今後のこと
フェルドとルッツが買ってきてくれた食べ物はどれも美味しかったが、マリアラが一番好きだったのはレモンケーキだった。
エスメラルダでレモンケーキと言うと、レモン汁やピールを焼き込んだパウンドケーキのことだが、ここのは手のひらサイズのタルトだった。みずみずしいレモンを砂糖と蜂蜜で煮たジャムが入ったタルトの上に、輪切りにしたレモンのはちみつ漬けが載っていた。酸っぱいが、びっくりするくらい美味しい。
他にも、紙コップに入ったエビのフリッターや、ブドウやイチゴを透明な飴で固めたもの、焼きとうもろこしなどもあった。ケティは今までの旅の途中では見せたことのない、旺盛な食欲を見せた。なにか吹っ切れたかのようで、まるで以前のラルフみたいな食べっぷり。特にケティが気に入ったのは焼きとうもろこしと一口大の揚げパンだった。はちみつがかかっていて、サクッとした口当たりにはちみつのコクと甘さが合わさって、確かにとても美味しい。
今までずっと、ケティは、マリアラの前で――というよりフェルドの前で、大人っぽく振る舞っていたのかもしれない、とマリアラは思った。頑張って背伸びをしていたのかもしれない。『お淑やかに』するのをやめたケティは今、とても自然で、楽しそうに見えた。揚げパンの最後の一個をめぐって、ルッツとじゃんけんまでした。
普段と違うケティの様子を見ても、フェルドもルッツも何も言わなかった。さっきの〈あれ〉を、二人は見たのだろうかとマリアラは思う。はたからは、どういう風に見えていたのだろう。そしてあれはなんだったのだろう。フェルドから感じたあの熱は、〈あれ〉が感じたものなのだろう。焼かれる苦痛に苦しみながら、でも喜んでいた。〈片割れ〉がそこにいることに。
ケティの言葉が、思い出される。
――フェルドさんは、これからも、いろんなところで事故を起こすよ。
そうかもしれない。それはフェルドのせいではないが、備えはしておかなければならない。
みんなで食べている間も、片付けを終えて海辺で遊んで、帰りの(ちょっと空いた)屋台でお土産を買う間も、歩き出してからも、トラムに乗っている間も、着いてからホテルまでの短い道のりの間も、マリアラはずっと考えていた。〈あれ〉はなんだったのか。どうしてあんなにマリアラを憎んでいたのか。なぜ〈横取り〉なんて思われるに至ったのか――。
まだ明るい時間に、ホテルが見えてきた。
ティティはまだいてくれているだろうか、とマリアラは考えた。〈あれ〉はもうケティになんらかの影響をもたらすことはなさそうだけれど、できれば話を聞いておきたい。お土産に、レモンケーキのお店で、ティティの好きそうな焼き菓子をたくさん買ってきたから、召し上がってもらえたら嬉しいのだけれど。
そう思っていた時、少し前を歩いていたケティが振り返って、囁いた。
「マリアラさん。あたしね、まだ話していないことがあるの」
「……」我に返るのに少しかかった。「……えっ?」
「ビアンカという人を知っているよね。あたしも話したの。……助けてほしい、手伝ってほしいって、頼まれたの。ラルフも知っているけど……秘密にしてって言われたから、ラルフ以外では、マリアラさんにしか言ってない」
――ビアンカ。
マリアラはきゅっと唇を噛み締めた。あの人は、今、どうしているのだろう。イーレンタールに閉じ込められてしまったのだろうか。〈アスタ〉のカメラやスピーカーシステムに多大な不具合が出ていると、シャルロッテが話してくれたけれど……。
「あの人は、とても頑張っていたよ。あたしが生きてるのも、レイルナートさんだけじゃなくて、ビアンカさんが警告してくれたからなの。……それだけ、言って、おきたくて」
「うん……」
「黙っていてごめんなさい。言えなかったの」
「わかった。話してくれて、ありがとう。でもどうして、言えなかったの?」
――あなたには、教えてあげない。
今朝、〈あれ〉が言った言葉だ。口止めとは違う意味合いのような気がする。
ケティは悲しそうに言った。
「全部……あたしの先にマリアラさんがいるんだって、思って、悲しかったから」
「あ……」
「バカみたいだけど、そうだったの。でもね、ビアンカさんの頑張りを、伝えておかないとって思ったの」
「そう……ありがと」
「うん」
――あなたは、〈彼〉とやらに、決して、ビアンカのことを話してはいけません。
ヘイトス室長の戒めが思い出される。ケティが話してくれたのが、ホテルに入る前でよかった。
ああ、それにしてももどかしい。ビアンカに会って許可をもらうまでデクターには話せない、なのに、何とかビアンカを解放する方策を練る必要がある。早いところガルシアに行って、ラセミスタに会って相談しよう。ジェムズの準備ができたらいよいよガルシアへ向けて出発できる。
「ラルフが帰ってきたら、説得して、エルドリッジに行く準備をしないとね」
「うん、シャルロッテさんが、エルドリッジの案内してくれるって言っていたでしょ。ラルフも見学したら、その気になったりしないかな」
話しながらホテルに入ると、そこにリエルダがいた。
五歳くらいの年頃の、とても可愛い少女の姿。椅子の上に乗って、ダイニングテーブルの上を覗き込んでいた。フェルドとルッツが屋台で買ったものをそこに置いたところで、リエルダは興味津々と言う感じだったのだが――ケティとマリアラを見て、ポンと椅子から飛び降りた。とことことこちらへやってきて、
「こらこら。また悪い癖が出ておるな」
めっ、と咎めるようにマリアラに言った。
マリアラは驚いた。
「え、癖――?」
「こちらへ来やれ。何に憑かれた。何があった?」
リエルダはマリアラを個室に連れて入った。マリアラをベッドに座らせ、自分はその前に立って、しげしげと見る。
「何が出た。〈水鏡〉が出たと【風の骨】が言っておったが」
「ええと……はい、〈水鏡〉なんだと、思うんですけど……」
マリアラは話した。今朝、ケティの顔に黒いさざ波のようなものが走ったこと。ケティの声に混じって、別の声が響いたこと。海辺で、ケティから離れた〈あれ〉の異様な姿。自らの体に映ったケティの映像を摘み上げて飲み込んだ瞬間に、ケティそっくりになったこと。
リエルダは黙ってじっと聞いていたが、聞き終えると、ふーむ、と息を吐いた。
「……その存在の正体に心当たりはないのか」
「ない……と、思うんです、が。わたしをすごく憎んでいる様子でした。自分には片割れがいるべきで、いない今がおかしくて、それはわたしのせいだって。……どうして……」
「それそれ」リエルダはマリアラを指した。「それがいかぬ。それがあなたの悪い癖じゃ」
「……えっ」
「あの島で言うたじゃろ。あなたには訓練が必要じゃと。あなたは無意識に、相手の求めることには応じてやらねばと感じ、相手が何を考えていて、何を求めているのかを知ろうとする。困っているならどうにかしてやらねば、とな。……それはな、求め続ける存在にとっては一番甘美な反応じゃ。いったんその反応を見せたが最後、そやつは永遠にあなたにまとわりつく。その甘美な反応を味わおうと、あの手この手を使うてくる。あなたをののしり、揺さぶり、罪悪感を植え付けて、自分のための反応を引き出そうと躍起になる。……だからあなたは、訓練をせねばならぬのじゃ。自分の身は自分で守らねばならぬ。〈それ〉があなたを呪い嫌うのは〈それ〉の勝手。あなたが思い悩む必要はない。疑問は持っても良い。じゃが悩むのはやりすぎじゃ」
ああ、とマリアラは考えた。全く自覚がなかった。
「うう……はい……」
「一朝一夕でできることではないが、それでも弛まず、倦まず、訓練を続けねばならぬ。意識がな、〈それ〉に向きすぎて、あなたの輪郭からはみ出ておるぞ。しっかりおし。考えてもわからぬことは、わからぬということさえ知れば充分。そのまま、わからぬままにしておおき」
わからないまま、で、いいのか。
マリアラは驚き、そして、ホッとした。
リエルダは微笑む。
「よしよし、あなたはようやっておる。すぐにできぬのは当たり前じゃ。大渦に巻き込まれた人魚を助けるためにすべきことはな、真っ先に助けを呼ぶこと。決して一人でどうにかしようとせぬこと。平時ならば納得できよう。――しかしな、いざそうなると慌てて飛び込んでしまうものよ。みんなそうじゃ。じゃから訓練がいる。
島で教えた訓練を続ければ良い。あなたの体はどこまでで、あなたの心はどこまでなのか、きちんと自覚できるようにおなり。誰かに手を差し伸べるのは、その後じゃ」
「はい」
マリアラが頷くと、リエルダは、よしよしとマリアラの頭を撫でた。
それから扉の方へ行って、さっと開けた。
「【風の骨】。儂は一度〈国〉へ帰って、〈水鏡〉がどこへ行ったのか調べてみる。ちと時間がかかると思う」
そう言いながらリビングへ出て行き、マリアラもその後に続いた。
コーヒーの香りがした。心がホッと和らぐ。
フェルドは上着を脱いで、ダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら雑誌を読んでいた。ルッツは牛乳を飲みながらその隣で本を読んでいた。ケティはソファのあるローテーブルの方で、エルドリッジの書類を書いている。こぼさないためか、離れたところにコップが置いてある。デクターはコーヒーを片手にケティの近くで手帳を眺めていたが、リエルダに応じて顔を上げた。
「ありがとうございます。助かります」
「なにやらややこしいものに宿ったようじゃが、今はもうこの辺りにはおらぬ。ケティ、」
ケティは背筋を伸ばした。
「はい」
「ちと見せておくれ。何があったか話してくれるか」
「マリアラ、何か飲む? ――リエルダさんは、」
フェルドがそう言い、リエルダは、あとでいただく、と言った。マリアラは吸い寄せられるようにそちらへ行った。フェルドの近くにいると、いつもほんわりと暖かい気がする。とても居心地がいい、陽だまりみたいな空気。
海辺で感じた熱を思い出した。フェルドに吸い寄せられるように近づこうとして、熱に焼かれてもろもろ崩れた〈あれ〉の苦痛。自分のことのように感じたのは、意識が『はみ出て』いたせいだろうか。確かに訓練が必要だ。焼かれて崩れる苦痛を味わっていては、フェルドと一緒にいられない。
「香茶でいい?」
「うん、ありがとう」
「タルト食わね? なんか腹減った」
「わたしも。さっきあんなに食べたのにね。でも今日、シャルロッテのお迎え行くよね? 時間まだ大丈夫かな」
「あ、さっき【風の骨】から聞いたんだけど、ミシェルから連絡があったんだって。デカい仕事が片付いて、今日入れて三日休みをもらえることになったから、自分で行くってさ。今日はやっとゆっくり話せそうだな。ルッツは食う?」
「食べたい」
ルッツは皿を取りに行き、マリアラはタルトを切り分けた。今度のはナッツのタルトだ。表面に隙間なく並べられたナッツがピカピカ光っている。切り分けると、中までギッシリとナッツが詰まっているのがわかる。ブラウンシュガーの香りがたちのぼって、ルッツの鼻がぴくぴく動いた。
「すげーいい匂い」
「ラルフも早く帰ってくればいいのになー」
フェルドがそう言い、ルッツは真剣に頷いた。
「ほんとだよ。俺あっち持ってくね」
「ありがとう、ルッツ」
お盆を捧げたルッツがソファの方へ行った。マリアラはフェルドを見た。真剣な顔でポットにお湯を注いでいる。
「あのね、フェルド、話があるの」
「うん」
待ってましたという感じだった。マリアラは微笑んだ。
「ごめんね、遅くなって。あのね、〈水鏡〉が、なにか……なんだろ、幽霊、みたいな――」
「さっきちょっと見たよ。焼けこげた炭みたいな」
「そうそれ。それに宿ったみたい。それがケティに取り憑いたのかな。でもケティが追い払ったから、この近くにはもういないって」
「すげーな、ケティ」
「うん。でも、〈あれ〉はわたしのことを憎んでいるようだったから、また来るかも知れない。あれがなんなのかは、わからないんだけど……」
「うん」
「えっと……でね、わたし……今までね、ガルシアに行ってラスに会った後、どうするか、はっきりわかっていなかった。〈責務を果たす〉ということが、まだよくわからないし……でね、考えたの。わたしがやりたいことはなんなんだろうって」
「うん」
フェルドはカップに香茶を注いだ。ふわりといい香りがたちのぼった。その手はとても大きくて、ポットを扱う動きがとても丁寧で、あの手にあんなに丁寧に触れられたら、いったいどんな気持ちになるものだろうか、と考えた。
その手を見ながらマリアラは言った。
「……わたし、やっぱり、歴史学をやりたいの」
「うん。エルドリッジに行く?」
あっさりと言われて、マリアラは驚いた。
そうか、その道もあるのか。
そして、首を振った。
「ううん……うん、いつかは、もしかしたら……わからない、行きたいとは思うけれど、でも今は違うかな。わたし、責務のことが知りたいの。研究、したい、の。媛とアルガスさんが本当はどういう人生を辿ったのか知りたいし、ニーナやエルギンのことも知りたい。レジナルドが隠そうとした、さまざまな人たちの本当を、知りたい。それはきっと、責務を調べるということと、同じことじゃないかと思う。それに……ラスに会って、エスメラルダに……残してきた人の、ことを、どうしたらいいか相談しなければならないし……」
ビアンカを、あまり長いこと待たせたくなかった。
そのために何ができるのか、どういう対応をするのが良いのか、考えて対策を練るという意味でも、責務を調べることは重要だ。
ルッツが戻ってきて、タルトを食べ始めていた。
香茶のカップをマリアラに差し出して、フェルドも座った。
「うん、俺もそう思うよ。いいじゃん」
「……うん」
マリアラはホッとした。フェルドは自分のタルトを引き寄せた。フォークを突き刺して、言った。
「俺はさ、世界一周がしたいんだよなあ」
「うん。それは、わたしもしたい」
「でも――今すぐ切実に絶対に一周したい、ってわけでもないんだ。いつか絶対行くけど、後回しでもいい。つーか、とにかくエスメラルダを出て、自由にどっか行きたいっていうことしか考えてなかったから、今は……なんて言うかな、世界一周っていうよりか、いろんなもの見たい、てことしか考えらんないんだよな。マティスに乗ったりラテに乗ったりしたいし、山にも海にも滝にも森にも草原にも行きたいし、遺跡とかにも行きたいしさ。でさ、責務について調べるんなら、いろんなとこ行くだろ。それこそ、遺跡とかも」
「行く……かな?」
「行くだろ! ほらあの時さ、船で連れてってもらったエスメラルダの東の島とか、いかにも手がかりありそうだったろ?」
「……ほんとだ。そうだね」
「だから俺は責務について調べるのは大歓迎だよ。いろいろわかった上で、やっぱやっといた方がいっかな? ってなったらやればいーし、やめた方がいっかな? ってなったらやめればいーじゃん」
なんと。
マリアラは微笑んだ。今までぐるぐる思い悩んでいたことが、こう言われるとなんとも簡単そうに思えてくる。
「そうかあ、そうだねえ」
「そうそう。じゃあ、まずはガルシアに行ってラスに会って、フィとミフを再起動させて、そのあとは責務についてわかりそうなところをウロウロして、方策が立ったらエスメラルダに戻ったりするってことで」
「ふふふ、うん、そうしよう」
マリアラも、タルトにフォークを突き刺した。
一口食べると、とても濃厚な甘さだった。ギッシリ詰まったナッツの歯応えと、香ばしさの奥に、バターのようなコクとブラウンシュガーの風味。奥深い味わいだ。
「おいしい」
マリアラは呟き、
「美味いな」
フェルドも頷いた。
こういうものをフェルドと一緒に食べられるなんて。こんな日が来るなんて、思わなかった。




