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消えないもの




 投馬《とうま》の宮《みや》の空気《くうき》は、普段《ふだん》と何《なに》も変《か》わらなかった。


 人《ひと》は頭《こうべ》を垂《た》れ、視線《しせん》は床《ゆか》に落《お》ち、声《こえ》は抑《おさ》えられている。


 すべてが、いつも通《どお》りだった。



 ――そのはずだった。




「奴国《なこく》との交易《こうえき》について、申《もう》し上《あ》げます」



 低《ひく》く抑《おさ》えた声《こえ》が、座《ざ》の中央《ちゅうおう》に落《お》ちる。


 使者《ししゃ》の男《おとこ》は、膝《ひざ》をついたまま言葉《ことば》を続《つづ》けた。



「近頃《ちかごろ》、交易《こうえき》の量《りょう》に過不足《かぶそく》が見《み》られます。航路《こうろ》についても、先方《せんぽう》より再確認《さいかくにん》の求《もと》めがあり――」



 量《りょう》の調整《ちょうせい》。


 航路《こうろ》の擦《す》り合《あ》わせ。


 小《ちい》さな摩擦《まさつ》。



 これまで何度《なんど》も繰《く》り返《かえ》されてきた類《たぐい》のものだ。


 判断《はんだん》に迷《まよ》う余地《よち》はない。



 本来《ほんらい》なら。



 わずかに、間《ま》が落《お》ちる。


 男《おとこ》が顔《かお》を上《あ》げかけて、すぐに伏《ふ》せた。


 その動《うご》きが、波紋《はもん》のように周囲《しゅうい》へ伝《つた》わる。



 張《は》り詰《つ》める。


 その、わずかな歪《ゆが》みの中《なか》で――


 ふと、視界《しかい》の奥《おく》に、光《ひかり》が散《ち》る。



 砕《くだ》けた陽光《ようこう》。


 水面《すいめん》に細《こま》かく砕《くだ》け、揺《ゆ》れながら視界《しかい》を切《き》り裂《さ》く光《ひかり》。


 沈《しず》む感覚《かんかく》。


 音《おと》が遠《とお》のき、輪郭《りんかく》がほどけていく静《しず》けさ。



 ――海《うみ》の色《いろ》の瞳《ひとみ》。



 揺《ゆ》れない。


 あの光《ひかり》の中《なか》で、ただひとつ。


 沈《しず》んだまま動《うご》かない色《いろ》。



 久奴藝《くぬぎ》は、意識的《いしきてき》にそれを断《た》ち切《き》った。



 関係《かんけい》がない。


 今《いま》は政務《せいむ》だ。



「……減《へ》らせ」



 短《みじか》く、落《お》とす。


 声《こえ》はいつも通《どお》りだった。


 揺《ゆ》らぎもない。



「はっ」



 即座《そくざ》に応《おう》じる声《こえ》。


 張《は》り詰《つ》めていた空気《くうき》が、音《おと》もなく緩《ゆる》む。


 それで終《お》わる話《はなし》だった。


 いつも通《どお》りに。



 だが。



 何《なに》もないはずの場所《ばしょ》に、微《かす》かな引《ひ》っかかりが。



 目《め》には見《み》えない。


 形《かたち》もない。


 それでも、確《たし》かにそこにある。



「殿《との》?」



 スセリの声《こえ》。


 低《ひく》く、しかし鋭《するど》い。



 久奴藝《くぬぎ》は、ゆっくりと顔《かお》を上《あ》げた。



 問題《もんだい》はない。


 言葉《ことば》も、判断《はんだん》も、間違《まちが》ってはいない。



「……続《つづ》けよ」



 それで場《ば》は動《うご》く。



 滞《とどこお》りはない。


 報告《ほうこく》は進《すす》み。


 声《こえ》は重《かさ》なり。


 やがて消《き》えていく。



 何《なに》も変《か》わらない。



 ――そのはずなのに。



 ふとした拍子《ひょうし》に、割《わ》り込《こ》む。



 光《ひかり》。


 水《みず》。


 沈《しず》む静《しず》けさ。


 そして。




『窮屈《きゅうくつ》なの、好《す》きじゃないんだよね』




 声《こえ》が、響《ひび》く。


 軽《かる》く。


 ためらいもなく。


 場《ば》を読《よ》むことすらせずに。


 ただ落《お》とされた一言《ひとこと》。



 久奴藝《くぬぎ》は、無意識《むいしき》に眉《まゆ》を寄《よ》せた。



(……窮屈《きゅうくつ》、か)



 宮中《きゅうちゅう》を見渡《みわた》す。


 柱《はしら》はまっすぐに立《た》ち、人《ひと》は定《さだ》められた位置《いち》に収《おさ》まり、動《うご》きは無駄《むだ》なく整《ととの》えられている。


 声《こえ》は必要《ひつよう》な分《ぶん》だけ発《はっ》せられ、それ以上《いじょう》は存在《そんざい》しない。



 乱《みだ》れはない。


 それが正《ただ》しいと、疑《うたが》ったことはなかった。



 だが。



 あの声《こえ》が、重《かさ》なる。



(……なぜ、考《かんが》える)



 必要《ひつよう》のないことだ。


 関《かか》わりは、あの場《ば》で終《お》わっている。


 そう判断《はんだん》した。



 だが。



 視線《しせん》を落《お》とした先《さき》。


 文《ふみ》の端《はし》に、わずかな滲《にじ》みがあった。


 麻紙《まし》の繊維《せんい》が、わずかに歪《ゆが》んでいる。



 海水《かいすい》か。


 それとも、ただの湿《しめ》りか。



 指《ゆび》でなぞる。


 ざらついた感触《かんしょく》。


 すでに乾《かわ》いている。


 当然《とうぜん》だ。



 それでも。


 消《き》えていない気《き》がした。



 形《かたち》ではなく。


 感覚《かんかく》が。


 そこに、残《のこ》っている。



(……アルダ)



 名《な》が、浮《う》かぶ。


 呼《よ》ぶ必要《ひつよう》のない名前《なまえ》。


 覚《おぼ》えている理由《りゆう》もないはずの名前《なまえ》。


 それでも、浮《う》かぶ。


 消《け》そうとする。



 不要《ふよう》だ。


 無意味《むいみ》だ。



 ――そう判断《はんだん》しているにもかかわらず。



 消《き》えない。


 むしろ、はっきりする。


 視線《しせん》が残《のこ》る。


 あの、揺《ゆ》れない瞳《ひとみ》が、残《のこ》る。



 久奴藝《くぬぎ》は、わずかに目《め》を伏《ふ》せた。



(……終《お》わっている)



 そう結論《けつろん》づける。


 だが。


 終《お》わったはずのものが、終《お》わらない。


 消《き》えないまま、そこにある。


 ただひとつだけ、取《と》り除《のぞ》けないものとして。




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