三.喪失する七月八日(金曜日)(2)
解放されたのはそれからおよそ一時間後。
それまでは職員室の無造作に置かれた丸椅子に座らせられ、ただ待機させられた。学校中を揺るがす大事件だ。俺ひとりに構っては居られないのだろう。
職員室は警察や役所、どこから聞きつけたのか各種マスコミからの電話でてんやわんやになっていた。
結局「他人から事件について聞かれても話さないこと」とだけ言われ、職員室を追いだされた。
教室に戻る途中で携帯電話を開くと、千華と新田からメールが届いていた。
千華からは『突然飛び出していったから心配したよ! 大丈夫?』という気遣い。新田からは『どうだった!?』という興味が先行したらしき内容だった。二つのメールの送信時刻はどちらも、俺が校内に侵入した直後だった。
ふたりのメールを読んで反省した。勢いで飛び出してしまったが、もし亮だったらあのときどう行動していたか。その思考が抜けていた。
千華に『大丈夫。職員室でちょっとしぼられたけれど(笑)』と送信。
B組の教室に近づくと、教師がいないのか、中からざわつく生徒達の声が聞こえてきた。
扉を開けると、一瞬クラスの注目が集まる。
そのまま何人かはなにもなかったかのように雑談に戻り、何人かは俺をもの珍しそうに見ていた。
古林典子の席には、あたりまえながら誰も座っていない。そして心なしか、彼女の机の周りは、避けられたように人が少なかった。そこだけ、この教室と同じ空間ではないとでもいうかのように。
なんとなく、みんな古林典子が死んだという事実を遠ざけたいのだろう。まわりから聞こえてくるクラスメートの話し声も、古林典子に関してのものではない。
「おかえり」
席につくと、新田が抑揚のない声で言った。いつもの軽口が出ないのは、新田なりに、文芸部の友人を亡くした亮の心情に配慮したからだろう。
「ああ」
どう返事をしていいかわからず、平坦な声でそう応えた。それだけで、新田との会話は途切れてしまった。
正面の黒板にはただ大きく「自習」とだけ書かれていた。
朝の出来事を思い出す。またしても聞こえたあの笑い声はなんだったのか。新田に聞こえなかったのは、単なる聴きのがしか、それとも俺の空耳だったのか。
生徒会室に着いたとき、そこには黒砂幸がいた。古林典子の最初の発見者は黒砂幸だったのだろうか?
ポケットの携帯電話が振動したので、受信メールを確認する。千華からだった。
『怒られた? 古林さんのこと、気持ちはわかるけど……あんまり無茶しないでね(>_<)』と書かれている。『うん、ごめんね』とだけ打ち込んで送信。恐らく、千華のクラスも自習になっているのだろう。
窓から外を見ると、校庭には警察の車両が数台停まっていた。グラウンドには無数のタイヤ痕が残っている。土をならすのに苦労しそうだ。
思考を回していたつもりの頭は、疲労には勝てなかったらしく、眠りの世界へと引きずられていく。頬杖からこぼれた顔があやうく机に激突しそうになった。
古林典子の事件があって、朝起きたときの眠気も身体の痛みも忘れかけていた。しかしそれでも積み重なった不調は、精神論でどうにかできるものではない。ひとまず自習の時間だけでも寝ておこうと机に突っ伏したそのとき、扉が開いて担任の小川が重たい表情で入ってきた。
クラスの生徒達がそれぞれの席に戻る。椅子を動かすガタガタという音が響いたあと、教室はしんと静まりかえった。小川は黙って黒板の「自習」の文字を消し、生徒たちに向き直る。
その場に緊張が走った。小川はゆっくりと話しだす。
「……もう皆さんも知っていると思いますが、大変悲しい事件が起こりました。我々二年B組の仲間、古林典子さん」
小川はちらりと古林典子の席を見る。
「古林典子さんが、校内で亡くなっているのが見つかりました。いま、学校の中を警察のかたが調べているところです。そこで、捜査のため、本日の学校はこのままお休みということになりました」
教室内がざわめいたが、小川はすぐに手を叩いて生徒達を制止した。
「はい、静かに! 休みといっても、みなさんには自宅で待機してもらいます。先生たちや警察のかたから、皆さんの自宅に電話をする可能性があります。ですので、きちんと自宅で自習していてください」
小川は教室を見回す。それからひとつ息をついた。表情に疲れが見える。担任しているクラスの生徒が亡くなったのだ。平常でいろというのがおかしい。
「よし、じゃあ日直、帰りの挨拶を頼む」
後方の席の女子が立ち上がり、号令をかけた。不揃いな「さようなら」が斉唱され、教室は一気に慌ただしくなった。
俺はすぐに荷物をまとめて立ちあがった。不可解なことは沢山ある。だがまずは考える頭を取り戻すことだ。自宅待機ということなら、体力回復にもちょうどいい。
携帯電話を開き、千華へのメールを作成。『ごめん、今日はちょっと疲れたから、すぐに帰って休むことにするよ』と送信すると、荷物をまとめて早々に教室を出た。
まっすぐ亮の自宅まで戻り、玄関を開ける。両親共働きの大輪田家は誰もおらず、閉め切られた家の中は蒸し暑くなっていた。
クーラーの電源を入れる前に、ひとまず家中の窓という窓を開け、風を通す。やかましい蝉の鳴き声も飛び込んでくるが仕方がない。快適にはまだ程遠いが、停滞していた家の中の空気が動き出した。
「あっちぃあっちぃ」
制服、下着を乱暴に脱ぎ捨て、風呂場へと直行する。冷水のシャワーを頭から浴びると、身体の表面を無数の水滴が走り、汗と共に疲労を取り去ってくれた。髪の毛を両手でわしわしと洗うと、頭皮にも心地よい冷たさが届いた。
「っくぁー!」
思わずいい声が出た。亮がおかしそうな反応を返す。だが、その反応にもどこか元気がない。
「いやぁ、二週間程度しか味わってない人間生活だが、シャワーは最高だな!」
胸の中の暗い気持ちを押しこめて、努めて元気に声に出した。いまは言葉だけでも元気に見せておいたほうが、亮を不安にさせずに済むだろう。古林典子を亡くして、辛いのは俺よりも、文芸部員でありクラスメートとして過ごしてきた亮のはずなのだから。
それから数分シャワーを浴び続け、顔の脂も洗い落し、さっぱりする。シャワーの蛇口を閉め、タオルで髪と身体を拭きながら、洗面台の鏡に映った亮の顔を見た。
亮の身体に発生した当初は違和感ばかりだった、俺の目線から見る、鏡に映った他人の顔。いまでは違和感は無くなり、まるで自分の顔かのように感じている。しかし、その状態こそが錯覚であると、改めて自分に言い聞かせた。
これは、出て行くべき身体だ。
右手でそっと亮の顔に触れてみる。自分の顔に指が触れたのを皮膚で感じた。これは、俺が亮の中に発生した日から数日間、毎晩の風呂でやっていた行為だった。
当時、鏡に映った亮を見ても、俺が亮の身体を支配しているという実感が得られなかった。鏡を見ながら亮の顔に触れることで、亮の身体の内に自分が居ることを確かめようとしていたのだ。久しぶりにその行為をした俺に、亮が不思議そうな反応を返した。
「亮の身体から出て行って、新しい身体を手に入れることができたら、また同じ違和感を受けるわけか」
亮は応えない。
「なぁ、亮。少し、話をしていいか」
こんどは了解を示す反応が返ってきた。
「俺は……俺と亮はこの後、どうなるんだろうな」
鏡越しに亮の目を覗くように見る。シャワーヘッドに残った水滴が落ちて、小さな音を立てた。
「たとえば、俺がこのまま、亮の身体からは出ていけなかったら」
亮の動揺が伝わってきた。
「俺は、どうやってお前に償えばいいんだろう」
返事はない。実際、償う方法などないのだ。亮の身体から出ていけないということは、俺が亮の人生全てを奪うということだ。この質問は、亮にしていいものではない。
「すまない。この話はやめよう」自分にも言い聞かせる。「そしてもうひとつ。ちょっと事件が重なりすぎだ」
おとといのドクロシャツ、きのうの黒砂幸の暴言、そして桐川業太との遭遇、さらには古林典子の自殺。
「これは――俺が、関係していると思うか?」
しばし、迷ったような反応が続き、やがて亮ははっきりと、肯定の反応を返した。
「単純に考えて、そうだよな。いくらなんでもでき過ぎている」
ここ数日のすべての事件は、俺が発生してから起きていて、それより前には徴候すらない。亮よりも俺が関係していると考えるのが妥当だ。しかし、どう関係しているのかまではわからない。
視点を変えて、事件は誰が意図して起こしているかを考えてみよう。古林典子が自殺してしまったことで、古林典子に暴言を吐いた黒砂幸への疑惑は更に強まった。黒砂幸が三つの事件の首謀者なのだろうか。
しかし、ほかの二つの事件のように俺を狙うのではなく、なぜ古林典子を狙ったのか。その意図がつかめない。
「黒砂幸は俺の存在に気付いているのか?」
亮は曖昧な返事を返す。
これまで、完全ではないにしても、まわりに対して亮から俺に交代したことは隠してきた。そもそも、亮とクラスが異なり、部活等での関わりもない黒砂幸が俺の存在に気付く要素はないのだ。
「黒砂幸が一連の事件の中心だとすると……ひとつの可能性は、黒砂幸もまた、いまの俺と亮のような特殊な存在、っていうことだろうか」
だが、それはどんな存在なのか? それも見当がつかない。
「直接黒砂幸に聞いてみるか……?」
亮が反対の感情の波を立てた。激しいものではなく、諌めるような感情。たしかに、黒砂幸が特殊な存在だとして、その正体がつかめないうちに行動するのは危険だ。
「そもそも、借り物の身体で無理はできないな」
鏡に映った亮の身体を見た。細く引き締まった手足、お世辞にも筋肉があるとは言えないが、決して太ってはいない腹部。亮の穏やかな性格を表すかのような、人当たりのよさそうな顔。
健康な高校生男子の肉体だ。これは、傷つけることなく亮に返してやらなくてはならない。
「慎重に、だな。ひとまず、もうしばらくは黒砂幸に注意してみよう」
亮からも肯定の反応。
「よしっ! じゃあ相談は終わりだ。ありがとうな、亮」
礼を言うと、タオルを絞り、ぱん、と張ってハンガーに掛け、風呂場から出た。
さっぱりした気分で鼻歌交じりに風呂場を出て、バスタオルでさっと身体を拭く。肩にバスタオルをかけて、全裸のまま脱衣所からリビングへ。
「あ、お兄ちゃん、ただい……」
恵が帰ってきていた。
ま、の発音の代わりに、口をぱっくりと開き、視線は亮の顔から下、両足の間へ。恵が視線をそらすのと、亮が大騒ぎを始めたのがほぼ同時。俺は慌ててバスタオルで亮の下半身を隠す。
「もう! お兄ちゃん、ちゃんと隠してよ! 変態!」
恵はそっぽを向いたまま言った。少し赤面している。かわいいやつめ。
「悪かった、ごめん」バスタオルを腰に巻きなおして言う。「恵が帰ってきてると思わなくてさ。今日は早かったのか?」
「期末テストだったから、午前中だけだった。てゆーか、お兄ちゃんこそなんでこんなに早いのよ」
恵は冷蔵庫の麦茶をグラスに注いでいる。なにも言わずともグラスはふたつ用意され、きちんと氷も入れてくれている。よくできた妹だ。
「学校でちょっと事件があってな。午後は休みになった」
「事件?」恵は麦茶のグラスを差し出す。「なにがあったの?」
俺は受け取ったグラスの麦茶を一息に飲み干す。よく冷えた麦茶が食道から胃へ。キン、と喉のあたりが冷気で痛く、心地よい。夏しか知らんが、こういうのを夏の味というのだろう。
「麦茶、サンキュー。事件はあんまり言いたくないな……ちょっと疲れてるから、昼寝する」
「あ、もう、気になるじゃない。お兄ちゃん冷たいー! 彼女さんに告げ口してやる!」
いーっと口を横に伸ばして睨んでいる恵を横目に、俺は脱ぎ捨てたワイシャツを広い、脱衣籠に放りこむと、二階の自室へと向かった。
寝る前に充電しておこうと、制服のポケットから携帯電話を取り出すと、メール受信の通知があった。
『亮くん大丈夫? 心配です……先に帰るのはりょうかい。元気出してね!(^o^)』と書かれている。なにか返信をしようとしたが、まず亮に尋ねてみる。
「亮、体調を理由に日曜のデートを断ることもできるが、どうする?」
亮の反応は悩んでいた。
「ま、あんまりお預けくらわすわけにもいかないよな……」
勉強机に置いたチケットに目をやる。明後日の日曜に千華と行く約束をしている美術展のチケットだ。
「予定通りでいいか?」
再度の問いに、亮は少し悩んでから、肯定の反応を返した。
「OK、上手くやるよ」
千華に返信せずに携帯電話を閉じ、充電器に挿すと、ベッドに飛び込んだ。
目を閉じて大きく深呼吸すると、意識はすぐに深い眠りへと沈んでいった。




