五.感謝する七月十日(日曜日)(2)
しばらくのあいだ、喫茶コーナーで千華と雑談した。と言っても、俺から千華に話すことはないので、千華が亮に話しつづけ、俺は相槌をうつのに専念する。
千華は轟美香子やほかの友達との会話のこと、部活のこと、定期テストのことなど、ほとんどノンストップで話しつづける。身振り手振りも加えて表情豊かに話すその姿は、これもまたさっきの美術展よりもずっと魅力的に見えた。
アイスを食べ終えた後も千華はえんえんと話し続けた。追加でフルーツのフレッシュジュースも注文し、結局店を出たのは夕方五時ごろになっていた。
建物の外に出たとたん、むっとした熱気に襲われる。日が傾いてきたとはいえ、夏の陽射しは夕方でもまだまだ明るく、暑い。道路を走る車の排気ガスが、不快感をさらに強めた。
が、そんな不快感を吹き飛ばすように、千華は嬉しそうに大きく伸びをした。
「うーん、楽しかったねー!」
その一言で、俺は救われたような気分になった。亮も安心したような反応をする。
「ちょっとヘンな美術展だったけど、でも面白かったよ! ありがと、亮くん」
「うん、貰いもののチケットだったんだけど、楽しんでくれたならよかった。じゃあ、帰ろうか」
俺が言うと、千華は一瞬目を細めて、ほんの少しだけ寂しそうな表情を見せた。
まずかった、はやく切り上げたがっているように見られたか。しかし、すぐ千華は笑顔に戻った。
「うん、テストも近いもんね。帰ろっか」
中央公園を大通りへ向かう。
公園内はしきりに求愛する蝉の声、遠くで作業をしている芝刈り機、子供たちの騒ぎ声でにぎやかだった。二人で並んで黙って歩く。ざりざりと遊歩道の砂利を蹴る音が鳴っていた。
ふと、千華の足音が止まったので、俺は千華を見た。
千華は、両手をうしろに組んで、小さくほほえんで俺を見ている。普段と何か違う雰囲気だ。
「……どしたの?」
「やっぱり亮くん、元気ないねー?」
微笑んだまま、うかがううような目で俺を見る。
「……そうかな。やっぱり、古林さんのことがあったから」
「ううん、それよりもっと前からだよ」
千華は俺をさえぎるように、きっぱりと言った。俺は何も返事ができない。
日曜日には元気にしていると約束したのに、千華に元気のないところを見せてしまったか。亮に申し訳なく思った。
「亮くんと付きあってまだ一カ月くらいだけれど、それでもわかるよ。毎日見てたもん、亮くんのこと」
千華はちょっと視線を落とす。ポニーテールが揺れた。
「なんていうか……なんだか、別の人になっちゃったみたい」
「え……」
ぎくりとして、身体がこわばった。亮も驚いている。
「あ、でもね! 亮くんのことを嫌いになったりはしないから、安心して、だいじょーぶ」
千華はびしっとVサイン。
「でも、なにか悩んでることがあるなら言ってほしいなぁ。私、亮くんの彼女なんだよ」
千華はもう一度目線を下に落とした。俺は言葉に詰まる。
作業が終わったのか、遠くで鳴る芝刈り機の音が止み、二人の間に静寂が流れた。
千華は亮の彼女だ。でも、俺の彼女ではない。だから本当のことは言えない。千華に甘えてはいけない。それは亮の役割だ。
これは守らなければいけない一線だ。俺が善良であること、亮のものを奪わないこと、俺が亮そのものになってしまわないこと。そうすることでしか、俺は俺の存在を、亮と違うものとして保てない。
それでも、千華の気持ちだけは、いただいておくことにした。
「……ありがとう。いま、ちょっと悩んでることがあるんだ」
正直にそう言ったのは、本当のことを含んで全貌を明かさないほうが、全てを隠すよりも楽だと考えたためだ。
「それは、言えないの? 亮くんの彼女の、私にも」
俺の表情から、すべてを伝える気がないと悟ったのか、千華は不安そうに言った。しかしやはり、俺の彼女ではないからこそ。
「いまは、言えない」
「そっか……」
「いつか、話すよ」
千華が寂しそうな表情を見せたので、俺は取り繕うように言う。今はまだいいわけにすぎないけれど、大事なことだ。いつか俺が亮の身体から出ていけたら、きちんと事情を説明して、謝らなきゃいけないだろう。それが、こんなに真摯に亮に向きあっている千華への、俺なりの筋の通しかたになる。
千華は俺の目を少しのあいだ見つめていた。
「うん、わかった。待ってる」
千華は穏やかにそう言って、歩道から外れて芝生のほうへ歩きだす。すこし足を開いて立ち「へへへ」と恥ずかしそうに笑うと、身体はこちらに向けたまま、顔だけ横を向いた。
千華の柔和な表情が一変して引きしまった。辺りの空気までもが変わったかのように思えるほど、千華の放つ雰囲気は一瞬で研ぎ澄まされたものとなった。
千華はすぅ、と息を吸い、両手を持ちあげる。それからゆっくりと、左手を前へ出す。肘を張った右手は胸の前へ。
思わず息を呑んだ。そこに、あるはずのない弓と矢が見えた気がしたのだ。引かれた蔓はくの字に張りつめ、千華の目は射抜くように、これもまた存在しないはずの的を見ている。矢は光のようにきらきらと輝いていた。
ざわついていた空気がしんと静かになった。俺の聴覚はまるで奪われたかのようで、遠くで聞こえていた子供の遊ぶ声もいつのまにか耳に入らなくなっていた。視線は千華に釘付けになっている。
千華は夕日を受け、聖女かと思うほど神々しく輝いていた。特に強く輝いている両手は、もはや弓矢と同化してしまったかのようだ。
右手がわずかに動き、矢が放たれた。ヒュン、と風を切った光の矢は想像の的の中心を正確に射抜いた。同時に、俺の心もなにかに射抜かれたような、不思議な衝撃を受ける。
千華は的から目を離さない。残心までしっかり行って、ゆっくり両手を下げた後、ふうっと息をついた。
その瞬間に俺も魔法から解けたようにふっと息が漏れ、そこでようやく、これまで自分が呼吸を止めていたことに気づく。
気付けば、さっきまで見えていた弓矢は消え、千華自身ももう光っては見えない。そのかわりに、額にうっすらと浮いた汗が宝石のように輝いていた。
「……すごい」
亮の記憶から、亮が一目惚れするきっかけになった千華の姿を思い出す。
記憶の映像を再生しても、いま見た臨場感を得られることはなかった。こうして実際に目にした千華の姿はこれ以上なくまぶしく、優雅で、流麗で、凛としていて、亮が惚れてしまうのもうなづける。
「すごいかな? でも、まだぜんぜん下手なんだけどねー」
千華はいつもの穏やかな表情に戻り、両手を後ろに組んで、恥ずかしそうに笑った。
「亮くんは、私の弓を引く動きが好きだっていってくれたよね」
亮は千華に想いを伝えたとき、確かに『千華の弓を引く動きが素敵だった』と伝えている。
「顧問の先生がね、精神統一のためにもイメージトレーニングが大事だって教えてくれたんだ。だからときどき、集中したいときに試してるの。亮くんが何に悩んでるのかわからないけど、よかったら亮くんも試してみてね」
「……うん、ありがとう」
千華はいつもの明るい笑顔に戻って、両手で握りこぶしを作る。
「大丈夫! なせばなる! なせばなるよ、ね! 亮くん!」
「うん、ちゃんと、成すよ」
黒砂幸との対決を心に誓って、そう答える。
「よし! いい返事だねー、安心したよ」
千華が俺の目の前まで歩いてきた。ちょっと頬を紅潮させ、目を閉じると、俺の右手を引き、包むように両手を添えた。
俺の、亮の心臓が大きく鼓動した。
「千華……?」
千華は返事をせず、ぎゅ、ぎゅ、と、包んだ手に力を込める。無言で、ただただ等しいリズムで、俺の手を握っていた。
俺はされるがまま。亮はまだ千華と手を繋いだことがなかったのに。
千華の手をふりほどくわけにもいかず、心の中で亮に謝った。が、亮からマイナスの感情の反応はなく、そのかわりに亮も、千華と同じリズムで、俺に向かって励ますような反応を送っていた。
「私は、元気なことしかとりえがないからねー、だから、元気がないときはこれからもこうして亮くんに私の元気を送ってあげるよー、えい、えいっ」
ポンプみたいに、千華は手を握り続けた。千華の気持ちと、亮の気持ちは、それぞれ違う形をとって、俺の中へ溶けていく。
厳密には、千華の気持ちは俺に向けられたものではない。だがそれでも千華と、亮への感謝の気持ちに、思わず泣きそうになった。
「いっぱい、あるよ」
「え?」
「千華は元気なことのほかにも、一杯良いところがある。俺が知ってる」
それは、この二週間千華を見てきた、亮ではない俺の言葉だった。千華のしっとりとした手をぎゅっと握り返した。心の内で、亮にも感謝の気持ちを捧げる。
「うん、ありがと!」
千華は嬉しそうに目を細めて、大きく頷き、ポニーテールを揺らした。
「こちらこそ、ありがとう」
返す声がすこし震える。この言葉は、亮と千華の二人に自信を持って伝える、俺自身の言葉だった。




