第65話
引水
四十歳になったその日に仕事を辞めると決めていた。
先日、俺は四十路になった。戦時中だが、退職した。
四十歳での離職希望は二十の時から決めていて、二十年間、この日が来るのを待ち侘び、今まで過ごしていた。
別にやりたいことがあるとか、そういうわけではなかったが、余生くらいはゆっくりしたいと密かに思っていたのである。
若い頃から必死に勤め、充分貯金を用意して、これから楽しい老後の暮らしを謳歌しようとしたのだが。
俺の前に現れたるは、戦女神……ヴァルキューレ。
人の死没の宣告者が、銀髪を靡かせ――。
降臨した。
「おい、嘘だろ。冗談だろ……?」
「……」
「俺、死ぬのかよ」
戦女神は生者の前には決して姿を現さない。現すならば死者の前だ。
つまり、俺は死ぬのである。
「嫌だ嫌だ! 今の今まで勤倹力行してきたのに! 俺の人生、これからなのに!」
「……」
「謝れ!」
「ごめんなさい」
「謝るのかよ」――俺はぐにゃりと、力なくして頽れる。
家賃は銀貨三枚の賃貸。
俺は一人で狂乱した。
「死にたくない! 死にたくない! 誰か! 助けてください!」
「……」
「ちなみに死因と死亡時刻は?」
「間もなく、心筋梗塞です」
「怖すぎる!」――のた打ち回り、俺はぎゃあぎゃあ騒いでいた。
駄々を捏ねては戦女神を困らせるのも一頻り、俺はふいと静止した。
天井を仰いで、沈黙する。
「……」
思えば、いつでもどこでも一人きりの人生だった。
終わりよければ全てよしだと子供の頃から信じていて、優雅に終幕させるための生涯を設計したのである。
友人、同僚、家族でさえも最低限に付き合って、女なんて作ったことは……ただの一度もなかったな。
俺は金も時間も丸ごと自分のために使いたい。そういう風に思っていたのだ。
心の底から、本気で……。
「……」
「お時間です」――戦女神が、俺の死没を宣告する。
羽根筆一本、羊皮紙一枚、机の中から取り出して、俺はぎしりと椅子に座る。
戦女神が隣りに立つ。
「俺は別に孤独だなんて思ったことはなかったよ。ほんとに一人が好きだったんだ。今後も一人でよかった」
「……」
「自分が死ぬ時、貯金なんかは零でいいと思ってた。たったの銅貨の一枚さえも、残さず……死にたかったのに」
遺書を残し、遺書を枕に俺は机に突っ伏した。
戦女神が覗き込む。
「中身は何を書いたのか」と。
「こないだ、故郷の実の兄貴に子供が産まれたらしいんだ。実家のこととか、全部纏めて兄貴に丸投げしてたから……まあ、最後に罪滅ぼし。許してくれるか知らないけど」
遺書には、俺の財産全てを兄に譲ると記している。
ふん。せいぜい、自分の子供に贅沢させるがいいだろう。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……何だよ」
「許してくれますよ」
頭を撫でられ、何も言えない。俺はすぐに外方を向く。
四十歳を子供扱い。
全く、不遜な女神である。
レンゲ




