転覆
――少し前。
海は、穏やかだった。
入り組んだ入江に沿って点在する漁村。
波は低く、風も静かで、海面は陽を受けてやわらかく光っている。
普段と変わらぬ――そう言って差し支えない海だった。
久奴藝は、舟の中央に立っていた。
視察の名目は、航路の拡大。
この先、外へ出る道が取れるかどうか。
それを、自分の目で確かめるための船出だった。
「この先は、普段は出ません」
舳先近くで櫂を握る村人が、低く言う。
声は抑えられているが、拒絶に近い響きが混じっていた。
「危ういか」
久奴藝は短く問う。
「潮が割れておりまして……流れも、急になります」
言い淀む声には、経験からくる警告が滲んでいた。
知っている海の外側に、足を踏み入れることへの本能的な抵抗。
久奴藝は、海の先を見据える。
航路の拡大には、この方角を避けては通れない。
「ならば、尚更見ておく必要がある」
村人は小さく息を飲む。
「……ですが、かなり危うい潮でして」
久奴藝はようやく視線だけを寄こした。
「通れるかどうかだ」
静かな声だった。
沈黙が落ちる。
海風だけが、船の縁を撫でていく。
やがて村人は観念したように頷いた。
「……承知しました」
櫂を握り直し、船はゆるやかに進む。
やがて、海の色が変わった。
表面は変わらず穏やかだ。
だが、筋のように濃い流れが、所々に走っている。
船の下で、水が擦れる。
見えない何かが、船底を撫でていく。
久奴藝は足裏に意識を落とす。
わずかな揺れ。
だが不規則だ。
村人たちの動きが、目に見えて慎重になる。
「……右へ寄せます」
誰かが言う。
久奴藝は首を振らない。
止めない。
その沈黙が、そのまま許可になる。
最初の揺れは、ほとんど気づかぬほどだった。
船が、横に流れる。
「……?」
櫂を握る手に、わずかな迷い。
次の瞬間、船体が傾いた。
「待て!」
村人の一人が声を張る。
全員が一斉に体重を寄せる。
ぎし、と船が鳴る。
だが、まだ浅い。
傾きは止まり、ゆっくりと――戻る。
水面が水平に戻っていく。
誰かが息を吐いた。
助かった、と。
――その直後だった。
下から、叩き上げるような衝撃。
「なっ――」
言葉が切れる。
今度は逆方向から、強い流れがぶつかった。
船が、跳ねる。
浮いた――その一瞬の軽さのあと。
叩きつけられるように、傾く。
「離れろ!」
叫びが上がる。
だが、もう遅い。
先ほどと同じ動き。
同じように傾き――
だが、戻らない。
重心が、抜ける。
船が、自ら崩れるように傾いていく。
覆る。
船ごと。
世界が、裏返った。
空と海が反転する。
足場が消える。
身体が、放り出される。
水が、すべてを飲み込む。
音が潰れ、光が砕ける。
何も掴めないまま、久奴藝は沈んでいった。
◇
――そして、今。
久奴藝の意識は、浮上するように戻ってきた。
触れているのは、硬い木の感触。
いつの間にか、丸木を刳り抜いただけの小舟に引き揚げられていた。
身体は重い。
だが、生きている。
視界の端で、水滴が落ちる。
顔を向ける。
女は、濡れた髪を無造作にかき上げ、当然のように舟に腰を下ろしている。
荒い呼吸ひとつしていない。
久奴藝の視線に気づくと、口の端をわずかに吊り上げた。
「あたしはアルダ」
ためらいもなく、名乗る。
「あんたの名前は?」
問いは軽い。
だが、逃がさない響きがあった。
わずかに息を整える。
「……久奴藝」
声が掠れる。
それでも、名は落ちた。
「クヌギ、かぁ」
アルダはその音を転がすように繰り返す。
そして――
遠慮なく、全身を眺めた。
値踏みするように。
隠す気もなく。
「生っ白いお坊ちゃんって感じだね」
ニッ、と。
不敵に笑う。
その無遠慮さ。
その距離の近さ。
久奴藝の心臓が、再び大きく跳ねた。
先程から、自分の心臓が自分のものではないように制御が効かない。
久奴藝は、こういう感覚を知らない。
常に、平静であることを良しとしてきた。
揺れぬこと。
乱れぬこと。
それが王としての在り方だと、疑いもしなかった。
だからこそ、務めは滞りなく果たされてきた。
判断に迷うことも、激情に呑まれることもない。
心が動くのは、せいぜい鹿狩りの時くらいのものだ。
それすらも、昂りというよりは――研ぎ澄まされる感覚に近い。
昨年、王子が生まれた。
だが――
その事実を思い出しても、胸はわずかに波立つだけだった。
いまだ、どこか現実味を持てずにいる。
ふと、妻の顔がよぎる。
不安定な女だった。
荒れ狂うように怒声をぶつけたかと思えば、次の瞬間には絡みつくように甘えてくる。
理解しようとすること自体が、徒労に思えた。
いつしか、宮に留まる時間は減っていた。
外へ出る理由は、いくらでもあった。
――それで、よかったはずだ。
少なくとも、これまでは。
だが今は違う。
目の前の女から、目が離せない。
理由が分からない。
理解もできない。
ただ、心臓だけが――
勝手に、暴れていた。




