宝物庫の絵
話が終わったのか、リエルダがタルトの皿を抱えてやってきた。と言ってもタルトはもうすっかりなく、皿に残っているのは生地のかけらだけだ。リエルダはマリアラの隣の椅子によじ登り、皿をマリアラの方に押しやった。
「もう一切れ、召し上がりますか? レモンタルトもありますが」
「うん、れもんも良いが、まずは同じのをもう一切れ馳走になる。こーひーも良いが、やはり茶の方が良いな。所望する」
「あ、はい」
フェルドが香茶を換えに立ち上がる。リエルダは嬉しそうににこにこして、マリアラを見上げた。
「次の方策が決まったか」
「はい、決まりました」
「うん、よかった。これからどうするか、聞いても良いかえ」
「はい、あの……責務をどうするか決める前に、まず、どんなものなのかを調べてみることになりました。今までその謎を調べてきた人たちについて、まずは知らなければと」
「うん、それでよい。ありがとう。自分の望みをしっかり手繰って、儂らの願いに引きずられ過ぎぬようにな。姐様も儂も、無理強いをしたいわけではない」
マリアラがタルトの大きな一切れをリエルダの皿に載せると、リエルダは嬉しそうに皿を抱え込んで、
「【風の骨】。もう見せてもよいぞ」
振り返らずにそう言った。
デクターが返事をして、立ち上がった。自分の個室に入っていったようだ。マリアラはリエルダに視線を戻し、
「……何をですか?」
「姐さまから【風の骨】が預かったものじゃが、あなた方の方針が決まるまで出さぬように頼んでおった」
デクターはすぐに戻ってきた。彼が持ってきたものは、大きな、使い込まれたスケッチブックだった。
テーブルの向こう側に回って、マリアラとフェルドの前に、そのスケッチブックをそっと置いた。表紙の角が少し千切れている。その破れは新しいが、その他の部分の使い込まれ具合に見覚えがある。
「それ、……レイルナートのだよね?」
「そう」デクターがうなずく。「ティティさんがレイルナートから〈水鏡〉を取り戻した時、おおむねあんたの行方を捜すのに使ったそうなんだけど、余った力でついでに描かせた絵があるんだって。見ると動き出して消えてしまうそうだから、まだ誰も見てないんだ」
それはまた、ずいぶん貴重だ。
「……見ていいの?」
「もちろんいいよ。責務について調べるんなら、手掛かりの一つになるはずだ」
マリアラは恐る恐る手を伸ばしてスケッチブックを開いた。間違いない、確かにレイルナートの持っていたものだ。1枚ずつめくっていく。以前も見た、さまざまな絵があった。ラセミスタの絵があった。水面に浮かんでいるマリアラの絵もあったし、フェルドが十特ナイフをくれたときの絵も、お菓子を作っているミランダも、お湯を避けるリンも、仕事中のダニエルとララも、そしてミーシャと一緒のフェルドもいた。ビアンカとデクターの絵も、トールの踏んだ石が不自然に浮いた、古ぼけたホテルの玄関の絵もあった。複雑な機械の中を写した絵もあったが、これは今までに見たことがない。
そのあと数枚の白紙を挟んで、その絵が現れた。
それは、素晴らしい景色だった。鉛筆で書かれているのが不思議なくらい精緻で美しい。ちらほらと樹木が見える。柔らかそうな緑の草々に覆われたなだらかな丘の上に、小さな、石造りの建物が立っている。その扉の前にいる、マリアラと同い年くらいの小柄な少女と、がっちりとした体格の男性。
――そして、絵が動き出した。
マリアラは息をのんだ。絵の中の少女が男性を手招きしながら建物に近づいていく。いつでも逃げ出せるような姿勢で、こわごわと建物を見ながら、壮年の男に何か言っているようだ。と、建物の扉が動いた。音は聞こえてこないが、少女がびくっとしたから、かなり大きな音がしたようだ。少女の口が動いた。『ほら!』と言ったに違いない。
少女に引っ張ってこられた壮年の男も、真剣な顔になっていた。少女を下がらせ、自分が扉の前に立つ。また扉が鳴って、少女が男を止めようとし、男はかまわずに扉をさっと開けた。
そのとたん、中から何かが飛び出した。
壮年の男の頭の上を、何か細くてまっすぐなものがすり抜けていった。少女も男も、それを追いかけて空を振り仰ぐ。それはものすごい素早さで飛んでいく。絵から消える前に、かろうじてその残像が見えた。
「……剣が飛んでる」
フェルドが呟く。マリアラは絵の中の建物に視線を移した。その建物の中にあるのは、祭壇――に、見えた。小さな台。綺麗な花が飾られている。いかにもご神体が祀られていそうなその台の上は、空っぽだ。
あそこに祀られていたのはさっきの剣だろうかとマリアラは思う。
その剣が、ひとりでに、勝手に空を飛んで、どこかへ行った。……そういうことらしい。
「……どこに?」
呟いた瞬間、絵が消えた。
そこに残っていたのは、真っ白な紙だ。今映っていたものがまるで嘘みたいにまっさらで、何も書かれたことなどないかのよう。
「エスティエルティナが、誰かを選んだ。……すごいな。九百年ぶりだ」
デクターが呟いて、ふうっと息をついた。いつの間にか一緒にのぞき込んでいたルッツとケティが顔を見合わせ、ケティが言った。
「エスティエルティナ? って、……闇の女神の?」
「ああ、今じゃ邪神の名前になっているけど、本来は違うんだ。剣の名前なんだよ。……ほら、王宮の地下で見ただろ?」
とそれはマリアラに言い、マリアラは、頷いた。
王宮の地下――媛とアルガス=グウェリンに会った時、エスティエルティナと呼ばれていた宝剣が、自ら飛んでアルガス=グウェリンのもとに戻ったことを覚えている。七色のまばゆい光を放ちながら、まるで自分の意思があるかのように、魔物を退けようと奮闘していた。けたたましいとシェスカは嫌がり、媛と一緒に水柱の中に閉じ込めた。
「この建物は、どこにあるんだろ」
フェルドが呟き、デクターが言った。
「ガルシアの……ミンスターという国にある」
「ミンスター」聞いたことがある。「……ラスの友だちの、出身地だったよね? 葡萄酒が美味しいって言ってた」
「そう。エスティエルティナがそこにずっとあったことは、前から知ってたよ。アナカルシスの王子様がエスメラルダのお姫様をさらって逃げたって、有名な話があるだろ。実際のところ、さらったというより助けたっていうほうが正しかったんだけど」
マリアラはフェルドを見た。
そのフェルディナント王子の名前を付けられたことで、フェルドがどんなにからかわれていたかということは、ミシェルから聞いている。ベネットにも、そっとしといてやれ、って言われたっけ。フェルドは何も言わない。マリアラはデクターに視線を戻した。
「う、……うん」
「そのお姫様はマイラという名前で、媛のひ孫にあたる。エスティエルティナが最後に選んでいたのがそのお姫様なんだよ。王子はその姫を助け、エスティエルティナごとリストガルドに連れて行った。で、そこに小さな国を作った。ミンスターという、草原の宝玉と謳われた、小さいけどとても穏やかで住みやすい国だった。
エスティエルティナは最後の持ち主が生涯を全うした後、そこに大事に祀られていたんだ。俺の知る限り、ずっとそこにあった。五十年前にミンスターがガルシアに滅ぼされた時、ガルシアは戦利品として、宝剣を持って帰った。……らしい。が、宝剣はいつの間にか祭壇に戻っていた。
それがようやく誰かを選んだということになるんだけど。肝心の、どこの誰のところに行ったのかは、映らないわけか……」
「これはいつ頃の絵かわかるか?」リエルダが訊ねた。「さっきの男か、娘に心当たりは?」
「少女の方は知りませんが、男の方はゴードですね。年齢が、四十そこそこってくらいだとすると……最近起こった出来事で、間違いないと思いますが」
「どっちの方角に飛んだかもわからぬか」
「うーん」
デクターは唸り、手帳を取り出し、挟んであった紙片をつまみ上げた。
小さく縮めてあったらしい。ぽん、という音とともに大きくなったそれは、古びた、大きな地図だった。
フェルドが息をのんだ。「地図だ……」と呻くようなつぶやきが聞こえる。デクターは気づかず、それをがさがさと広げた。彼自身が描いたものだ、とマリアラは悟った。使い込まれた、とても美しい地図は、ガルシアのあるリストガルドという大陸の地図なのだろうか。ずいぶん大きい。広げた新聞紙にもう片面を足したくらいの大きさだ。
スケッチブックの上にそれを広げる。デクターは立ち上がって地図を覗き込み、一点を指した。
「ここがミンスターです。あの祭壇は南に向かって建ってる。扉がこっち向きに開いていて……」
フェルドが両手で顔を覆っている。気持ちはわかる、とマリアラは思う。フェルドはいまだにデクターの名前すら呼べないのだ。慎重に慎重を重ねて自制し、いつも微妙な緊張感をもってデクターに接している。それがいきなり本人の手によるものが明らかな地図など出されてしまっては、情緒を整えるのにしばらくかかるだろう。
「エスティエルティナが向かったのは――こっちですね。アスモス大湖がある方角か……こんなところに人が住んでるのかな」
「フェルドさん、どうしたの?」
ルッツが小さな声で訊ね、フェルドは顔から手を離した。
「なんでもないよ?」
「……そう?」
「まあ、エスティエルティナを捜すのは後でもよかろう。そのうち、おのずから現れるやも知れぬし。ずいぶん役者が揃ってきたものじゃの」
リエルダはそう言って、タルトの最後の一口を食べた。
デクターが地図をしまおうとし、フェルドが声を上げる。
「まっ」
「ん?」
「えっと……その……その……これからどういうとこ通っていくのか……おし、えて、もらえれば……」
「ああ」デクターは頷き、地図の西側に当たる部分を指した。「このあたりに〈扉〉がある。この辺は世情が良くないんだ。この辺で泊まるのは避けたいから、なるべくその日の早い時間に通りたい。マティスを予約してあるけど、追剥ぎだの夜盗だのが出るから、三日……いや、二日は交替で寝たほうがいいと思う」
「……わかった」
「このあたりはずっと荒野だ。ほんと、遮るものが何もない、延々と続く平べったい場所。風が強くて体温を奪われるから、防寒着が必須。買ったよな?」
「買った」
「急ぐと五日で行けるけど、かなり大変だから、十日かける予定にしてる。ちょっとルートを逸れるけど、ここに小さな集落があるだろ。ここで二泊くらい休んだ方がいいと思う。温泉が湧いてて、珍しい料理があるんだ。1メートルくらいあるでかい蜥蜴の燻製なんだけど――」
「えっすげー食ってみたい」
リエルダはそれを聞いて苦笑し、ポンと椅子から飛び降りた。
「儂は〈水鏡〉を調べに行く」
「あ、お待ちください」
マリアラは急いでティティへのお土産を準備した。一口大のレモンケーキと、ホールで買ったベリータルトを包んで、袋に入れる。
「リエルダさん、これ、ティティさんと一緒に召し上がってください」
「おや、ありがとう。姐さまも喜ぶ」
リエルダは嬉しそうに受け取った。そのままとことこと浴室へ歩いて行く。フェルドとデクターは気づかず、声をかけようとするとリエルダが止めた。
「別にみんなで見送ってもらう必要はない。楽しそうじゃからそのままにさせておけ」
「はい」
マリアラがついて行くと、リエルダは小さな声で言った。
「……アデルがの」
「はい、アデルさん。料理人の」
「うん。あの子が……また出かけた」
深刻な言い方で、マリアラは、アデルが出かけたことを、リエルダが決して喜んでいないと知った。
「……そうなんですか」
「うん、じゃから姐さまの店はしばらく休み。まあ、姐さまの体にとっては良いかもしれぬ。あの子も……儂はな、マリアラ」
「はい」
リエルダは言い淀んだ。
しばらく迷い、考え、そしてリエルダは、言葉を飲み込んだようだった。浴室の扉を開け、中に入っていきながら、悲しそうに微笑んでリエルダは言った。
「……あなたに会わせたい。きっと、よき友になれる」
「はい……」
「ではな。何かわかったらまた来る」
「あ――」
リテルダは、そのまま貯めてある綺麗な水に飛び込んだ。
来てくれた礼も言えなかった。
覗き込んでも、もういなかった。ゆらゆらと揺れる水の奥に、浴槽の底が見えている。
リエルダがどうして急に悲しそうになったのかがわからなかった。アデルはどこへ行ったのだろう。なぜリエルダは、アデルが出かけるのが嫌なのだろう。
しばらくそのまま佇んでいたが、玄関の方が急に騒がしくなって、マリアラは振り返った。ミシェルの賑やかな声が聞こえる。ミシェルがシャルロッテを連れてきたのだ。仕事が片付いたというなら、今日はミシェルも一緒に晩ご飯を食べられるのだろうか。
マリアラは浴槽の水を抜いて、リビングの方へ戻って行った。




