三.喪失する七月八日(金曜日)(1)
目覚まし時計が無慈悲に朝の訪れを告げる。爽やかな朝日がカーテンのすきまから洩れていたが、今はそれも恨めしく思えた。
眠い目をこすり、運動を拒絶する身体を無理やり起こした。二日間連続で亮の身体に無理をさせた反動だ。たっぷり八時間は寝たのに、身体はもっと寝かせろと訴えてくる。
特に頭脳を何度も酷使したせいか、脳細胞の大部分がストライキ中で目覚めてくれない。
着替えれば目が覚めるかと思い試みるも、靴下が裏返しになったり、ワイシャツのボタンをかけちがえたりと、とにかくすべてが上手くいかなかった。
しかし、学校には行かなくてはならない。それが高校生としての義務らしいのだ。勉強ができて学校を休むやつより、勉強ができなくても毎日出席する奴のほうが偉いという妙なルールなのだ。「社会で生きていくために」毎日出席して社会を勉強しろということらしい。だからこの社会で生きていくであろうこの身体の主、亮の為に、俺は健気に準備を終えた。
階段から転げ落ちないよう、いつもの倍の慎重さで階下に降りる。洗面台で顔を洗うと、ようやくすこし頭がスッキリした。
リビングから朝食のトーストの香りが届き、腹が物欲しげにぐぅと鳴った。テーブルでテレビを見ながら朝食を食べている恵に声をかける。
「おはよう」
「おはよー」
恵はハムエッグにソースをかけている。
「いただきます」
椅子に腰かけ、ぱん、と両手を合わせて食事前の挨拶……と、亮の身体から俺の本体である黒い巨人がはみ出しかけた。恵や亮の母親に見えるわけではないものの、慌ててひっこめる。間違えて名前を喰う段取りをしてしまっていたようだ。
ニュースはいつもの画数占いをやっている。女性キャスターの能天気な声が耳に痛い。亮の名前の画数は本日の運勢が最悪だったが、恵はなにも言わなかった。できた妹だが、ここで無言は、それはそれでツラいものがある。そもそも、俺の名前じゃないから、気にすることではないが。
恵から数分遅れて食事を終え、高校へ行く準備を終える。靴を履こうとすると、亮の母が慌てた声で引きとめた。
「ちょっと亮、あんた服! 服!」
言われて自分の服装を上着から順番に見直して……腰のあたりで目が止まる。上半身はワイシャツにブレザーを着ていたのに、下半身に部屋着のジャージを着ていた。
疲れの抜けない身体に、夏の日差しが辛い。通学路で何度も大あくびをかき、そのたびに千華に笑われながら学校に着くと、校舎への入り口辺りに生徒がごった返していた。
「なんだろー?」
「……何かあったのかな?」
辺りを観察したが、見える範囲に特におかしなところはない。
「ひとまず、自転車置いてくるね」
そう告げて千華と別れる。自転車置き場までの道のりにも、特に変わったところはない。
数分後、自転車を置いて戻ってきても、まだ校舎の入り口は混雑していた。集まっている生徒達も、なにが起こっているか把握できていないらしく、一様に不思議そうな顔をしている。
人ごみの中に新田を見つけ、俺はその背中を軽く叩く。
「いてっ、おい押すな……ん? あ、亮か」
「おはよう。なんかあったのか?」
「なんか事件があったみたいだぞ。先生がバタついてた。トミセンがさっき『まだ入るな』ってでかい分度器持ってわめいてたな」
「事件がなにかはわからないのか?」
新田は首を横に振って肩をすくめた。ざわつく周囲からは「校内で殺虫剤を撒いてる」とか「変質者が中で暴れてる」とか、さまざまな憶測が飛び交うのが聞こえてくる。
俺と新田は陽射しを避けて、校舎入口から少し離れた日陰に立ち人ごみを見ていた。
「ふわ~~ぁっと」
新田が大きなあくびをする。それにつられて、俺も新田の三倍大きなあくびをしかけた、そのとき。
「くすっ。くすくすっ」
あの笑い声が聞こえて、あくびを途中でのみこみ、声のしたほうを探した。
気を抜いていたことを反省した。人ごみのどこかから聞こえてきたのは確かだ。だがどこから聞こえたのかまではわからない。思わず身体が緊張した。この笑い声には、どこか悪意と寒さを覚える。
「なぁ、いま笑い声が聞こえなかったか?」
「……へ? いや、わからなかったけど」
新田はきょとんとした顔。おかしい、はっきりそれだと聞こえるほどに、まわりのざわめき声からは浮いていたはずなのだが。
突然、背中のあたりが寒くなり、身震いした。うしろを見るが、もちろんなにも居ない。胸がざわざわしてきた。落ちつかなくなり、辺りを見回す。亮も不安そうな感情の波を立てた。
と、人ごみの中からひときわ大きなざわめきが起こる。
そのざわめきはさらに大きくなり、だんだんと外側へ。人の言葉が群衆の中心から波打つように、リレーして外側にいる俺たちのところへ。
「古林」
知っている名前が聞こえた。
「B組の女子、古林」
「古林が、首を」
なんだって。
「B組の女子が首を吊って」
「死んだって」
そこまで聞こえて、血の気が引いた。思わず意識を飛ばしそうになる。身体がぐらつき、倒れそうになるのを足を少し横に開いて持ちこたえた。
「おい、亮」
新田が亮の名を呼んだのと、俺が飛び出したのは同時だった。
「亮っ!」
再度、新田の声が聞こえたが、振りかえらない。
人ごみをかき分けて、強引に奥へ。知らない男子のブレザーをひっつかみ、女子の腰を押しのけ、変なところを触るなと男女両方から殴られながら、人垣を前へ前へと泳ぐ。
校舎入口まで辿りつき、富田と目が合う。富田が言葉を発さずとも、校舎の中に入れる気がないのが、表情からわかった。
その一瞬の交錯のあと、富田をどうかわそうかと考えたていたとき、富田のほうが俺から視線を切って後ろを見た。……まるで、誰かに呼ばれたかのように。
その隙に、富田の横をすりぬけ、校舎の中へと飛び込んだ。わぁっと群衆の声があがる中で、千華が亮の名を呼ぶ声と、富田のどなり声が聞こえた。
誰もいない朝の校舎は、窓から差し込む光がきらきらと輝いている。走りながら、昨夜、古林典子を探して駆け回ったことを思い出す。
階段を二段飛ばしで駆けあがる。踊り場で驚いた顔の教師に遭遇。無視して走る。さらに上階へと登りながら、古林典子との会話、亮に宛てられたメールの文面も、頭に浮かんできた。
『嬉しかったです』と。
『またよろしくね』と。
『亮の新作を楽しみにしている』と。
その古林が、首を吊るなんていうのはあり得ない。なにかの間違いだ。
三階に着くと、生徒会室のほうから教師たちと思われるざわめきがこえてきた。階段の影から生徒会室を伺う。体中の汗腺が一斉に蜂起し、嫌な汗が首筋を伝った。
生徒会室の前に、黒砂幸と何人かの教師、それと警察官らしき制服姿が見えた。
教師の一人がこちらを向き、俺と目があった。隠れていられなくなった俺は生徒会室めがけて飛び出し、走り出す。
「こら、入ってくるな! 戻れ!」
教師のひとりが怒鳴る。亮の、そして古林典子の担任の国語教師、小川だ。三十代前半だったか、若い男性の教師で、新婚。よく生徒達にいじられている。
小川にかまわず、生徒会室の扉のほうへ。
「大輪田君!?」
黒砂幸が驚きの声をあげた。
なかば激突するような形で、扉の前にいた別の教師を押しのける。開かれたままの生徒会室の扉から中を、見た。
つぎの瞬間には、警察官二人に押さえつけられ、俺の視界はリノリウムの床のタイルでいっぱいになった。
「入り口で来るなと言われただろう! どうして待機していないんだ!」
教師の怒鳴る声がする。警官たちは俺に部屋の中を見せまいと身体で部屋の入口に壁を作ったが、俺の記憶にはいま見た光景がしっかりと刻まれていた。
俺が借りてる亮の脳みそは、その映像を解釈するので精一杯で、横で怒鳴る大人の言葉なんて、微塵も入る余裕がなかった。
生徒会室の中心には、天井から無骨な灰色のロープが下がっていた。ロープの端には、女子の制服を着た、百五十センチに満たない小さな身体が、力なく、両手両足をだらりと降ろし、ぶら下がっている。
顔は、おかっぱの前髪に隠れて見えない。だけど、ぶら下がっていたその女子生徒は、疑いようも無く、古林典子だった。
昨日まであんなに健気に笑っていて、これからも頑張るといっていたのに。
遠くを走る救急車のサイレンの音が近づき、校内まで入ってきたと思われたところで、その不吉な音がプツリと途切れた。
「ほらっ、大輪田! こっちに来るんだ!」
教師と警官に両脇を抱えられて立たされ、連れて行かれる。
「大輪田君……」
黒砂幸に亮の名を呼ばれて、黒砂幸を睨みつけた。黒砂幸はその視線に怯えたような表情を見せた。
俺は引きずられながら、廊下の角を曲がり姿が見えなくなるまで、黒砂幸から目線を切らなかった。体の中の亮が、さっきからずっと、吠えていた。




