第63話
厭婚
北の大陸の臍に聳える賢者の塔の最上階。
空の隣りの研究室にて、わたしは先日、憤死した。
しかしわたしが天に召されず未だに残留しているのは、憤死理由のその問題が解決してはいないからだ。
賢者と呼ばれる存在となり知恵や知識を身につけても、森羅万象、全ての理解を腹に落としたわけではない。答えの出ない難儀な問いにわたしは苦渋を嘗めてしまい、そうして命を落とすまでに悩み抜いてしまったのだ。
「……君にはわたしのこの苦しみが、疑問の答えが分かるかい?」
死した賢者に勘付いたのか、戦女神が現れる。
賢者の塔の最上階の空の隣りの研究室。
そこで、わたしは訪問者である戦女神を出迎えた。
「……賢者ハイド。貴方の重苦はわたしも理解に及んでいます。魔王の降臨、人間の戦争、奪われ、散りゆく命たち。そんな世界の憂い、陰りを貴方も嘆いていたのでしょう」
「……」
「……わたしは戦女神。戦女神ヴァルキューレ。わたしが問いに答えることで貴方の心が晴れるのなら、わたしは如何なる設問だろうと嘘偽りなく解答します」
力強いそんな言葉に、わたしは大きく首肯した。
わたしが死した起因となった、空前絶後の大問題。
目先に佇む戦女神に、その難題を一投する。
「人にとって結婚とは、一体、何なんだろうね……?」
「……」
戦女神は「はいはい、うん」と、頻りに頷き続けている。
「ああ、すまない」――わたしは先んじ、説明不足を謝罪した。
「つまりね、こういうことなのだよ。このわたしには交際している恋人、一人の女性がいて、今後のことを見据えてほしいと先日、わたしは言い寄られた。その子は外見、内面ともに欠点皆無の女性であり、わたしは彼女と籍を入れるか、心の底から悩んだ」
「……え?」
「そう。そんな交際相手に何を迷うと思っただろう。実はわたしの憤死理由は彼女云々などではなく、わたしの持論が発端なんだ。少し話を聞いてほしい」
わたしの父母は夫婦であるのが不思議なくらいに不仲であり、わたしが小さな子供の頃から喧嘩ばかりを続けていた。四人も子供を作っておいて何なんだという話だが、とにかく二人は口論ばかりで、我が家は荒んでしまっていた。
そんな家庭の環境内でわたしが常々思ったのは、人が結ばれ、夫婦になるのは不都合だということである。
思うに、結婚生活自体に難題、課題が多いのだ。
交配、出産、教育とて、自分の子供がまともな識者になれるかどうかは分からない。家事の分担、仕事の両立、親族追従、ご近所媚び。こういうご時世だからこその資金難も当然あり、それらの全てが夫婦二人の仲違いの起因になる。
こんな状況、こんな条件、こんな欠点、危険度で、結婚なんてわざわざ好んで夢見ることなどないだろう。
交際している女性に対して、かける言葉も見つからず、感極まったわたしは遂に非業の最期を迎えたのだ。
「恐らく、人は生物単位で飽き性なのだと思うのだよ。飽きやすければ一つ所に留まる暮らしをしなくなり、人は未知の経験を経て生物的に成長する。きっと人はそういう風に、進化するようできていて、神は我々人間たちにそんな本能を仕込んだのさ」
「……」
「故に、わたしたちに婚姻制度はそぐわない。飽きたら不倫、飽きたら別居、飽きたら敵対、飽きたら離婚。死ぬまで相思相愛なんて、一割、二割の確率だろう。いくら何でも割に合わない。そんなの博打もいいところだ」
わたしは多くの友人たちの結婚式を眺めてきた。彼らは充分満ち足りていて、とても幸せそうだったが、残念ながらそんな笑顔は長く続きはしなかった。そうなるまでの期間でいったら夫婦間での差はあれど、ほとんど全ての既婚者たちは結婚を後悔していたのだ。
現に周りを眺めやれば、一目瞭然だと思う。
離婚経験ありの男、女手一つの一人親、父母が別れてしまった子供……。
そういう人間ばかりだろう。
「十中八九がそうなるなら、残りの一割、二割になるよう趣向を凝らせばよいのでは?」
「多くの男女はそういう夫婦を目指して結婚するんだろう。しかしどんなに良縁でも、将来二人の関係性など誰にも予想はできないだろう」
「……」
「さあ、教えてくれ。君の解答案を」
「……」
「人にとって、婚姻とは……正しい制度だと思うかい?」
戦女神は人差し指を顎に当てて考え込む。
かと思いきや、頭を抱えて一人でぶつぶつ喋り出した。
「カクタス、まあまあ、落ち着いて……わたしに任せてください」
「……?」
「ヤナギ、貴方の気持ちも分かる。後でね、一緒に遊びましょう」
どうやら彼女は従者たちと脳裏で会話をしているらしい。
しかし埒が明かず、話が進展しないと悟ったのか、彼女は一つ咳を払い――。
真摯な瞳で、こちらを見た。
「ハイド、わたしは命というのは、繫げるものだと考えます。番いとなって我が子を成し、そしてその子も我が子を成す。故に命は歴史を紡いで今なお存在しているのです。現に貴方も父母や祖父母が出会ったからこそここにいて、彼らが結ばれなかったならば、貴方は生まれていないでしょう」
「……」
「確かに人間たちが番いとなるのは不自由で、人が一人で生きることで得られるものもあるでしょう。だからわたしは貴方の意見を否定する気はありません。しかし貴方は人が本来得るべきものを得ておらず、それらを手にする喜びさえも感じることはできないのです」
「賢者としては、手痛いのでは?」――戦女神がわたしに問う。
わたしは二の句が継げないでいる。
目から鱗が落ちていた。
「……」
彼女の言う通りだ。わたしは我執が過ぎていた。
わたしが妻子を持つかどうかはわたしだけの課題でなく、わたしの家族や親族たちにも重要であることだった。人にはそもそも生物として子を産み、育てる役目があり、子孫を繁栄させる責務を誰もが背負っているのである。
「不承不服はありませんか」と、戦女神が付け足した。
女神としての彼女の御身に、威光が、後光が射している。
合点がいった。ようやく分かった。
臆していたのはわたしである。
わたしは彼女に跪いて、死後の忠義を誓約した。
「答案、これでよかったでしょうか」
「ああ。痞えが下りたと思う」
「いや、わたしが一番びっくり。意外と普通な話で」
「……うん?」
理解の至らぬ謎の言葉を何やらこっそり零した後、首を横にふるふる振って、戦女神はこちらを見た。
「それでは、今から出向きましょうか。交際相手のもとへ」
「え……」
「事の顛末、別れの言葉、相手に伝えるべきでしょう?」
半ば無理矢理、腕を握り、わたしを塔から引き摺り出す。
「待ってくれ」と懇願するが、彼女は聞いてはいなかった。
「戦女神よ。落ち着いてくれ。敢えて出向くことはない!」
「貴方は結婚を度外視しながら女性と交際していました。相手に対して不義理であった。説明責任、ありますよね」
迂闊だった。臣従した故、わたしは彼女に逆らえない。
賢者なのに、没後なのに……わたしはまたもや迷っている。
誰か、交際相手に対する弁解を、わたしに教えてくれ。
ハイドレンジア




