青い瞳
海は、すべてを知っている。
けれど――何ひとつ、語らない。
人がこの地に根を下ろす、はるか昔から。
幾千、幾万もの朝と夜を、ただ静かに見つめ続けてきた。
生きとし生ける者を、その大きな揺り籠に抱き。
ただ満ち――
ただ引く。
何も語らぬまま、静かな顔で、すべてを受け入れている。
けれど、時に――海は、その深い底から、ひとつの運命を拾い上げる。
ある者には、容赦のない死を。
ある者には、思いもよらぬ新たな命を。
そして――遠い潮の彼方から、まだ誰も知らない出逢いを運んでくる。
◇
海面には、砕けた陽の光が無数に散っていた。
それは、穏やかな輝きではない。
沈みゆくほどに、光の粒は遠ざかっていく。
泡の擦れる音も。
海の向こうにある世界の輪郭も。
すべてが濃藍の闇へ溶けるように、薄れていった。
投馬国王――久奴藝は、ただ遠ざかる光を仰いでいた。
重く押しつぶされた胸には、わずかな息すら残っていない。
手足を動かそうとしても、海水は重い鉛のように全身へ絡みつく。
抗う力さえ、少しずつ奪われていった。
(……だから、海は嫌いなんだ)
薄れてゆく意識の中で、苦々しい独白だけが浮かんだ。
自分の鼓動さえ、分厚い氷を一枚隔てた向こうから聞こえてくるようだった。
(私は……ここで終わるのか)
不思議なほど、落ち着いていた。
死への恐れは、いつの間にか消えていた。
ただ深い静けさだけが、王としての誇りさえ包み込み、そのまま深みへ連れていこうとしていた。
――その時だった。
何かが腕を掴んだ。
強い力だった。
水の重さなど気にも留めないように、沈んでいく身体を一気に引き上げてゆく。
視界が大きく揺れた。
海の底と空の境が、ぐるりとひっくり返る。
身体を押さえつけていた重さが消えた。
身体が浮かび上がる。
次の瞬間――
海面を突き破った。
眩しい光が、目に刺さる。
空気が一気に肺へ流れ込んだ。
久奴藝は激しく咳き込みながら、ようやく現実へ戻った。
咽せ返る潮の苦み。
喉を焦がすような痛み。
――それが、自分がまだこの世にいる証だった。
荒い息を吐きながら、久奴藝は自分を引き上げた者の姿を捉えた。
女だった。
陽光に濡れて、浅黒い肌がきらめいている。
濡れた髪は海藻のように肩へ張り付き、倭国の者とは明らかに違う雰囲気をまとっていた。
だが――
その異なる姿さえ塗りつぶすほどに、久奴藝の目を奪ったものがある。
深い青の瞳。
透き通っているのに、その奥は見えない。
まるで海の底を閉じ込めたように、どこまでも深かった。
息をすることすら忘れ、久奴藝はただ見つめていた。
王として、これまで幾多の美しいものを見てきた。
それでも今、その心はあまりにも無防備に奪われていた。
胸の奥で、規則正しく刻まれていたはずの心臓が、大きく跳ねる。
肋骨を打つほどに、激しく脈を打つ。
恐怖でもない。
苦痛でもない。
今まで知らなかった熱が、全身の血を駆け巡っていく。
(……何だ、これは)
戸惑う久奴藝を、女は深い双眸で静かに見つめていた。
やがて、濡れた唇を、ゆっくりと開く。
「死ぬには、まだ早いよ」
その声は潮騒に溶けながら――
久奴藝の胸の奥へ、いつまでも消えない波紋のように染み渡っていった。




