三.喪失する七月八日(金曜日)(3)
――身体が動かない。砂の中にいるみたいに身動きが取れなかった。瞼を開いたり閉じたりしてみるが、真っ黒に近い、深いコバルトブルーのような色が視界を満たしている。
ここはどこだ、と声をあげようとしたが、喉が震えてくれなかった。空気が喉を通りぬける音だけがごうごうと弱々しく鳴る。頭の底で鈍痛がする。手足の指先は痺れているように感覚がない。
亮に聞こえるかもしれないと思って、声にならない音を喉から出し続ける。しかし亮の反応はない。気がつけば、胸は随分軽かった。まるでそこに何もないかのように。亮がそこにいないかのように。
孤独を感じ、とたんに不安になる。身体を動かせない、なにも見えないという事実は恐怖となって俺を押しつぶそうと容赦なく襲ってくる。
俺は心だけで暴れた。手足が動かないから心だけ動かした。声が出ないから心だけ叫んだ。しかし、なにも反応は返ってこない。
直感的に、これが無だと悟った。ここには何もなかった。音も、光も、俺の名前だけでなく、存在そのものも。すべてが無だった。この絶望的な無の中で、俺は一体なんなのか。それを考えたとき、俺の両手と両足の感覚が途切れた。
亮の身体という容れ物を失ったここでは、俺の存在を守るものはなにもない。名前がない俺はどこにも存在を固定できない。
続いて、胸から下の感覚が消えた。俺は肩から上だけで、無いはずの胸のあたりから込み上げてくる圧迫感に耐えていた。
「お前はなんだ」
ふっと声が聞こえて、目の前に人型のようなうすぼんやりとしたシルエットが現れた。黒に近い群青の世界の中、それより更に深い青のシルエットは、背景との境界がぼやけておぼつかない。
その声に聞き覚えがあった。桐川業太。そう考えれば、シルエットも桐川業太の形のように見えてきた。
「お前はなんだ」非難するように声が響く。「お前は何者だ」
シルエットの口のあたりが白く裂け、笑うかのような不気味な表情になった。
次の瞬間、桐川業太のシルエットのまわりに、別の何人ものシルエットが現れた。みんなが口々に「お前はなんだ」「お前は誰だ」と俺を責めた。
この声も覚えている。俺を襲撃したドクロシャツたちだ。
俺は何かを応えることができなかった。声を発することもできないし、なにかの反応することもできそうにない。
やめてくれ、許してくれ、と叫ぼうとしても、声にならない。もういっそ、この肩から上も俺を消してくれ、と声にならない訴えをしたところで、目の前に鮮やかな、はっきりした真っ白なシルエットが現れた。
それは、背の小さな、おかっぱの少女。生徒会室で短い命を閉じた古林典子の姿だった。
おかっぱ少女のシルエットの口のあたりが、軋むような音を立てて十字に裂けた。その隙間から放たれる、割れるような音が俺の顔に刺さる。
「あなたは、なに?」
少女がそう声をあげた瞬間、消えていた全身の感覚が瞬時によみがえる。少女の声が、無数の針金となって俺の体中を駆け廻った。
頭のてっぺんから足の指先まで、言葉の針が刺さる。心の痛みか身体の痛みか、もはやなにも考えられなくなった俺は、強く目を閉じた。
だが、瞼を閉じたはずなのに、景色は変わらずそこにあった。瞼が透明になり、視界を閉ざす機能を失ったかのように、目の前では白い少女の影が十字の口で不気味に笑っている。
そして少女は最後に決定的な一言を放つ。
「あなたが居なければ、わたしは死ななくてよかったかもしれないのにね」
俺は意識のスイッチを切った。
バヂン、と電気のコードがショートするような音を立てて、俺の意識と視界はシャッターを閉じるように上から下へと掻き消えた。
群青の世界が閉じゆく中、視界の端でたしかに見た。ドクロシャツたちのシルエットにまぎれて、長い髪の少女、黒砂幸のシルエットがニタリと笑ったのを。
「……ちゃ…………ゃん!」
耳元で不快感を覚え、それから逃げるように上半身をよじった。つぎの瞬間、自分が身体を動かせたことに驚いて、はっとして目を開けた。
飛び込んできたのは真っ白な光。数秒経って、それが天井の蛍光灯からのものだと気付く。手をかざしてみた。亮の身体はいつも通りそこにあった。
横を見ると、恵が呆れ顔でこちらを見ている。
「お兄ちゃん、ごはんだって」
「は……」
一瞬、恵の言葉を聞いても意味がわからず、少し遅れてようやく頭が言葉を理解した。
上半身を起こして部屋の壁にかかった時計を見ると、時刻は七時前になっていた。窓から外を見ると、空が夕日でオレンジ色に染まっていた。ようやく時間の感覚が戻ってくる。
「わかった、いま降りるよ」
目をこすりながら答えると、恵は「ん」と簡単に返事をして階下へ降りていった。
ベッドの上で伸びをする。大きなあくびが出た。
「亮、居るか?」
亮からはちゃんと反応があり、少し安心した。
「なんだか、変な夢を見たよ。っていうか、夢見れるんだな、俺って」
亮は曖昧な返答。同じ夢を見たわけではないみたいだ。
その場でしばし、沈黙。
夢の中で浴びせられた言葉を反芻する。
「さて夕飯だ、気分転換、気分転換っと」
亮に聴かせるように努めて明るい声を出した。
声と裏腹に深く沈みこんだ俺の心は、しかし一方でたったひとつ、この事態を解明することでしか、亮にも古林典子にも償うことができないということを、冷静に理解していた。
「亮、ちょっと」
カレーの香りが充満したリビングに降りると、台所に立っている亮の母が手招きしてきた。
「何?」
「学校の先生から電話があったわよ」
どきりとした。今朝に教師の言うことを聞かず、叱られたことを電話連絡されたのだろうか。
「古林さんのお別れ、明日の夜九時に駅前の斎場ですって。クラスの人はまとまって行くそうよ。亮は寝てるって言ったら、小川先生が伝えてくれって」
「あ、わかった、ありがとう」
亮の母に伝えられたのが通夜のことだけだとわかり、ほっとして、そのまま食卓に着いた。




