第64話
表裏
大船団が全滅したのが最大契機だったと思う。
西の民はお金をたくさん手にする順に列を成し、帝国軍の支配下にない南に向かって遁走した。
西には人でも魔物でもない妖精族の里があり、その血を受け継ぐ一族当主が大陸全土を守っていた。
故郷に残った貧民たちは彼方に前途を委ねたが、しかし結局、帝国軍は上陸――。
西を制圧した。
「お母さん、お父さん……わたし、お腹空いちゃった……」
わたしのような戦災孤児は数えきれないくらいいて、親を亡くし、身を寄せ合って必死に生き長らえていた。
無法地帯の貧民街には大人たちも残留し、幸い、現状北の魔の手はここには届いていなかった。
……しかし、それも長く続けば問題ばかりが増えていき、取り分け飲食物についてはとっくに限度を迎えていた。
わたしたちは小さな子供で食料確保も儘ならず、世界規模の戦時中で他国の支援もないのである。
わたしはご飯が食べられなくて、日に日に痩せ細っていき……。
貧民街のその片隅で、一人で蹲っていた。
「――両目を閉じて、じっとしてて」
「へ……?」
「声を出さないでね」
頭の上から聞こえた声に返事をする間もないままに、わたしの身体は何とも言えない浮遊感に包まれた。
次の瞬間、気付けば、わたしはとある民家の二階にいた。家主を失くした無人の家だ。
貧民街の一家である。
「驚いたよね。ごめんなさい」
「あっ……」
「一先ず、これどうぞ」
同室内には、綺麗な綺麗な一人の女性が立っていた。
我が身に起きた不思議な現象、正体不明のお姉ちゃん。
しかし何よりわたしが一番その目を注目させたのは、床に並べられた食べ物!
身体が勝手に動いていた。
「はぐはぐ! がつがつ、がつがつ! ごくっ!」
「ふふふ。ゆっくり食べてね」
「……」
お姉ちゃんはとても優しい笑顔でわたしを見つめていた。けれども、彼女は傷だらけで、衣服も異常に汚れていた。
お姉ちゃんがどこの誰で、何を経たのか不明だが、笑顔の割にはとても窶れた、そんな目顔を浮かべている。
「お姉ちゃん、一体、誰……?」
「……」
「火事場泥棒さん……?」
「あっ、嘘だよ! 冗談だよ!」――わたしは慌てて訂正した。
しゅんと肩を落としてしまったお姉ちゃんを励まして、わたしは彼女の両手を握り、助けてもらったお礼を言う。
「わたし、ラナン。助かったよ。お姉ちゃんは?」
「……リコリス」
「そう! お姉ちゃん、見ない顔だし、街の人ではないんでしょ? だったら、ここには何にもないよ。ただの貧民街だし……」
「……」
戦に乗じて無人の家屋を荒らす、そんな人もいる。お姉ちゃんはそういう悪事を働く人ではないようだが、だったら一層、こんなところに彼女がいるのは謎だった。
「この街、とっても治安が悪いの。怖い大人の人がいて。街の外まで案内するよ。安全な道、教えて――」
「!」
立ち上がろうと、膝を立てたその瞬間に頽れる。
酷い眩暈。お姉ちゃんがわたしの身体を支えていた。
「あれ……? 何だろ。可笑しいな。身体が言うこと聞かない……」
「……」
「お姉ちゃんにご飯を貰って、いっぱい、元気が出たのに……」
「……」
お姉ちゃんがわたしの眼球、心音、腹部を確認する。
彼女は眉間に皴を寄せ、悔しそうに歯噛みをした。
「栄養失調。衰弱してる。わたしの魔法じゃ治せない……」
「……?」
「今すぐお医者に行こう。ラナン、この街、病院は?」
ある。あるが、診察料も薬代も凄く高い。とてもわたしは受診できない。
お姉ちゃんにそう伝えた。
すると、彼女は革の袋を取り出し、袋を逆さにした。その中からは煌々輝く金貨が一枚落ちてきて、床に転がり、お姉ちゃんは金貨を拾って、眺め見た。
「これが最後。お金は全部使った。あとは、わたしが――」
「……?」
「ラナン、聞いて。金貨を使って、病院、行っておいで」
「えっ!」
驚いた。金貨といえば、銅貨の万倍の価値がある。
それを、わたしなんかのために……? 一体、どういうことだろう。
金貨なんて、今の今までわたしは使ったことがない。触ったことさえありはしない。
それほど、貴重なものなのに。
「駄目だよ! そんな高価なもの……それに、最後の一枚でしょ?」
「いいの。ラナンが救われるなら、わたしはそれが嬉しい」
「……」
わたしの手掌に金の貨幣をそっと乗せては、握らせて、お姉ちゃんはこくりと頷き、再びにこりと微笑んだ。
「一人で立てる?」――わたしの身体は何とか動いた。大丈夫だ。
病院までのその道程を、歩くくらいは……できると思う。
「だけど……」
「ラナン、わたしはね。とっても悪い魔法使い。たくさん人を傷付けたから、その贖罪をしているの」
「……」
「ほんとはラナンと一緒についていってあげたいけど、わたしは悪い魔法使いで、人と会ったりできないから……」
「ラナン、病院、一人で行ける?」――わたしの両肩に手を添える。
お姉ちゃんは心配そうにわたしのことを見ていたが、こくりと首肯し返事をすると、彼女は「よし」と頷いた。
『それじゃあ、ラナンの外来の後、再度ここに集合ね』
『美味しいもの、もっともっとたくさん持ってくるからね』――お姉ちゃんは初対面のわたしにとても優しくて、心の底から親切であり、天使のような人だった。
金貨を握り、病院までの街路を一人で歩いていく。
こんな大金、持つのは初めて。わたしはとても緊張した。
病院までの道筋にある、最後の小さな曲がり角。
ついつい、浮かれて歩調が弾む。
通院した後、わたしは――。
「きゃっ!」
大きな大人の男の人が、わたしを見下ろし、睨んでいた。
曲がり角で人とぶつかり、わたしは倒れてしまったのだ。
強く強く握り締めた金貨が零れ落ちてしまう。
煌々輝く綺麗な金貨が、ゆっくり、地面を転がった――。
……。
…………。
………………。
「――」
……。
…………。
………………。
「……?」
目覚めた時、わたしの前にはお姉ちゃんが立っていた。
ただでさえも大きなその目を更に大きく丸くして、わたしを見て、膝を落とし、自分で自分を抱き締める。
わたしは肉体と分離していて、霊体化してしまっていた。
身体が地面に転がっている。
わたしは死んでいたのである。
「……戦女神、見てたんでしょ。何があったか、教えて」
「……?」
「ねえ、お願い。教えてよ。どうしてこんなことに……」
「……」
気付けば、わたしのその隣りには一人の少女が添っていた。
わたしと同齢くらいの女児だ。
彼女が、ゆっくり口を開く。
聞けば、わたしは金貨を奪われ、暴行されてしまったらしい。
「お姉ちゃんの金貨を返して!」――わたしは必死に抵抗し、男の人を激昂させて、乱暴されて。
そのまま……。
「……」
お姉ちゃんの足下には、潰れてしまった飲食物。色鮮やかな果物などが、紙袋ごと落ちていた。
お姉ちゃんは何も言わず、魔法陣を描き始める。
戦慄した。わたしなんかに魔法の知識はないのだが、虚ろな瞳をしている彼女が、今は……。
とても怖かった。
「お姉ちゃん、駄目……っ! 嫌……っ!」
「……」
「リコリスお姉ちゃん!」
青い色の魔法陣が一つ、宙に完成し、鋭く尖った氷の矢針が発生――。
術者に正対した。
「……っ!」
わたしが次の悲鳴を上げる間もなく、先んじて、氷の矢針はお姉ちゃんに向かって射出。
撃ち出された。
お姉ちゃんの自分の魔法だ。彼女に保身の意識はない。
両手で顔を覆い隠し、わたしは左右の膝を折る。冷たい風が頬を撫でた。
わたしは、その目を閉じていた。
「……」
しんと静まり返り、物音一つしない中。
誰かがわたしの頭を撫でた。隣りの少女だ。刮眼する。
更に一人、どこからともなくお兄ちゃんが現れて、お姉ちゃんの氷の魔法を、素手で……?
受け止め、制していた。
「どうしてわたしの邪魔をする……? いつもいつも、お前は……」
「……」
「何とか言ったらどうなんだ……」
「つまらん真似をするんじゃない」
お兄ちゃんが氷の矢針を砕いた。その手は凍傷していた。
お姉ちゃんは目面を伏せたままで、表情は見て取れない。
霊体であるわたしは直ちに彼女のもとへと駆け寄って、抱きつき、はっきり宣言する。
貴女のせいではないのだと。
「お姉ちゃんは悪くないよ?」
「……」
「分かった?」
「……ありがとう」
お姉ちゃんはわたしの霊体を強く強く抱き締めて、その後、腕組みお尻を向ける、お兄ちゃんへと詰め寄った。
「クローバー」
「ああ? 何だよ」
「……」
「……」
「礼を言う」
お兄ちゃんの背中を叩き、お姉ちゃんは姿を消す。
お姉ちゃんは、決意に満ちた、そんな両の瞳をしていた。
ラナンキュラス・ゴールドコイン




