五.感謝する七月十日(日曜日)(1)
美術館前に到着すると、すでに千華が待っていた。建物の日陰で、暑そうに手で顔をあおいで佇んでいる。
千華は淡いブルーのキャミソールにショートパンツを穿いている。目のやり場に困りそうな格好だった。道行く男たちの九割は千華を見ている。
一番驚いたのが、千華が普段のツインテールをひとつにまとめて、ポニーテールにしていたことだった。束ねられた髪は大きなリボンで結ばれている。
「千華ー、おまたせ」
近づくと、千華はぱっと明るい笑顔でこちらに手を振った。近くの男達の視線が俺へと刺さる。「あの冴えない男が……」というつぶやきすら聞こえてきた。冴えないのは俺じゃなくて亮なんだと訴えたい。
今朝、デートの準備のために、亮の部屋のタンスを開けてみたが、地味な服ばかり入っていた。センスのない亮に悪態をつきながら、どうにか私服の千華と並んでも許されそうな服装を選んだ。
恥をしのんで恵にファッションチェックを頼み、三度のダメ出しの末ようやくOKを得ての外出だった。
「亮くん!」
「ごめん、待った?」
言いながら腕時計を見る。待ち合わせ時間の十分前なので、待たせていても文句を言われる筋合いはないのだが、これが到着時の定型文なのだそうだ。
「ううん。へへへ、楽しみだったからついつい早く着いちゃったよー」
千華は照れ笑いする。
「今日はポニーテールなんだ?」
千華の髪を指差し訊くと、千華は嬉しそうにその場でくるっと一回転。ポニーテールも一回転。
「うん、今日は大事な日なので、本気モードなんだよー」
亮が嬉しいとも残念ともつかない曖昧な反応を返した。はじめての「大事な日」に俺が代理で立ち合ってしまっている残念さと、千華の「本気モード」を見れた嬉しさが亮の中でぶつかっているようだ。
「なるほど、うん、似合ってるよ」
これも定型文だ。千華はちょっと頬を紅潮させた。
「じゃあ、さっそく入ろうー! あっつくて遊ぶ前から倒れそうだよー」
千華はそう言って美術館の方へ。早く涼みたいのは同感だ。俺も後に続いた。
館内に入ると、さっそくひんやりした空気に出迎えられた。ありがたい。入口で係の女性にふたり分のチケットを見せ、リーフレットを受け取り展示ホールへ進む。
「いくつかホールがあるんだね。順番に見れるようになってるみたいだよー」
千華はリーフレットを眺めている。
「順路」と書かれたシンプルな看板に沿って進むと、大きな展示ホールに出た。バスケットコートくらいあるホールは、全体が白い壁で囲われている。壁面には額縁に入った作品が飾られ、床面には立体の作品が置かれていた。そこそこ人が入っているようで、どの作品も数人が観賞している状態だ。
最初の展示室を順路通りに進むと、まず大きな額縁があった。中にはマーブル模様のような、乱暴に混ざった色がカンバスの上で荒れ狂う、奇妙な作品が収まっている。
「す、すごいね……」
「うん……」
俺は相槌を打つしかなかった。亮も相槌を打つ。
周りの作品を一望してみる。一見して風景や人物を描いたとわかるような作品はひとつもなかった。現代美術、と書いてあったが、どうやら一般人には理解できないような非常に高度な、悪く言ってしまえばちんぷんかんぷんな美術展だったようだ。
これは……はじめてのデートの選択としては、不正解ではなかっただろうか。
千華ががっかりしていないか心配になったが、当の千華は絵をじっと見つめていた。大きな額縁を見上げる格好になり、口が少し開いている。
退屈しているわけではなさそうで、すこし安心した。視線を落とすと、額縁の下部に札が置かれているのを見つけた。
『2001年 やさしさ』と書かれている。制作年とタイトルだろう。
「やさしさ……」
なんとなく読みあげる。千華がこちらを見たので、指でタイトルの札を指し示した。千華もその札を見て、それからもう一度作品を見上げる。
「これが、やさしさ……?」
何度か札と作品を交互に見るが、さすがに理解しかねる。どうやったらこれがやさしさというタイトルになるのだろうか。
いっぽうの千華は、黙って作品を十秒ほどじっと見つめて、それから俺を見て笑った。
「うーん、難しいねー」
「現代美術、ってやつらしいけど、ここまでとはね……これが『やさしさ』って、どういうことなんだろう」
「んー」千華はもう一度絵を見る。「でも、そう言われると確かに、どこかに優しさがあるようなー……」
千華は首を傾げたが、次の言葉はなかった。またしばらくその作品を眺めると、やがて「次いこー」と、隣の作品へと進んでいった。
それからの時間は、この現代美術とやらの美しさを理解できない俺にとっては辛い時間だった。なにより、千華が予想以上にひとつひとつの作品に食いついており、なかなか歩みを進めないのだ。それにつきあって作品を眺めているが、さっぱりわからない。
カンバスに液体が垂れたような絵画。端材を散らしたオブジェ。これらが亮の部屋に置いてあったら見向きもされず、ゴミとして破棄されてしまいそうだ。
亮も退屈そうにしている。だが千華はそれらもすべて、タイトルやリーフレットの情報と照らし合わせてじっくり鑑賞していた。
千華がこの意味不明な作品群からなにを感じているのか、想像することもできない。一人で夢中になってくれているこの状況は、本来なら退屈なところだ。しかし亮を演じている俺としてはありがたい。
順路に沿って次の展示ホールへ。ふたつめの展示ホールもひとつめと似たような作りになっており、広い空間の壁面と床面にそれぞれ作品が展示されている。
作品に対する集中力が弱くなってきた。思考が自然と、明日に決意した黒砂幸との対峙に向かう。
決意はしたものの、亮には黒砂幸と関わる理由がないことが気にかかっていた。黒砂幸を問い詰めた結果、黒砂幸と争う形になったとする。それは周りから見れば「亮と」黒砂幸の争いとなる。厄介なのは黒砂幸よりも、周囲の人間の評価だ。亮のために、できるだけ平穏にことを済ませたい。
影響を抑えるためには、黒砂幸と一対一で接する必要がある。一人のときを狙うとなると、黒砂幸を呼びだす必要がありそうだ。その方法が思いつかない。
亮の携帯電話に黒砂幸のメールアドレスでもあれば呼びだすのが楽なのだが、そんなものは持っていないし、手に入れる口実も作れそうにない。
いざとなれば、評判への多少の影響はあきらめ、強行突破するしかないだろう。
「ねぇ、亮くん」
「ん?」
千華に呼ばれ、思考を中断した。千華は不思議そうな顔で額縁の作品の周りをきょろきょろ眺めていた。首の動きに合わせてポニーテールもぴょこぴょこと揺れている。
額縁の下部を見ようとして前傾姿勢になった千華は自然とお尻をつき出す格好になる。ショートパンツから伸びる脚線美。ついつい目が行ってしまう。眼福だ。
と、亮が咎めるような感情の波を立てたので、自制して視線を額縁の作品へ。
カンバス一面に黒に近い焦げ茶色の油絵の具が塗られている。絵だと言われなければ到底何だかわからない作品だった。
絵の具も相当ぶ厚く、乱暴に塗られていて、ところどころ波が跳ねるように飛び出している。絵というよりも、茶色い海の模型を縦にしたみたいだ。
「この絵がどうかした?」
「これ……作品の名札がどこにもないの」
そう言われて、ようやく俺も気付いた。これまでの作品は、必ずその傍らに制作年と作品タイトルを記した札があった。しかしこの作品だけ、どこにもそれが見当たらないのだ。
「つけ忘れ、かなぁ」
俺が言うと、千華はむー、と唸りながら美術展のリーフレットを開き、作品の一覧部分を見る。
「あれ、こっちにもなにも書いてないよー?」
千華に言われリーフレットを確認してみる。確かに、いま見ている作品のところだけ、リーフレットも一行分ぽっかりと空白になっていた。
ふたりで唸ってしまう。
「誤植かな?」
「でも、こんなすごい作品を作る人だから、何か意図があるのかもー」
千華はもう一度作品に目をやる。
「千華は、この作品がわかるの? 凄いな……」
「判らないよー」千華は笑ってぱたぱたと手を振る。「でも『この作品は何を伝えたいんだろう』って考えながら絵を見てたら、なんとなく伝わってくるような気がするの」
「ふぅ……ん」
返事をしながら、千華の懐の深さに驚いていた。亮の告白もOKしたのも、この懐の深さによるものなのだろうか。
「なんとなく、なんだけどねー」
言って、千華は諦めたのか次の作品へ歩いていく。俺は名札の無い作品をもう一度眺めた。
茶一色の作品はどこか寂しげで、その暗い色づかいと荒々しい見た目の割には、気味悪さは感じない。
自分と同じく名前を持たないその作品をそのまましばし眺めて、千華のあとを追った。
三つ目の部屋も同じ作りだった。リーフレットによると、この美術展は四つの部屋を四角く配置した形になっているようだ。
この美術展の作者、鬼越宗久は、作品そのもの配置など、展示の方法にも積極的に関わっているらしい。とはいえ、この作者の芸術を理解できない自分には、そのこだわりも理解できそうにない。
千華は展示室中央に置かれた奇妙なオブジェを観察していた。どう見てもただの棒がそのあたりに捨てられているようにしか見えないオブジェのそばには、退屈そうな顔の警備員が立っていた。お疲れ様です。一日こんなところに立っているだけなんて、金を払ってもお断りしたい。
千華と一緒に壁面の作品を順番に眺めていく。さすがに千華も飽きてきたのか、ひとつひとつの作品にかける時間が短くなり、つぎつぎと先に進んでいった。
最後の部屋に入る頃には、同じような意味不明の作品群に、さすがに疲労を感じてきた。
「あれー?」
展示室を歩いていると、千華が不思議そうな声をあげて立ち止る。
「ん? ……あれ?」
俺も気がついた。何もかけられていない壁面に、ぽつんと名札だけが置かれていたのだ。名札には年号がなく、ただ「4」とだけ書かれている。
「今度は、作品のほうが欠けてるなぁ」
「作品……外されちゃったのかなー? なんだか、名札だけはぐれちゃったみたい」
辺りを見回すが、どの作品もそのすぐ近くに名札が貼られている。名札のない作品は見つからなかった。
「二つ前の部屋の作品の名前を貼り間違えたんじゃないのか? あの作品は名札が無かったよね」
「うーん……」千華はリーフレットを開く。「あ、でもちゃんと作品リストには載ってるよ。この部屋にあるって書いてある」
「絵のほうを置くのを間違えたとか?」
「うーん、そんな失敗するかなぁー?」
千華は首を傾げた。確かに、考えにくいことではある。
「ま、天才のすることはわかんないな」
「文芸部の亮くんが芸術を理解しようとしないでいいのー?」千華は笑う。「でも確かに、ちょっと難しい絵だったねー」
絵と名札の謎の解明を諦めた俺たちは、やがて美術展の出口に辿りついた。四角く配置された四つの展示ホールをぐるりと回ったので、入口のすぐ隣に戻ってきた形だ。
時計を見ると三時を指していた。館内と外を隔てる、大きな強化ガラスの窓から見える外の景色は、うんざりするほどよく晴れ、暑そうだった。
千華は館内を見回す。
「まだ暑そうだねー、よし亮くん、おやつの時間だよ! そこでアイス食べよう!」
千華がびしっと施設の喫茶コーナーを指差した。店先の看板に貼られたアイスクリームのチープなイラストは、皮肉にも美術展のどの作品より本能を刺激する魅力があった。
「うん、まだ暑そうだしね。そうしよう」
そう応えると、千華はうれしそうに喫茶コーナーへ走っていった。




