エルドリッジ
エルドリッジの寮は、海に向かって翼を広げた鳥のような形をしている。
両翼の接合部にあるのが管理棟だ。食堂が近いらしく、食事の匂いがしている。子供たちは学校に登校した後なのか、閑散としているが、一階のあたりには人の気配がある。
ディノは二階建てのその建物を見上げた。
ラルフは絶対にここにいる、という、妙な確信があった。
顔を洗う間もなく飛び出てきたので、まだどこかに眠気のしびれが残っている。
今朝――というより、ほんのついさっき。詰所のソファで熟睡していたディノは、ギュンターに揺り起こされて目を覚ました。
白紙の調書と、ディノの体にひざ掛けがかけられていたこと、カップラーメンの器が二つ、ローテーブルに残されたままだったことから、ギュンターは起こす前にうすうす事態を悟っていた節がある。
徹夜でレヴァンテの対処をしていたのだろうか、ギュンターは少し疲れた様子だったが、表情は明るかった。
『あの子は?』
訊ねた声は面白がっていそうな響きがあった。ディノは『はえっ!?』飛び起き、ギュンターよりだいぶ遅れて事態を察した。窓から見えるのは朝日だ。ラルフと話したのは昼過ぎだったのに。ということは一晩経っているということだ、めちゃくちゃよく寝た実感がある。昨日から微動だにしていないカップラーメンの器。寝る前に何を話していたっけ――事態をようやく悟って、ディノは声を上げる。
『あ、あいつ――!!』
『心当たりは?』
『あります!』
『そうか。今日は休暇だからな、好きにしろ。俺は部屋で仮眠する』
『はい、お疲れ様です!』
『あの子はな』
駆けだそうとしたディノは、ギュンターの声に振り返った。
ギュンターはとても楽しそうな――そして複雑そうな顔をしていた。うっすらと無精ひげが生えた顎を指でしごいて、ギュンターは言った。
『あの子はルクルスだ。ああいう子が、ルクルスにはたまに生まれるそうだ――』
「何のご用ですか」
めんどくさそうな声に現実に引き戻された。
管理棟の一階にはカウンターがあって、エルドリッジ寮の管理人が応対に出てきていた。小太りの、五十がらみの男だった。よれたつなぎを着ていた。名札に『ベルトン』という名が刻まれている。
ディノはベルトンに言った。
「エスメラルダの保護局員です。ご協力を願います。こちらに最近エスメラルダ国籍の子供が入寮したはずです。彼女を呼び出してもらえますか」
「え――」
ベルトンは瞬きをした。ディノはその先の反応に備えた。
休暇ではあるが、念のため身分証は持っている。現金も持ってきた。いつ要求されても良いように、身分証ケースのスリットに入れてある。
ラルフが手続きをしたとしたら昨日のはずだし、あんなに綺麗な子で、おまけにエスメラルダ国籍の人間だ。ぜったいに記憶に残っているはずだ。
ベルトンの目がうろうろと動いた。ディノは、まだ騒ぎは起きていないらしい――と思う。
しかしこの反応は何だ。あまりにも動揺しすぎじゃないか。
「ええ……ああ……ええと……しばらくお待ちください」
「……お願いします」
ベルトンが踵を返し、ディノは胸元に下げた鎖につけていた箒に命じた。箒は小さく縮んだまま鎖を外れ、ベルトンの後ろを滑ってその背中にくっついた。ベルトンは気づかずに、サンダルをパタパタ鳴らしながら奥へ行く。扉を開けて、中へ入った。扉が閉まる前に見えたその中は、リネン室のようだった。
軽く目を閉じて、箒と視界を同調させる。ベルトンは寮の両翼のどちらへも向かわなかった。リネン室を通り過ぎ、管理棟の廊下をまっすぐ進む。屋根も壁もある渡り廊下だ。窓があるのに薄暗かった。左側の壁には窓がなく、右側の窓の外にはうっそうと茂った木立があって、日の光を遮っているのだ。
ディノは目を開けて、壁にかかっている避難経路の描かれたパネルを見上げた。リネン室の向こうの廊下はやはり渡り廊下で、南側(左側)にボイラー室。北側(右側)は中庭になっている。渡り廊下の先にあるのは『倉庫』と書かれている。乗り物が倉庫に乗り入れるための中庭ということらしい。
こんなに木が茂っていたら中庭は死角になるな。
そう思った時、ベルトンが扉を開けた。渡り廊下の途中に作られた、中庭に出るための出入り口だ。ベルトンは明らかに焦っていた。うっそうと茂った木立をかき分けるようにしていくと、その声が箒を通して聞こえ始めた。
『――がねえわけねえよな? エスメラルダって言えば世界一のお金持ちじゃねえか。学費だって国から全部出してもらえるんだろ』
なんと。
ディノは眼を開け、歩き出しながら、内心ほっとしていた。
ラルフが騒ぎを起こす、その寸前に間に合ったらしい。ありがたい。
『ヴァロ、エスメラルダの保護局員が来てる』ベルトンがせかせかと言っている。『その子はダメだと言っただろう。エスメラルダ人に手を出すな。保護局をわざわざ介入――』
『うるっせえな、あんたはすっこんでろよ!』
木立を抜け、中庭に出た。箒はベルトンの背中から離れて少し周囲を見渡せる、高い場所に陣取った。そこから見下ろすと、果たしてラルフがいるのが分かった。中庭はうっそうとした藪と粗大ゴミだらけだった。資材や様々な木材などが積まれてあちら側からの視線を遮れるバリケードのようなものができていて、寮で廃棄された二段ベッドのフレームや穴の開いたマットレスなどが内側に配置されていた。酒瓶がゴロゴロ転がっている。
ヴァロと呼ばれた少年――というよりもはや『男』と言えそうな体格の〈ボス〉は、二段ベッドの下の段にふんぞり返っていた。その近くに取り巻きがいた。少女もいる。ヴァロのお気に入りらしく、ヴァロの隣でしなだれかかって、ニヤニヤ笑いながらラルフを見ている。獲物が引き裂かれるのを楽しみに待っている獣みたいな目だ。ほかにも、ラルフの行手を阻むように四人もの手下たちが陣取っている。
ラルフは木立の方に追いやられていた。年齢も体重も少なくて、ひどく頼りなく見えた。狩られるのを待つ小動物みたいに、今来たベルトンの方に縋るように数歩歩いた。
怯えた様子に刺激されたか、ヴァロは嗜虐的な笑みを浮かべて二段ベッドから立ち上がり、ラルフの方へ近づいていく。
『金がねえならバッジを出しな。俺にはな、ドゥランっていうギャングの知り合いがいるんだ。お前みてえなのは高く売れる。イェルディアはエスメラルダみてえな楽園と違ってさ、子供も働かねえと生きていけねえんだ』
『バッジを――』
『金が払えねえならここにはいられねえ。それがここのルールなんだ。俺もギャングとは上手くやって行きたいからさ、金がねえならお前を売らなきゃなんねえ。ドゥランさんがお前を見たらきっと高値をつけるだろう。――でもさ』ニヤリとヴァロは嗤った。『特別に――俺に従うってんなら、仲間に入れてやってもいいぜ』
『ちょっと』
ヴァロにしなだれかかっていた少女が咎める声をあげ、ヴァロは笑った。
『いやぁお前が一番さ、当然だろ?』
『ヴァロ、ダメだって、』
『うるせえよ!!』
ベルトンが上げかけた声を、ヴァロの怒声がかき消した。
『エスメラルダの保護局員に何ができるってんだ! なんだかんだ言って追い払ってこいよいつもみてぇによ!』
腹立ち紛れに酒瓶を叩きつけ、ベルトンがひっと後ずさる。
ディノは扉の前で思案した。通常の子供が恫喝を受けているのならもうとっくに踏み込んでいるのだが、ラルフがドゥランを蹴落とした時のことを思い出すと、もう少しヴァロが墓穴を掘るのを待ってもいっかな、という気がしている。
エスメラルダの保護局員は、エスメラルダが関わっている事件にしか介入できない。
つまりこの機会は、千載一遇と言える。
シャルロッテが寮に入れないのも、ヴァロたちがのさばっているからだ。ヴァロの隣にいる少女が女子寮に入ってきた子を品定めして、ヴァロの前に呼び出してくる役目を担っている。管理人が協力していることまではつかめていなかったが、なるほどこれでは、今回の『商品』にエルドリッジ五年生の少女が含まれていた理由もわかる。
つまりこのままでは、シャルロッテが上の学年に上がっても安心できないということだ。
こいつらをなんとかしてまともな管理人がくれば、こんな死角もなくなるはずだし、シャルロッテの卒業も現実的になるだろう。
扉をそっと開け、木立の中に入る。潮の香りに混じって、酒の匂いと、血の匂いがした。甘いものが焦げたような、特徴的な匂いまで感じる。ドゥランはそんなものまで渡してたのか。
暗澹たる気持ちになる。今まで手をこまねくしかなかった間に、いったい何人の子供が、騙されたり陥れられたりしたんだろう。
ベルトンの小太りの背中が見えるところまで足音を忍ばせて近づく。いつでも飛び出せるように体勢を整える頃、ラルフが言った。
「仲間って、あんたの? どんなことすんの?」
「そりゃおめえ、人によるさ。使いっ走りとかだが、まあお前は女だからな、ほかの仕事があるだろ。後で教えてやるよ。どんな仕事をするにせよ、俺の命令にはなんでも従ってもらう。でもその見返りに――」
ヴァロは滔々と、得々と、自分の仲間になることで得られる様々な特典について語った。聞くに堪えない。
――ルクルスには、時折、あの子のような子供が生まれるそうだ。
今朝、ギュンターがそう言った。ガストンがルクルスと協定を結んだ過程で、ラルフの保護者に当たる存在から聞かされた話。
ラルフは幼い頃からその片鱗を見せていた。三ヶ月で寝返りをし五ヶ月でハイハイをし七ヶ月で歩き始め、一歳ちょっとでとんぼ返りをするようになった。あまりの成長の速さに、保護者たちは震撼したという。
史上最悪といわれる狩人、【炎の闇】と、同じだったからだ。
【炎の闇】――グールドは、ラルフより一回り以上年上の、同郷だったのだそうだ。グールドは手のつけられない暴れ者に育った。十二歳になる頃には、グールドを止められる大人は誰もいなかった。化け物のように扱われることに嫌気がさしたグールドは、十六を待たずに島を出て、立派な狩人になって、大勢の魔女を殺しまくった。エスメラルダの雪山を何ヘクタールも焼き、魔物を放った。【魔女ビル】に乱入してレイエルを何人も撃った。最期はエスメラルダの保護局員を人質にして立てこもり、最悪の犯罪者として殺された。
――ラルフには同じ轍を踏ませたくない。
保護者はそう言ったのだそうだ。
グールドは幼い頃から押さえつけられ、能力などないもののように振る舞えと言われ、できなければ罰を与えられて育った。
だから保護者は、ラルフを任せると言われた時、その逆をやることにした。お前は素晴らしい才能を持っている、だからそれをみんなのために使えと言い聞かせた。ごく幼いうちから漁をさせ、船の操り方を教え、さまざまな仕事をさせた。あの子の力は一人で持つには大きすぎると保護者は考えた。だから人の輪に溶け込み、仲間を増やし、その扱い方を覚えなければならない。
ちょっと間違えばみんなを恐れさせ怯えさせてしまうほどの力だ。
しかしないものにはできない。だから生かす道を探させたいと願った。
お前は一人じゃないと教えたい。絶対に見捨られないとわかってほしい。あの子の働きを喜び、搾取せず利用もせず、共に同じ目的に向かって進んでいける人間が一人でも増えて、あの子の力をみんなで支えられるようになれば、きっと大丈夫だ……
――目的さえ間違ってなけりゃ、思う存分やらせてやった方がいいのかな。
木立の中で、ディノはラルフの次の出方を待つことに決める。
ラルフがちらりとこちらを見た。ディノがいることに気付いているらしい。
ヴァロの長口上の間、ラルフは黙って聞いていた。口上が終わると、ラルフはヴァロに言った。
「仲間にはなりたくないよ。あんたみたいなのはもううんざりなんだ。島――故郷にもいた。勝手なルール作って、自分の思いどーりにしようとするヤツ。誰かの弱みを握って脅して自分だけいい思いしようとする。そっくりすぎてキモイくらい。そのオッサンのこともさ、なんか弱みを握って脅してんだろ?」
ヴァロはラルフが何を言っているのか理解できないようだった。
「は――?」
まさか断られるとは夢にも思っていなかったのだろう。
「バッジを出さないと殺すって?」ラルフはポケットを探った。「殺されたらたまんねーからこれ渡すよ」
ラルフがバッジを投げる。その瞬間ディノは木立から走り出た。パシッとヴァロがバッジを受け取ったのを確かめる。介入の口実は充分だ。せっかくなので身分証を掲げて、ずっと憧れていたセリフを言った。
「動くな、エスメラルダ保護局だ! ――エスメラルダの人間を脅迫、財産を強奪。現行犯だな。ベルトンさん、この寮で起こったエスメラルダ人の誘拐未遂事件についても、たっぷり話を聞かせてもらいますよ」
ベルトンは蒼白になって後ずさった。ヴァロがせせら笑う。
「外国の警察に何ができるってんだ。尻尾巻いて帰った方がいいぜ。ドゥランさんはこの辺りを支配してる。あの人に逆らったら、」
「ドゥランはもう捕まったよ。知らねーの?」
そう言った時にはすでに、ラルフはヴァロの目の前にいた。
ディノはこれを機に、『グールドそっくり』だというその身のこなしを拝ませてもらうことにした。昨日はゆっくり見ているどころではなかったが、こうして少し離れた場所から見ていると凄さがわかる。その体裁きには一切の無駄がない。重力を自在に操っているのではないかと思えるほどだ。ラルフの1.5倍の身長、体重は3倍はありそうなヴァロの体がやすやすと宙を舞って、ディノは思わず拍手をするところだった。
しなかったのはベルトンが、横合いから殴りかかってきたからだ。
割れた酒瓶を振りかぶり、「うああー!!」ひび割れた汚い声が迫ってくる。ディノは左手でベルトンの右手首を叩いて瓶を落とさせ、そのまま捻り上げた。背後に回り、体重を乗せて地面に叩きつける。背中に膝を当てのしかかりながら時計を見た。
「――九時二十三分。公務執行妨害」
手錠をかけて、ディノはホッとした。ハルディン教官の言いつけどおり、まじめに訓練をしていてよかった。ラルフの前で箒に助けてもらうなんて真似はなるべくしたくない。
「あの……なんか縛るもん……ありますかね……」
ラルフが言った。もはやヴァロは、地面に長々と伸びていた。ディノが一人を制圧する間にラルフは取り巻きの一人も地面に沈めていた。少女とほかの取り巻きはとっくに逃げ、背中が小さく見えている。
「なんだその言い方」
「いやだって、その……怒ってるかな、って……」
「そりゃ怒ってるよ。人が寝てる間に勝手なことしやがって」
ラルフは唇を尖らせた。
「……疲れてそうだったから」
「違うだろ」ディノはそちらへ行って、ラルフが押さえつけている取り巻きに手錠をはめた。「邪魔されたくなかったんだろ。話したら俺が止めるって、思ったんだろ」
「……」
手錠はもう一つある。ディノは思案し、それをラルフに差し出した。
「やってみる?」
「え。……いいの?」
「いーよ誰も見てねーし。ここをこうやって押すと……」
ラルフがおっかなびっくりヴァロに手錠をはめた。ヴァロにそっくりだと言う故郷の人間は、誰なんだろう。
それが誰にせよ、そんな相手に嫌悪感を抱く人間に育ってよかったなあとディノは思う。
「取り調べしねーと……あ、ラルフ、バッジはヴァロに持たせたままにしとけよ。エスメラルダ人に手を出したって証拠だからな。なるべく急いでもらうけど、戻ってくるまでちょい時間かかるかも」
「……うん」
「で、ジョンのバッジ探すんなら今のうちだぜ? あいつらが持ち出す前にみつけといた方がいいんじゃねーの」
言いながらディノは腕章を取り出した。
ギュンターの話を聞いてから、念のため持ってきたものだ。
「これつけとけば保護局の協力者ってことになるから。男子寮に入って証拠品押収すんの、誰かに咎められても押し通せるから。お前を実力で追い出せる奴なんてめったにいないんだろーし、さすがに銃までは持ってないだろうし、行ってくれば? 応援来るまでしか時間やれねーけど」
「あの……ディノ、怒ってんだよね? なんでそんなに」
「うっせーな、はよ行け」
しっしっと手を振ってやるとラルフは腕章を握りしめて踵を返した。




