波音の中で
「――まったく、馬鹿だね、アンタは」
漁村の女、トキは、呆れたように目を細めてアルダを見た。
潮風に晒され続けた肌に刻まれた皺が、さらに深く寄る。
アルダは、膝の上で編んでいた漁網の手を、ぴたりと止める。
指先に絡んでいた糸が、わずかにたるんだ。
「……なんでよ」
顔も上げずに、ぶっきらぼうに返す。
間髪入れず、怒声が飛んだ。
「なんでじゃないだろ。断る理由がどこにあるんだい!」
浜にいた女たちが、びくりと肩を揺らす。
だが、誰も口を挟まない。
「アンタみたいにフラフラしてる身で、あんな話が転がり込んでくること自体があり得ないんだ」
荒い息。
「飯だって、寝床だって、保証される。身分だって変わる――それに」
トキは、じろりとアルダを見下ろし、わざとらしく間を置いた。
「見ただろ、あの方。涼しげな目元で、すっと背も高くてさ。あの綺麗な顔立ち――」
周囲の女たちが、思わず小さく頷く。
ぽそりと誰かが、
「確かにねぇ……」
と漏らした。
アルダは、その言葉にぴたりと手を止める。
ゆっくり顔を上げて――露骨に顔を歪めた。
「あんな、なよっちいの、好みじゃないよ」
さらりと言い放つ。
数人の女が、こらえきれずに吹き出す。
「もっとこう――男はさ、筋骨隆々で、どっしりしてないと」
「ちょ、あんた……王様相手に何てこと言うんだい……!」
トキは額を押さえた。
アルダは、もう興味を失ったように、再び網を編み始める。
「だって大事でしょ、そういうの」
ぽつりと落とす。
「……それに、別に困ってないし」
指先で糸をいじりながら、淡々と続ける。
「飯も食ってるし。寝るとこもあるし。海もあるし」
トキの口が、ぱくぱくと開閉する。
言葉が出てこない。
やがて――
「……あんたねぇ……」
力の抜けた声が漏れた。
怒鳴る気力すら、少し削がれている。
トキは、しばらくアルダを見つめていたが、ふっと鼻で息を抜いた。
「……アンタだって、器量はいいんだからさ」
アルダの手が、わずかに止まる。
「その気になりゃ、道はあるだろうに……わざわざ損な方ばっか選ぶんだからね」
呆れ半分、諦め半分の声音。
「分かってないよ。ほんとに、分かってない」
アルダは、何も答えない。
再び、手を動かし始める。
網の目を、一定のリズムで編んでいく。
規則正しく。
迷いなく。
「……あの方はね」
トキが、低く言う。
「アンタを拾おうとしたんじゃないよ」
アルダの手が、わずかに止まる。
「欲しいって言ったんだ」
静かな言葉だった。
アルダは、何も言わない。
ただ、指先の糸を見ている。
「……そんなの、そうそうあるもんじゃないんだよ」
ぽつりと落ちる。
波の音が、間を埋める。
しばらくして。
アルダは、また手を動かし始めた。
「……知らないよ、そんなの」
小さく、ぼそりと。
それだけだった。
トキは、もう何も言わなかった。
言っても無駄だと、分かっている顔だった。
浜には、いつもの音が戻る。
糸を引く音。
波の音。
遠くで鳴く海鳥の声。
アルダは、淡々と網を編み続ける。
ただ――
一度だけ。
結び目を、ひとつ間違えた。




