海人族
小舟は、ほどなくして岸へ着いた。
入江の奥。
見覚えのある漁村だった。
人影が集まる。
最初は遠巻きに――
やがて、はっきりと動揺が広がる。
「王……!」
誰かが声を上げた。
濡れたままの久奴藝の姿。
そして、転覆の報せ。
村人たちの顔から血の気が引いていく。
数人が、その場で膝をついた。
「も、申し開きもございませぬ……!」
「我らが船で、このような――」
声は震え、言葉にならない。
死罪。
その言葉が、口に出されずとも場に満ちていた。
久奴藝は、濡れた袖を軽く払う。
「よい」
短く、落とす。
ざわめきが止まる。
「不用意だったのは、私だ」
事実を、そのまま告げる。
それ以上でも、それ以下でもない声音。
村人たちは顔を上げられないまま、固まった。
「顔を上げよ」
静かに言う。
強くもなく、だが逆らえない響き。
ゆっくりと、いくつもの顔が上がる。
「責は問わぬ」
それで終わりだった。
「しかし、王」
低く、割って入る声。
臣下のスセリだった。
濡れた衣のまま、なお背を崩さず立っている。
「いかに御意とはいえ、船を出したのはこやつら。王の御身を危険にさらした責は――」
「スセリ」
言葉を、途中で切る。
強くはない。
だが、明確に線を引く声。
スセリは口を閉ざした。
久奴藝は、わずかに視線を外す。
――その先。
少し離れた場所に、あの女――アルダがいた。
何事もなかったかのように、濡れた髪を絞っている。
周囲の騒ぎにも、まるで関心を払っていない。
異物のように。
ただ、そこにいる。
視線が、自然と引き寄せられる。
(……まただ)
胸が、高鳴る。
先ほどよりも、はっきりと。
理由は分からない。
だが、目を逸らせない。
「……王?」
スセリの声が、わずかに低くなる。
異変に気づいた声音だった。
「……あの者は?」
久奴藝は、視線を外さぬまま問うた。
スセリが一瞬だけ言葉に詰まり、アルダへと目を向ける。
濡れた髪を指で梳きながら、こちらを見ている。
その視線と、まっすぐにぶつかる。
「あんた、王様だったんだね」
けろりとした声。
場の空気が、一瞬で凍る。
誰も、言葉を発せない。
不躾――などという次元ではない。
王に向ける態度では、到底ない。
村人たちが、弾かれたように動いた。
「も、申し訳ございませぬ……!」
「この者は……我らとは何の関わりもございません!」
慌てて否定する。
だがその言葉は、どこか歯切れが悪い。
完全に無関係と言い切るには、躊躇がある。
久奴藝は、その揺らぎを見逃さない。
「関わりがない、とは」
静かに問う。
村人の一人が、顔を伏せたまま答えた。
「……村の者では、ございませぬ」
それだけ。
だが、それでは足りない。
久奴藝は沈黙で続きを促す。
やがて、別の男が、低く口を開いた。
「……時折、現れるのです」
言葉を選ぶように。
「海のほうから……ふらりと」
視線が、無意識に女へ向く。
「漁の手伝いをすることもあれば、何もせず去ることもある……」
そこまで言って、口をつぐむ。
言いたくないのではない。
どう言えばいいのか、分からないのだ。
誰かが補う。
「潜りが……異様に巧みでして」
別の声。
「深いところでも、息を継がずに戻ってくる……」
「嵐の前でも、平気で海に入る」
「……流れを読む目も、我らとはまるで違う」
断片が、積み重なる。
どれも具体的でありながら、核心には触れない。
そして最後に、ぽつりと落ちる。
「……海人の類ではないかと」
その一言で、空気がわずかに沈んだ。
畏れと、距離。
混じり合った感情。
久奴藝は、再びアルダへ視線を戻す。
変わらずそこに立っている。
まるで、話の当事者であることなど意に介さぬように。
◇
海人族と呼ばれる者たちは、浜に根を張る漁民とは異なる。
特定の土地に縛られず、舟とともに移り、海そのものを生活圏としていた。
彼らは小型の船を操り、島から島へと渡る。
沿岸に留まらず、外洋へも出る。
潮の筋を見抜き、風の変化を読み、星の位置を手がかりに進む――そうした航海術を、経験としてではなく、初めから備えているかのように扱った。
潜水にも長けていた。
浅瀬ではなく、底の見えぬ深みへ潜り、貝や海産物を採る。
沈んだ荷や流された物資を探し当て、引き上げる。
通常の漁民では届かない領域を、彼らは活動の場としていた。
その技術は、沿岸の村々にとって有用だった。
漁獲は増え、失われた物は戻り、海の変化をいち早く知ることができる。
嵐の兆しや潮の乱れを読む力は、船を出すか否かの判断にも直結した。
外との接触も多かった。
彼らは海路を通じて、遠方の知識や物資を運ぶ。
見慣れぬ道を知り、見たことのない海を語る。
その情報は、内陸や沿岸の人々《ひとびと》には持ち得ないものだった。
共同体に属しきらず、しかし排することもできない。
海の向こうと繋がる術を持つがゆえに、重宝され、同時に異質と見なされる――そういう位置にあった。
◇
語られている内容が自分のことだと分かっているはずなのに、アルダはまるでどこ吹く風だった。
村人たちの視線も、声の重さも、彼女の上を滑っていく。
濡れた髪を指で梳き、指先から落ちる水滴をただ眺めている。
久奴藝は、その前に歩み出た。
ざわめきが、わずかに引く。
距離は近い。
海の匂いが、まだ強く残っている。
ようやく、アルダの視線がこちらに上がる。
「――助けられた」
短く、言う。
飾らない。
王としての体裁も、今は置いた。
「命を、救われた」
視線を外さないまま、続けた。
アルダは、一瞬だけ瞬きをした。
それから――
ふっと、笑った。
「大げさだね」
肩をすくめる。
「たまたま近くにいただけだよ」
何でもないことのように言う。
その無造作さ。
命のやり取りすら、重さを持たせない距離感。
胸の奥で、再び鼓動が強く打つ。
知らない。
こんな感覚は、これまで一度も。
理屈ではない何かが、そこにあった。
ただ、はっきりしているのは――
目を離したくない、という衝動。
(……知りたい)
思考よりも先に、感覚が立ち上がる。
(この女のことを)
何者なのか。
どこから来て、どこへ行くのか。
なぜ、あの海の中で――ああも当然のように動けるのか。
久奴藝は、わずかに息を整えた。
視線を、逸らさずに。
「アルダ」
名を呼ぶ。
その響きが、自分の中に妙に残った。
「――共に、投馬国に来てくれ」
言葉は短い。
だが、揺らぎはなかった。
周囲の空気が、わずかに張り詰める。
誰も声を挟まない。
王の言葉として、その意味を理解しているからだ。
「お前の力は、ここに留めておくには惜しい」
それは命令ではなかった。
だが、選択肢を与える響きでもない。
アルダは、しばらく何も言わなかった。
ただ、久奴藝の顔をじっと見ている。
その視線は、測るようでも、試すようでもなく――
ただ、見ている。
やがて。
「え、やだ」
あっさりと、言った。
迷いもなく。
その場の空気が、凍りつく。
誰かが息を呑む音がした。
スセリの気配が、鋭くなる。
だが、アルダはまるで気にしない。
「窮屈なの、好きじゃないんだよね」
さらりと続ける。
王の誘いを断ったという認識すら、ないような声音だった。
波の音だけが、やけに大きく聞こえる。
誰も動かない。
誰も、次の言葉を持たない。
久奴藝は、しばらく黙っていた。
拒絶された、という理解はあった。
だがそれ以上に――
胸の内で、何かが静かに沈んでいく。
先ほどまで確かにあったはずの高鳴りが、波が引くように、すっと遠ざかっていく。
残るのは、説明のつかない空白だけだった。




