訓練
ラルフがいなくなるとすぐ、ベルトンが哀れっぽい声を上げ始めた。なああんた――俺は違う――脅されて――仕方なく。あーうるせーと思いながらとりあえず詰所に電話をかける。出たのがレオナールだったので、受話器から溢れ出る嫌味や文句もしばらく聞き流さなければならなかった。潜入捜査任されっからってスタンドプレーがなんとかかんとか。ギュンターさんの寛容さの上にあぐらかきやがってうんぬんかんぬん。レオナールはつい先日保護局に入ってきたばかりのアナカルシスの人間だ。もとイェルディア警察だったのだが、組織の腐敗に嫌気がさしているところにギュンターに出会ってしまったのだ。即座に警察を辞め、エルドリッジで猛勉強して保護局に入り直した筋金入りだ。ディノの後輩ということになるが、年齢はあっちが上だ。まだ配属されたばかりで、ギュンターの班に入れていない。要するにディノがギュンターに重用されて、潜入捜査を任されているのが気に食わないのである。
レオナールが息継ぎをした隙間になんとか用件をねじ込み、パトカーを一台よこしてもらうよう漕ぎ着ける。その後に続いた嫌味もたっぷり拝聴してからディノは通信を切った。たぶんレオナールが来るんだろうなぁ、と、考えた。悪いやつではないのだが、鬱陶しいことは間違いない。
裏庭のバリケードの向こうは海だ。
海を見るとエスメラルダを思い出す。
こちらの海は、エスメラルダとは方角からして違う。ここでは、海から陽が上るのだ。
「海で泳げるしなぁ」
緯度的にはそれほど変わらないのに、夏の気温も全然違う。エスメラルダでは夏でも海水温が低すぎて、泳ごうとする人間はほんの一握りだ。それがイェルディア湾のほうは夏になると海水浴を楽しむ客でごった返す。色とりどりのパラソルが海岸を埋め尽くすさまは壮観だ。思えば遠くへ来てしまったものだ。ディノもだが、ラルフもだ。
――君をまだ、信じることができない。
ギュンターが昨日ラルフに言った言葉だ。
それはラルフも同様なのではないかと、ディノは思ったのだ。
ラルフはディノを信じていない。だからディノが眠ったのをいいことに一人でエルドリッジに乗り込んだ。結果として無事だったから良かったが、ラルフのようなエスメラルダの子供が、ヴァロたちがどんな武器や薬を持っているのかということまで、知っているわけがない。いくら腕っぷしが強くても、こういう奴らはいろんな手段を使うものだ。無事だったのはただの幸運なのだが、ラルフはそれすら理解しようとしないだろう。知識が足りなさすぎるからだ。
昨日の段階でラルフに、話が通じ相談できる相手だと思ってもらえなかったのは、ディノの落ち度だ。
ディノはラルフをその辺の十二歳だと思うのはやめた。
だからラルフにも、ディノをその辺の大人だと思われないようにしたい。
そしてできるなら、今のまま、ヴァロのような相手に嫌悪を感じ、捕まえる方でいて欲しい。――そのためにディノに何ができるのかはわからないけれど。
ディノは辺りを見まわし、隅の方にキャンプ用品などでよく見るアルミカップが落ちているのを見た。使い込まれていて、底が煤で汚れている。近くにキャンプ用のバーナーがあり、空のガス缶がいくつか転がっている。バーナーで煤があんなにつくとは考えにくい――ガスの補充を面倒がってオイルライターなどで炙ったのだろう。騙されてこんなの使われたりしたらどうするつもりだったんだ。
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。レオナールだろうか。今回の手柄は全部レオナールに譲って、早いところラルフを連れてフェルドの顔を見に行かなければ。いやその前にいったん家に帰ってシャワーを。眠気が戻ってくるのを感じながらディノは、ベルトンの声を聞き流しつつ、少し離れたところに見える海を眺めていた。とてものどかな気分だった。
まさか張り切りまくったレオナールが調書を取るのに付き合わされ、その日の夜まで拘束されるとは、夢にも思わなかった。
*
夜だ。
ラルフはまだ戻ってこない。
もう七時を回った。ラルフが欲しいと言った『三日』の終わりの時間は、具体的に何時だったのだろうとケティは思う。フェルドとデクターは『日付が変わるまで』という認識でいたらしいが、ルッツとマリアラは『日暮れまで』という認識でいた。ケティもそっち側だ。もう日もとっぷりと暮れたのに、一体どこで何をしてるんだろう。
立てないくらいだったのに。
車椅子に乗って行ったのに。
――やっぱりあの時探していれば見つけられたのでは、と考えてしまう。ルッツにこの気持ちをぶつけるわけにはいかない――日暮れからずっと、ルッツは黙りこくったままだからだ。ルッツの方は、ケティを守れという言いつけさえなければ、一人で探しに行けたのにと思っているだろう。
ミシェルが楽しそうにいろいろ話してくれるおかげで雰囲気は明るいが、もしミシェルもシャルロッテもいなかったら、きっと耐えられなかった。
ディノ、という人はまだ現れない。ディノはフェルドとミシェルの先輩で、マリアラも面識があり、今はイェルディアの保護局に勤めているそうだ。ミシェルと同じくディノも今日から休暇だそうで、このホテルに会いに来てくれるよう伝えたのだそうだが、ずっと激務が続いていたから一眠りしてからくるだろうということだった。
マリアラは玄関を気にしながらも、シャルロッテと雑誌を見ながらおしゃべりしていた。二人の話題はもっぱらリンのことだった。シャルロッテは【魔女ビル】でリンと通信機越しに話したらしい。そのあとは急な相棒編成と異動辞令でバタバタしていて、会えないままに来たそうだ。二人の話はケティの右耳から入って脳を撫でて左耳から出て行く。話題がマリアラの仮魔女試験に差し掛かったとき、ルッツが突然飛び上がった。
「ルッツ!?」
ルッツはものも言わずに玄関へ走り寄る。――バタン、とかすかな音が玄関の外で響いた。ケティも体を浮かせた。扉のわきにはめられたすりガラスの向こうでピカピカしているのは何だろう? 玄関へ走り、マリアラとシャルロッテも立ち上がる。フェルドがルッツに追いつき、ルッツが扉を開いた。
とたんに外で誰かがぼやく音が聞こえてきた。
「なんでアンタまで降りるんすか――」
「あれっディノさんじゃん」ミシェルがキリンみたいな長身を生かして玄関をのぞきこむ。「何してたんすか? 遅かったっすね」
「――ラルフ!!」
外でルッツが叫ぶ。ケティはその時ようやく玄関から外を覗くことができた。
外はずいぶん寒かった。車という名の大きな乗り物(赤いランプがピカピカしている)のすぐそばに、小柄な、明るい髪色の男の人がいる。車の反対側から、背の高いスーツ姿の男の人が出てくるところだ。なんでアンタまで降りるのか、と言ったのは小柄な方の人で、スーツの人はそれを聞き流した格好だ。
そして、小柄な男の人の向こうに、ラルフがいた。
ラルフは立っていた。車椅子がなくても歩いている。ルッツがラルフのすぐ前で急停止。何か言う前にラルフが、勢いよく頭を下げた。
「――ごめんルッツ。遅くなった」
「ほんと悪かったよ」と言ったのは小柄な方の人だ。「ほんとはもっと早く送ってこられるところだったんだ。事情聴取に手間取っちまってさ……番号聞いときゃよかったんだけど」
ルッツは何も言わない。両手を、固く、固く、握りしめているのが後ろから見ても分かった。ケティはミシェルとフェルドの隙間をすり抜けて外に出た。エスメラルダほどではないが、コートを着ていないと寒い。
「ラルフ、立ってる」
そういうとラルフがこちらを見た。
彼女に初めて会った時のことを思い出す。あの時は、ラルフが女の子だって知らなかった。【水の砂】という狩人に拉致された列車の中で、ラルフは熱を出していたけれど、【水の砂】からできる限りケティを守ろうとしてくれた。撃てよ、と言った時の凄みのある声を覚えている。外見が全然違う。でも、目は同じだ。
――孵化することが二度とないって? だから何?
――むしろざまあみろってなもんだ。
本気じゃないことが丸わかりの言葉だったが、リーザはラルフを決定的に敵に回すのを避けた。高熱を出して弱っていても、懐柔する方を選んだ。ああ、あたしは知っていたのにとケティは思う。ラルフは強い。そして優しい。信頼に足る子だとわかっていた。初めて会った時からずっと。
「ケティ、ごめん。おそくなってごめん」
「ほんと遅いよ、ラルフ。待ちくたびれちゃった」
「……ごめん」
「ルッツ」ケティはルッツの袖を引いた。「怒るのは、入ってからにしよ? 寒いし」
「待って。入る前に聞いて。ルッツ、ケティ、ほんとごめん。俺、相談もなしにさ、エルドリッジにもう入っちゃったんだ」
そう言ってラルフはポケットからバッジを取り出した。
「証拠品として一度押収されちゃって――俺もジジョーチョーシュされてて、帰っちゃダメって言われて。遅くなって、ほんとごめん。昨日書類書いて、先にバッジもらった。ケティ、世界一周の前に、俺やんなきゃいけないことができて……」
ルッツは何も言わない。ケティはラルフの差し出した手のひらの中のバッジをしげしげと見た。
真鍮でできた、錨のマークのバッジだ。ラルフがもらった身分証に書いてあるとおりの名前が彫られていた。
と、ルッツがやっと、ぶっきらぼうに言った。
「入れたの? 身分証、置いてったのに」
「次に来た時でいいって言われたんだよ。明日、持ってかないと」
「いいよもう」ルッツは言い捨てて踵を返した。「先行ってるよ。寒いし」
その声がもうすっかり涙声で、ケティは、今はそっとしといたほうがいいのだろうかと思う。ケティはラルフを振り返り、ラルフがすっかりしょげ返っているのを見た。「ふふっ」声が漏れてしまった。ラルフがケティを見て、ケティは笑う。
「事情聴取ってなに? ラルフ、何やらかしたの?」
「……えっと」
「当ててみようか? 昨日外で大騒ぎがあったの、あれに関わってるんでしょう」
ラルフが顔を上げ、ケティは笑みを噛み殺す。殺し切れなかった笑いが喉の奥で鳴った。
「もー、ほんとラルフってば、騒動に巻き込まれてないと元気がなくなっちゃうんだから」
「え、それ、どういう意味?」
「熱出してた時だってハイジャックされて元気になったんだもんねえ」
「え、何の話!?」
「しょーがないな、世界一周をやめてエルドリッジに行きたいんなら、あたしも付き合ってあげるよ。でもこれは、貸しだからね?」
「う、うん」ラルフは頷いた。「それはもう、どんな願いでも……えっと、なんか俺にできることがあれば何でも……」
ついにケティはこらえきれなくなって大きな声で笑い出した。
「あはっ、そんなのいいよ! あたしもラルフがいない間にいろいろあって、エルドリッジに行こうと思っていたんだ。ラルフが帰ってきたら、説得して丸め込んで、エルドリッジに一緒に来てもらうつもりだった。だからいいよ、一緒に行こ」
「そ――そうなの?」
「うん、でもほら、早く入ろ? 寒いし」
ラルフの手を掴む。その手は冷たかった。ホテルにラルフを連れて行く。フェルドとミシェルが場所を開けてくれた。
「ラルフ、お帰り」マリアラがにこにこしていた。「ご飯は食べた? お腹空いてない?」
「うーん、飯はもらったんだけど、腹は減ってる」
「ふふ、頼もしいなあ」
シャルロッテがお茶の準備を始めてくれている。ルッツは観葉植物の方で、本を読むふりをして体勢を立て直しているようだ。ダイニングテーブルのところでデクターが「おかえり」と言い、ラルフは、やっと少しホッとしたように笑った。
「ただいま」
*
久しぶりに見るディノは、エスメラルダにいたときよりもずいぶんがっしりしたようだ。ディノの方はラフなジーンズとフードのついたジャンパー姿。もう一人の人はスーツで、ディノの同僚ということだったが、あまり仲良くはないらしい、と二人の様子を見てマリアラは思う。
ラルフたちの後に続いてディノが来た。
「久しぶりじゃんマリアラちゃん、元気そうで良かった」
以前と変わらない口調でそう言って笑い、フェルドの二の腕を叩いた。
「よ。なんか大活躍だったんだって? ミシェルから聞いたけど」
「ディノさん、やっと会えた。忙しかったみたいですね。あの人は?」
「あの人は送ってきてくれただけだよ」
ディノの言い方で、これまでもだいぶ固辞してきたらしいことがわかる。スーツ姿のその人は、入る気はないらしかった。車をそのままにしているからだ。だが、ディノを追うようにこちらに歩いてきた。ディノが嫌そうな顔をする。
「まさかこいつらにまで事情聴取なんて言わないですよね?」
「……初めまして、エスメラルダ保護局、イェルディア特別出張所所属。新任局員のレオナール・ヴァルダンです」
レオナールはディノを無視して身分証を掲げて見せた。
「初めまして。上がりますか?」
フェルドが尋ね、ディノが「いや」と声をあげ、レオナールも首を振った。
「いえ、邪魔をする気はありません。ただ所長のギュンターより伝言を、言付かってまいりました」
「は!? 俺に言えばいいじゃないすか!」
ディノが目をむく。レオナールはディノのことがとても気に入らないらしかった。ディノの驚きにニヤリとして、懐から一枚の紙を取り出した。
それを広げてこちらに見せた。フェルドの表情が変わり、マリアラも息をのんだ。
イクス=ストールンの写真だった。すごく古そうなホテルの扉を入る途中で振り返ったような、粗い映像の写真だった。
「昨日リュミエールで目撃されたそうです」
リュミエール。
マリアラとフェルドは目を見かわした。
イェルディアの隣の駅だ。
「このあたりにいる理由はわかりません。おそらくほとぼりが冷めるまで高飛びするつもりなのでしょう。行先がレイキアであれば良いのですが……念のためお伝えするようにとのことでした」
フェルドがうなずいた。
「わかりました。ありがとうございます。ギュンターさんにどうぞよろしくお伝えください」
「はい。それでは」
レオナールはイクスの写真をフェルドから回収しようとしなかった。敬礼して、さっと車に乗って行ってしまった。
ラルフが帰ってきてくれた高揚に、冷たい水をかけられたような気分だった。
「それ、イクス=ストールンだよな。エスメラルダからの公式な指名手配文書が回ってきてた。けっこう派手にやらかしたやつだよな、傷害と殺人疑いありってあったけど……知り合いだったのか?」
ディノが尋ね、フェルドは眉を顰めるようにしてイクスの写真を見た。
「マリアラを殺そうとしてます。俺のこともだろうけど」
「えっ」
「エスメラルダの保護局員で――初めから話しますね、今夜一晩かかりそうだけど」
「……そんな因縁あんの?」
ディノを先に通してホテルに戻る。中は明るく温かい。ラルフはダイニングテーブルについていて、シャルロッテが『おはじき』の豆大福をラルフに出したところだった。ケティはすぐ隣に座って、あれこれ話しかけている。ラルフはすっかり元気そうだった。いや、前よりもっと元気そうだ。背まで伸びたような気がする。元気満々で、光り輝いているよう。シャルロッテがルッツを呼び、ルッツがのそのそやってくる。目元はまだ赤い。
ラルフはきっと、この三日間で大冒険をしてきたに違いない。その話を今から聞ける。どうしてディノと一緒に来たのかも。みんなで揃って、美味しいものを食べながら、楽しい時間を過ごせる。明日はエルドリッジに行ける。シャルロッテが案内してくれるという。ルッツもケティも書類を出して、ラルフも身分証を持っていけば、手続きは完了だ。そのあとは寮で必要なあれこれを買いに行くこともできる。明後日はジェムズと合流して、そのあとはいよいよガルシアへ出発だ。
――亡命先がレイキアならよいのですが。
イクスが行った先が、もしガルシアだったら? マリアラとフェルドの行く先々に現れて、執拗に狙ってくるようなことになったら?
殺されるわけにはいかないと、マリアラは考えた。
やっとフェルドに会えたのに。
これからやっと、ラセミスタに会えるのに。
ビアンカを助け出せないまま、デクターに話せないまま、あの人を永遠の暗がりの中に置き去りにするわけにはいかない。
そのためにできることは、なんでもしなければ。
マリアラは自分の手を見た。いかにも細くて頼りない腕。首も細い。エスメラルダでマヌエルの仕事をしていた時よりもずっと痩せてしまった。今は少しずつ体重も戻ってきていると思うが、まだまだひょろひょろで、筋肉なんてほんのちょっぴりしかない。アリエディアでイクスはもう少しでマリアラを捕まえるところだった。あの時の痛みと屈辱を、まざまざと思い出す。
次に会ってしまったとき、また同じことを繰り返すのは嫌だ。
そしてフェルドに、余計な苦労をかけるのも嫌だ。フェルドの後ろに隠れるしかないなんて。
――マリアラさん。あたし、強くなりたい。
ケティはそう言ったけれど、本当に強くならなければならないのはわたしの方だ。
訓練が必要だとリエルダは言った。本当にそうだ。
わたしは、強くならなければならない。
これからもずっと、フェルドと一緒にいられるように、自らを変えていかなければ。
そのためにできることはなんだろう。そう考えながら、マリアラは、和やかなみんなの輪の中に戻っていった。




