。
記憶を消す術式があるなら、その逆を辿れば記憶を呼び起こせるはずだ。理屈としては成り立つ。ただ、それが実際に可能かどうかは別の話だ。記憶というのは生き物のようなもので、消えた後に元通りに戻るとは限らない。
ルティミアは目を細めて、頭の中で魔法陣を組み始めた。展開して、崩して、また組み直す。
ソフィリアは本のページをめくりながら、ちらりとルティミアを見た。
また始まった。でもいつもこうだ。そっとしておくのが一番だとわかっていた。
「ごめん、ソリア!」
しばらくしたらルティミアの意識が戻ってきた。はっとしたように顔を上げる。
「いいのよ。いいところまで読めたから」
ソフィリアは本から顔を上げて、にこりと笑った。怒っている様子は一切ない。ルティミアの性格をよくわかっていた。
「ごめん……ありがとう」
ルティミアは少し申し訳なさそうに言った。
ふと、ソフィリアの手元に目がいった。本だ。今日はちゃっかり本を持ってきていた。
……こうなることを予想していたのか。
ルティミアはじわりと感心した。何も言わずに本を持参して、文句も言わずに待っていてくれる。さりげなく、でも確実に。
私は一生、彼女には敵わないだろうな。
そう思いながら、ルティミアはソフィリアの笑顔を見つめた。
「それと、情報もありがとう。すごくいい情報だったよ。魔塔で研究してみる」
ルティミアはそう言った。
「レイたちとなら何かできそうね」
ソフィリアはにこりと笑った。
ソフィリアはルティミアが魔塔主であることを知る、限られた人物の一人だ。レイやユーリ、リリア達とも面識があった。魔塔の人間たちがルティミアをどれだけ信頼しているかも、傍で見てきてよく知っていた。
だからこそ、任せれば大丈夫だと思えた。
ルティミアが笑っていた。
口角がほんの少し上がって、目が細くなる。声には出さない、静かな笑みだ。でもソフィリアにはわかった。あの笑い方は、面白いと思っている時の笑いだ。
昔から変わらない、ルティミアの笑いの癖だった。
ソフィリアはそれを見て、ふっと肩の力が抜けた。
ルティミアなら、きっと解決策を出す。
根拠はない。でも確信があった。子供の頃からずっとそうだった。ルティミアがこの顔をした時、必ず何かを見つけてくる。
「そうだ、訓練場に行く? ラミアンに会って行くでしょ?」
ルティミアはいつものように誘った。
でも、今日のソフィリアは少し違った。いつもなら二つ返事で「行く!」と言うのに、返答がない。
ルティミアはソフィリアの顔を見た。何かを考えているような表情だった。視線がどこか遠くに向いていて、いつもの明るさが影を潜めている。
しばらくの沈黙の後。
「ルティ、私に婚約の話が来てるの……」
ソフィリアが静かに言った。
「え?断るよね?」
ルティミアは思わずそう返した。
ソフィリアはグランバート家の次女だが、これまでも婚約の打診は少なくなかった。でもソフィリアが嫌だと言えば断れる。グランバート家はそれほどの家柄だった。今まで何度もそうしてきた。
だがソフィリアは黙った。
「断らないかも……」
そうソフィアは呟いた。
「えぇ!? ラミアンは? もう好きじゃなくなったの??」
何故か少し、ルティミアが泣きそうだった。親友の長い片思いを知っているからこそ、その言葉が刺さった。
「もしかして、断れない家柄!?」
「……そういうわけでもないけど」
ソフィリアは少し目を逸らして濁した。
「どこの誰!? 教えて!!」
ルティミアは身を乗り出して聞いた。
「ゼイン・アーツベイト」
ソフィリアはぽつりと言った。
「アーツベイト……あぁ、あの王宮騎士団の家ね。でも息子二人は結婚してない?」
ルティミアは困惑していた。
「三男よ。騎士団には入っていないし、ほとんど姿を表さないから知らないのも無理ないわ」
「ソリア詳しくない!?知り合いなの?」
ルティミアは目を丸くした。
「えぇ。夜会で知り合ったのよ。彼、不思議な雰囲気で……紳士だし。悪くないかもって」
ソフィリアは言った。どこか、自分に言い聞かせるような言い方だった。
「ラミアンは? もういいの? ほんとに?」
ルティミアは心配した。
「……ラミアンを夢見るより、いい加減現実を見ないといけないでしょ」
ソフィリアは少し俯いた。
「ソリア、やけになってない?」
ルティミアは静かに言った。
「ラミアンを諦めて、ほんとにいいの? ずっと……あんなに好きなのに」
「でも……好きになってもらわなきゃ意味ないじゃない。何年になると思うの? これまで一切何もなかったよ。この先もないかもしれない」
ソフィリアの声が少し揺れた。泣きそうなのを、こらえているのがわかった。
「ソリア……まだ決めないで。お願い」
ルティミアはソフィアの両手を握り、まっすぐに見た。
「ラミアンのこと、なんとかする!!最後のチャンスでもいい!!でも、それでもラミアンがソリアを選ばないなら……私は止めない」
ソフィリアはしばらく黙っていた。
「……そうね」
小さく呟いた。ソフィリアはルティミアを見て小さく笑った。
取り敢えず、今日は訓練場には行かないということで、そのまま見送ることにした。
ルティミアはソフィリアをつれて玄関まで向かっていた。
「ソフィ様、お嬢様。ごきげんよう」
聞き心地のいい声と、爽やかな笑顔。
玄関先に、ちょうどラミアンが立っていた。
「ラミアン……」
ソフィリアが切なそうに呟いた。
「ソフィ様?体調がすぐれないのですか?」
ラミアンはいつもより元気のないソフィリアに気づいて、心配そうに眉をひそめた。
「……いえ、大丈夫です。ではまた、ラミアン」
ソフィリアはそれだけ言って、馬車に乗り込んだ。扉が閉まる。馬車がゆっくりと動き出した。
「ソリア……」
ルティミアは複雑な思いで、その馬車を見送った。
ソフィリアを見送った後、ルティミアは自室へ戻った。そして通信器具を手に取った。
「どうしました? 師匠。書類処理はしてますか?」
少し幼い声が応答した。
「アッシュ!! 頼みがあるの! 書類はもうちょっと待って! 調べてほしいことがあるの」
「はい。何でしょう」
「クロウたちを使ってほしいの」
ルティミアは言った。
クロウ。ルティミアが抱える隠密部隊だ。魔塔に所属してはいるが、実質、動かせるのはルティミアとアッシュくらいのものだった。
もとは暗殺組織にいた者たちを、ルティミアが引き抜いて集めた。今はもう、人を殺めることはない。表立っては探りにくいことを調べ上げる、魔法戦闘に長けた精鋭集団だ。
「クロウですか……わかりました。誰を調べるんですか?」
アッシュの声のトーンが変わった。
「ゼイン・アーツベイト。アーツベイト家の三男よ。彼は滅多に社交界に出てこないから情報がないんだけど、どういう人でどういうことをしているか調べてほしい」
ルティミアは淡々と言った。
「分かりました師匠。早急に」
アッシュはそう言って、通信を切った。
ソフィリアには、幸せになってほしい。ただ、それだけだった。
どこの誰とも知れない男に、ソフィリアをくれてやる気はない。せめて、ラミアンくらいのいい男でなければ、話にならない。
ふぅ、と息をついて、ルティミアは椅子の背もたれに身を預けた。そのまま、紅茶を一口含む。
ひと息つくと、ルティミアは、アッシュから送られてきた残りの書類をさっと片付けると、魔塔へ送り返した。
再び通信器具を手に取る。
「レイ。いる?」
「……どうしたの、ルティ」
しばらくしてレイが出た。穏やかな声だった。
通信器具はレイの部屋と繋がっている。
「レイ。この前の話、少し詳しく聞けたの」
ルティミアはソフィリアから聞いた話を、レイに詳しく話した。被害者の令嬢の事。その令嬢の婚約者が令嬢との一年分の記憶を失ったこと。そして他にも同じ被害者がいる
しばらく沈黙があった。
「……そんなこと、本当に誰かがしたのかな。」
レイも信じられないといった様子だった。穏やかな男が、珍しく声のトーンを落としていた。
「そうなのよ。これが人の仕業なのか、それとも何かの病気なのか……それすら、まだわからない」
ルティミアは指先で、こつこつと机を叩いた。
「でも、ね。これは――魔法よね?」
通信器具の向こうで、レイが小さく息を吐いた。
「……うん。俺も、これは魔法だと思う。何者かが、意図的に魔法をかけた。そう考えるのが自然だね」
「そうよね」
やはり、と思う。魔法に詳しいレイがそう言うのなら、間違いないだろう。
「ねえ、レイ。特定の記憶だけを飛ばす魔法なんて、本当にできると思う?」
しばらく、レイが考え込む気配がした。通信越しでも、彼が眉を寄せて思案している姿が目に浮かぶ。
「……できなくは、ないと思う。ただ、相当に難しい。記憶を消すだけでも高度なのに、特定の相手との記憶だけを選んで消すなんて、並の術者にできることじゃないよ」
ルティミアは小さく頷いた。
「……一応、記憶障害の詳細も、少しだけわかってきたの。それをヒントに――消えた記憶を、戻す魔法は作れるかな」
核心を、そっと口にする。
「そうだね」
レイの声は、静かだった。
「簡単じゃないけど……考えてみるよ。やってみる価値はある」
「ありがとう。私も、私なりに術式を組んでみる。考えがまとまったら、また送るわね」
「うん、わかった。こっちでも引き続き、この件は研究してみる」
「お願い。私も詳細を追ってみるから。進捗があれば、その都度報告する」
「了解。……ルティ。あんまり、根を詰めすぎないようにね」
最後のひと言に、ルティミアはふっと頬を緩めた。
「ふふ。レイこそ」
通信を切る。
静まり返った部屋で、ルティミアは小さく息を吐いた。それも束の間、すぐに机に向かう。
羽根ペンを手に取り、紙に走り書きを始めた。
頭の中に浮かんだ術式の断片を、片端から書き留めていく。記号と数式と、魔法陣の素描。思考の速さに、手が追いつかない。一つ書けば、また次の発想が連なってくる。
窓の外では、陽がゆっくりと傾きはじめていた。茜色に染まりかけた光が、静かに部屋へと差し込んでいる。




