六.対決する七月十一日(月曜日)(2)
放課後、ホームルームが終わるとすぐにカバンに荷物をまとめて、生徒会室へと向かう。行きがけに確認してみたが、黒砂幸のクラスはまだホームルームが続いていた。
生徒会室の前で黒砂幸が来るのをを待つことにした。近くまで来ると、廊下には誰もおらず、生徒会室の前には進入禁止を示す赤い三角コーンと黒と黄色のバーが設置されていた。
壁には「生徒会の業務はとなりの多目的室で行っています」と貼り紙がされている。事件のあった部屋をすぐに使うのは、現場保存などの問題があるのだろう。
その貼り紙もまた、他のポスターとともにきっちり縦横を揃えて配置されていた。再びこうして完璧にポスターが配置された壁を見ると、完璧すぎて寒々しい無機質な印象を受ける。
「亮」
生徒会室の扉を見つめたまま呟くと、亮が反応した。
「もしうまくできなくて、お前に都合の悪い状況を作っちまったら、ごめんな」
亮は穏やかな感情の波を立てた。
「ありがとう」
少し瞼を閉じ、この数日間を思い出す。あまりに様々なことがありすぎて、亮から出て行くことや、名前を得るという目標に全く手がつけられていない。
だが、この騒動は必ずしも憎むべきものではなかった。こういってしまうと妙だが、生きている実感のようなものがあった。何もわからないままに亮の中に発生し、何もわからないまま亮を演じることを余儀なくされていた自分に振りかかった、あまりに非日常な出来事を、俺は心のどこかで楽しんでいたのかもしれない。
だけれど、それもここでピリオドを打たなくてはいけない。亮には日常を返してやらなきゃならないんだ。
足音がしたので、姿勢を直してそちらを見た。何人かの生徒会役員が連れだってこちらに向かってくる。その中に黒砂幸の姿はなく、俺は力を抜いて壁に寄り掛かった。
彼らは俺を見て少し不思議そうな表情をしたが、声をかけてくることもなく多目的室の中へ入っていった。
徐々に、廊下を歩く生徒の数が多くなる。定期テストを一週間後にひかえているため、今日からは部活動も休みになる。多目的室の二つとなりに位置している図書室にも、普段より多くの生徒が集まっているようだ。
廊下を歩く生徒のほとんどが図書室に入っていく中、一人の女子生徒がこちらに向かってきた。すらりと高い背、均整のとれた姿、輝く黒髪。重心を崩さず歩くその女子は、黒砂幸だった。
普通に歩いているだけなのに、無駄も隙もない。緊張で思わず唾を呑んだ。
しかし、目線は黒砂幸から切らない。やがて黒砂幸も俺に気づき、微笑んでこちらへと歩いてきた。
「大輪田君、なにか生徒会にご用かしら」
さきほどのスピーチと変わらない、優雅で落ちついた声。俺は緊張に負け目をそらさないよう、意識して黒砂幸を見る。
「いや、生徒会じゃなく、あんたに用があるんだ」
「……私に?」
きょとんとした顔の黒砂幸。俺が真剣な顔でひとつ頷くと、黒砂幸も真面目な顔になった。
「……そう。とりあえず中に――」
「いや、二人きりのほうがいい」
多目的室の中を示した黒砂幸をさえぎるように、きっぱりと告げた。
「わかったわ」
そう返事をした黒砂幸の顔を見て、思わず後ろに飛びのきそうになった。
「テスト前だし、五時までにはみんなを帰すわ。五時のチャイムが鳴ったらいらっしゃい。待ってるから」
多目的室の扉の中へ入っていった黒砂幸の顔は、怒りとも嬉しさとも悲しさともつかない、もしくはそれらが全部まぜこぜになったような、奇妙にゆがんだ顔になっていた。亮が恐怖する。口の奥で、思わずかみしめた奥歯がギリ、と鳴った。
五時のチャイムが鳴った。時間をつぶすために入った図書室を出て、多目的室に向かう。たった二つとなりの教室に行くだけのことなのに、恐ろしく気が重い。まだ残響しているチャイムがまるで死神の笑い声のように聴こえた。
人の名前を喰うという怪物みたいな存在の俺が怖がるというのも妙だが、怪物じみた能力があるだけで、特に精神的に強いというわけでもない。善良なごく普通の名前を食べる怪物にすぎないのだ。怪物だって怖いもんは怖い。
多目的室の扉の前で聞き耳を立ててみる。中から声や物音は聞こえない。黒砂幸が言ったとおり、すでに他の生徒会のメンバーは帰されたようだ。
落ちつくために深呼吸をした。しかし、緊張は軽くならない。扉をノックする決心がつかなかった。怖いのだ。
こんなとき、どうすればいいか。ふと、千華が言っていたことを思い出す。
「『精神統一にいい』って言ってたか……」
記憶の中から千華の姿を思い出し、弓を射る構えをまねてみる。できる限り呼吸を整えて、廊下のむこうに的を想像する。無心で矢を引き――射るイメージで、引いた手を離す。
スパン、と矢が的に当たる音を、心の中で聞いた。動きは正しくなかったかもしれないが、それでも幾分落ちつけた気がする。千華に感謝しよう。
「……よし、行くぞ」
亮に向かってそう口に出して、応答を受けてから扉を二度ノック。
「どうぞ」
黒砂幸の声が聞こえ、扉を開けた。多目的室の中は、間に合わせで机が集められ、生徒会としてひとまずの仕事ができるようになっていた。
会議スペースも急ごしらえで、生徒会室にあったものよりいくぶん古めかしいついたてと机が置かれている。
黒砂幸は生徒会長の席に座っていたが、無言ですっと立ち上がり、ついたての向こうへと入っていった。俺は後ろ手で扉を閉め、黒砂幸を追う。黒砂幸は片手で椅子に座るように示したが、俺は首を振った。
「このままでいい」
何かあったときに、動きやすいようにしておきたかった。
「……そう? 私は座らせてもらうわね」
黒砂幸はパイプ椅子を引きだし腰を下ろした。俺は用心のため、黒砂幸に対して半身の姿勢を取る。
「それで、大輪田君は私になにを話したいのかしら」
「……古林さんのことについて、黒砂さんに訊きたい」
太ももの辺りに置かれた黒砂幸の手が、ぴくりとわずかに動いた。
「古林さん……本当に、どうして、自殺なんてしてしまったの……」
「あなたのせいだろ?」
「私の?」
黒砂幸は驚いたように目を見開いた。わからないといった様子で、その目が泳ぐ。
「黒砂さん、あなたが古林さんを精神的に追い詰めたんだ。いくら仕事がうまくできなかったとはいえ『死んじゃえばいいのに』なんて、人にかけていい言葉じゃない。どうしてあんなことを言ったんだ?」
黒砂幸は口をぱくぱくさせ、落ちつかないように左右をきょろきょろ見た。
「……私、古林さんにそんなこと言ってないわ、同じ生徒会の仲間の古林さんに、そんな」
そのまま口ごもってしまう。黒砂幸はこちらを見ない。
自分が言ったことを記憶していないのだろうか? だが、完璧な生徒会長、黒砂幸の自信が揺らいだのが感じられ、俺はそこにつけ込むことにした。
「いや、僕は聞いていた! あの、不良に襲われた相談をした日、あなたに会ったあとだ。そのほかにもたくさん、ひどいことを言っていたじゃないか! 言い訳するでもなく、ただ黙って聞いているだけの古林さんを一方的に追い詰めていた!」
「違うの! 古林さんに死んでほしいなんて、そんなこと思ってない」
「違わないさ! あの廊下で死ねって言っていたのを僕は聞いた! 生徒会と、文芸部と、高校生活をこれからも続けていくはずだった古林さんを絶望に追いやったのは黒砂さん、あんただ!」
「違う!」
ひときわ大きな黒砂幸の声が、多目的室に響く。黒砂幸は両耳を塞ぎ、俺の言葉を拒むように体ごと左右に首を振った。
「大輪田君、あなたの言ってることがわからない……私、古林さんのこと、嫌いなんかじゃない……」
「でも」心が痛むのを感じながら、俺は責めるのをやめない。「古林さんはあんたに死ねって言われたことを悩んでいた。悩んだ末に、命を断った。古林さんを殺したのは、『女帝会長』、黒砂幸、あんただよ」
そう告げたとき、黒砂幸がはっと顔をあげた。下あごが小刻みに震えている。やがて耳を塞いでいた両手が下がって、それに続くように顔もうつむき、長い黒髪がだらりと下がった。
思わず後ろに下がる。黒砂幸のまとう空気が変わったような気がしたのだ。先ほど生徒会室の前で見たような、あの得体の知れない雰囲気だ。そのとき、黒砂幸の上半身がすっと上がった。
黒砂幸は無表情だった。乱れた髪を左右片方ずつ、手ですっとかき上げ整える。それからゆるやかに両手をふたたび太ももの上に置く。
そして、黒砂幸は奇妙に笑った。頭の中に、夢で見た黒砂幸のシルエットがよみがえる。
思わず身震いした。黒砂幸の周りの空気だけ、急激に冷えたかのようだ。黒砂幸はその表情のまま、口の端を持ち上げてさらに奇妙な笑い顔を作った。
「そう、私が古林を追い詰めたの。だってあんまり使えないから。簡単なことでミスばっかりして、そんなの生徒会長の私の部下としてふさわしくないもの。そんな子でも当選しちゃったから一年は生徒会を続けさせるしかない。でもそれじゃ私の求める完璧な生徒会室運営は成り立たない。だから死んじゃえばいいって思ったの。そうしたら、新しいもっと使える子を書記に任命できるでしょ?」
まくしたてるように黒砂幸は言う。
「でも、私はちょっと声をかけただけよ? それで自殺しちゃったのは古林の心が弱いだけ。ちょっと怒られただけで死んじゃうなんて、よっぽど自分に自信がなかったのかしらね? あははっ!」
黒砂幸は高らかに笑った。数秒笑って、すぐにまた無表情に戻る。次の瞬間には恐怖に満ちた表情でがたがた震えだした。
「違う……違う、私そんなこと思ってない……古林さんを殺したのは私じゃない、私、殺したいなんて思ってない!」
訴えるような目で、俺を見る。
「思ってないの」
「う……」
声が出せなかった。こんな奇妙なものは、亮の記憶の中にも、もちろん俺の記憶の中にもない。頭の中を図書室で調べた多重人格についての知識がちらついた。
黒砂幸の表情はまた、奇妙な笑顔へ。
「生徒会長の私が、古林に足を引っ張られ続けて評判を落とすわけにいかない」
怯えた顔へ。
「そんなこと考えてない!」
叫びながら黒砂幸は立ち上がった。その表情は笑顔と恐怖と、めまぐるしく変化しつづけている。
「ねえ、私そんな、こと考えてない、のよ、大輪田君」
黒砂幸はよろよろと、こっちに向かって歩いてきた。その顔は涙に濡れている。涙に濡れているのに、妖しく笑って歪んでいる。声を出さずに大笑いしている。
俺はさらに一歩後ろへ。
「ねえ……」
黒砂幸の表情がもう一度変わった。笑顔と怒りが混じりあっている。人間の顔の筋肉で本当にこんな顔ができるのか。その表情のまま、黒砂幸はこちらに突進してきた。
やばい。黒砂幸が凶器を持っている様子はないが、この得体の知れないものに捕まったら、どうなるかわからない。そんな怖さに満ちていた。
俺は脳をフル回転、次いで自分の本体を引っ張り出す。亮の身体から伸びた黒い塊に視点が移り、すぐさま大きく口を開ける。
「っいただきます!」
言いながら合掌。亮の体から飛び出した黒い巨人は、突進してくる黒砂幸を迎えるように大きな口を開け、そのままばくり、と食らいついた。
「……! っあ!」
黒砂幸が目を見開き、その場に固まった。俺はそのまま、黒砂幸をひと呑みにする。味わう暇もなく、ごくり、と呑みこんで両手を合わせた。
「ごちそうさま」
黒砂幸には聞こえないその宣言をしたのと、黒砂幸が力なくその場に崩れたのはほぼ同時だった。




