二.奔走する七月七日(木曜日)(6)
千華を自宅まで送って別れ、あたりを警戒しつつ自転車に乗る。今日はドクロシャツ達の姿は見えなかった。
昨日あれだけ痛い目を見せたので、現れないのは当然だろう。それでも、頭が自然と警戒してしまう。辺りを確認しながら慎重に自転車を走らせた。
日は完全に暮れている。人通りは少ない。どこかの家の夕飯であろう、食欲を誘う臭いが漂ってくる。街灯が寂しげに光っていた。
俺はできるだけ大きな道を選んで走った。ときどき、仕事帰りらしいサラリーマンやOLとすれ違う。角を曲がり、自宅近くの通りに入ろうとして、思わず自転車を止めた。
普段と雰囲気が明らかに違う。いくら夜とはいえ、真夏だというのにうす寒く感じるような、気味の悪い空気だ。
見える景色におかしいところがあるわけではない。人の姿はないが、もともと住宅街で人の通りが少ない場所だ。異常がないはずなのに、なにか違和感がある。
ザリ、と摺るような音がして、そちらを注目する。小さな猫が走って行った。
「なんだ、猫か……」
安堵の息を吐いたとき、今度は後ろから「くす」と小さな笑い声が聞こえた。ドキリとして振りむいてみるが、やはりそこには誰もいなかった。
瞬間、数時間前のことを思い出した。校内で黒砂幸が古林典子に怒鳴っている現場。あそこに向かう直前に聞いたのと同じ声だ。思わず身震いする。
辺りを注意し、自転車を降りた。もし何かが起こった時、自転車に跨ったままでは動きづらい。
後ろを見て、なにもいないことを確認する。ふたたび前を向くと、こんどは前方に人影があった。角を曲がってきたらしいその人影は、この暑い中、くたびれた長袖のオリーブグリーンのジャケットを着込み、キャップを深く被っている。やや背の高い、おそらく男。
俺に向かってゆっくりと歩いてくるその足取りは、通常の人物のそれではなかった。ホラーゲームに出てくるゾンビのような、もっと虚ろで、不気味な動き。
俺は自転車を手放した。ガシャ、と音を立てて、支えを失った自転車が地面に転がる。カゴに載せたままの鞄が飛び出した。
前方の人物が顔をあげた。どこも見ていないような目は、視線だけがこちらに向いていて、異様にギラギラ光っている。
「見つけた……」
低い声から男性だと推測できた。ジャケットの袖から、するり、と光るなにかが飛び出す。包丁だった。表面が赤黒くサビついている。その場がまたいちだんと寒くなった気がした。
頭の中にいくつかの情報が駆け巡った。いまだ捕まっていない通り魔の記事。図書室で読んだ新聞の下手くそな犯人像が思いだされる。あれは、確かにジャケットを着て、キャップを深くかぶった姿だった。
あのときバカにした通り魔の犯人像の絵の作者に、心の中で謝罪した。見知らぬ画伯、あんたのおかげで目の前のこいつが通り魔だと確信できたよ。
もう一度目の前の男の顔、服装、凶器を確認する。包丁が赤黒く錆びているのは、これまでの犠牲者の血をぬぐわなかったからだろうか。
「亮、二日連続で身体を借りることになりそうだ。でも重症や、死ぬよりいいよな?」
一応、亮の身体を使う確認をとる。亮は賛成してくれた。
左の肩を前に出し、半身の構えを取る。生身の人間なら、いかに包丁を持っていようと、人間の筋肉を限界以上に使える俺の敵ではない。まして、少なくとも見える範囲には相手は一人。昨日のように集団に囲まれる心配もない。
通り魔男は無言で、狂気に満ちた笑顔をたたえてこちらに向かって来た。走り出すでもなく、一歩一歩確実に距離を詰めてくる。突進のような一方向的な行動ではない。さまざまな展開が考えられる分、このほうが厄介だ。
俺は一歩だけ退いた。もし戦わずに済むなら、そのほうがありがたい。時間を稼いで誰かが通るのを待つか、もしくは隙を見て逃げ出すか。
通り魔男との距離は四メートルほど。背中を見せて逃げだすにはすこし近すぎるか。俺は時間を稼ぐほうを選択しようと考えた。
だが、ふと思いとどまる。こいつはすでに何人かを殺傷している犯罪者だ。こいつから逃げるということは、俺は助かっても、別の誰かが危険にさらされるということではないだろうか?
ニュースで見た、被害にあったという女子大生の顔と、キャスターの深刻そうな表情がフラッシュバックする。
うぬぼれるわけではないが、亮の身体をフルに使えば、こいつを押さえることくらいはできるだろう。倒さなくてもいい。警察に提供できるような個人情報がわかればいいのだ。
「お前、名前は?」
反応はない。
「善良な俺としては、こういう奴を放っておくわけにはいかない。なんとか名前でもなんでも、こいつの情報を手に入れて、警察に通報できるようにしよう。いいな?」
亮は賛成の反応。
「都合よく、名刺でも持っててくれるといいんだけどな」
小さく溜息をつく。一歩前へ出ることで、戦闘の意思を相手に提示すると、通り魔男が嬉しそうに目を細めた。
男は大股で距離を詰めてくる。三歩目で俺の目の前へ。包丁を持った右手が持ちあがり、次の瞬間には顔に狙いを定めて振りおろされていた。
俺は目を見開いて、息を吸い、止める。亮の頭脳も含めた身体の全力を解放し、集中力を最大限発揮。頭脳を活性化し処理能力を高めたことで、通り魔男の動きがまるでスロー再生のように見える。
迫りくる包丁の刃を、腰から上の動きだけでギリギリかわす。赤黒く汚れた銀の刃が目の前を通り過ぎた。刃と鼻の頭の間を空気が流れる。肉の腐ったような臭いを感じた。包丁にこびりついた犠牲者の身体の脂だろうか。
包丁を空振りしたことで、通り魔男の身体は一瞬バランスを失った。その瞬間を逃さず、男の右手を獲り、その親指を掴んでねじり上げる。
「ぎっ!」
歯ぎしりのような不快な音を口から漏らして、通り魔男は目を見開いた。指をねじられた痛みか、男の右手が開かれ、包丁が地面に落ちた。
そのまま通り魔男のジャケットの肩と袖を掴み、大外刈りで地面に投げ倒す。受け身もなにも取らなかった男の身体が、コンクリートに激突して重たく鈍い音を立てた。
さらに通り魔男に馬乗りになって両手を押さえ自由を奪い、ようやく俺は息を吐きだした。
遅れて、亮の身体を無理に動かした痛みが返ってくるが、今は無視する。
「さて、もう一度聞こう。お前の名前はなんていうんだ?」
通り魔男は虚ろな目で、荒く呼吸するばかりだった。返事がないので、膝で男の腹を圧迫するように体重をかける。
「ぐひぇ」
通り魔男が苦しそうに空気を吐いた。
「言え! お前の名前だ! 言葉がわからないわけじゃないだろ!?」
「ふひゅ、ふひ、へへぁ、へぁ、へぁ……」
通り魔男は気味の悪い音を立てて呼吸を繰り返すばかりだった。このままではらちがあかない。
「答えないなら、勝手に調べさせてもらうぞ」
右足で通り魔男の左手を押さえ、代わりに自由になった右手で男の上半身をチェックする。何が哀しくて野郎の身体なんてまさぐらなきゃいけないんだ。
ジャケットの胸元で堅いモノに触れ、ジッパーを降ろして中を探ると、内ポケットから薄っぺらい財布と携帯電話が出てきた。
財布の中身を改める。身元がわかるものが入っていればと思ったが、小銭とレシート、それから自宅や自転車のものと思われる鍵束しか入っていなかった。財布は横に投げ捨てて、次は携帯電話を開いた。
携帯電話の所有者情報を表示させる。
「名前は……あった。桐川業太……だな」
通り魔男は空を見つめたままだったが、名前を呼んだその瞬間だけ、ふっと呼吸が乱れた。こいつの名前は桐川業太で間違いなさそうだ。もしこいつの名前じゃなくても、全くの無関係ということはないだろう。これを警察に伝えれば、あとはなんとかしてくれるはずだ。
「ほかにも確認しておくか……」
アドレス帳を開く。自宅と、アルバイト先かなにかだと思われるいくつかの店舗名のほかにはなにも登録されていない。
次にメールボックス。こちらも送信メールボックスは空っぽで、受信メールボックスは未読のままの迷惑メールでびっしりだった。
「なにもなし、か……あまり期待はしてなかったが」
最後に発着信履歴を確認しようとした。そのとき。
「ふっ! ぐおおおおお!」
突然、桐川業太が暴れだした。俺は思わずバランスを崩しそうになる。桐川業太の左手を押さえていた亮の右足がはずれた。
携帯電話を手放し、桐川業太の左手を押さえようとした。しかし桐川業太は俺の手をかわし、そのまま左手をジャケットの袖に引っ込めた。
次の瞬間、再び現れた桐川業太の左手は、銀色に光る果物ナイフを握っていた。
やられた。はじめから袖の中に仕込んでいたのだ。財布と携帯電話を見つけた時点で止めずに、先に全身をチェックし、確認しておくべきだった。
やばい、と頭の中で本能が叫んだ。すぐに頭脳をフル稼働する。ふたたび視界がスローモーションになった。
右手での防御は間に合わない。どうする。果物ナイフはすでに亮の頭、こめかみのあたりに向かって突進している。いくら集中力を最大限に高めて、スローで感じ取っても、亮の身体の動く速さには限界がある。
この危機的状況を、どうやって回避すればいい?
考えた末、俺は桐川業太の名前を喰う事を決意した。亮の身体を傷つけさせるわけにはいかない。
イメージする。目の前にいる桐川業太。その心の内にあり、桐川業太という存在を支えている名前。その文字。
亮の身体から、どす黒い塊が飛び出す。人の上半身のようなシルエットの、黒い煙みたいな物質。俺の視点はその塊の顔の位置に移動した。
この黒い巨人は、俺が人の名前を喰うときに亮の身体から現れる。人間の目には見えないので、いまの説明は俺が感じ取ったイメージみたいなものだ。
しかし、どうやらこの黒い巨人こそが俺の本体らしい。
躊躇している暇はない。胸の前で手を合わせる。食事前の大事な大事な挨拶だ。
「いただきます」
黒い塊の口の部分からそう発したが、それもまた人の聞こえる音にはならない。それでも俺はそう宣言する。これから喰う相手には礼儀を尽くす。たとえ相手が通り魔でも。
あんぐ、と口をあける。ひらかれた口腔は顔の何倍の大きさにもなり、黒い風呂敷を広げたようになった。
そのまま、桐川業太に頭からかぶりつく。桐川業太の名前が、上の文字から順番に、俺の喉の中に飛び込んでいく。
桐の字が喉の奥まで飛び込み、川の字が根本で折れて、残りの業太の文字と別々の頬の中に収まった。
大きく二度咀嚼する。桐川業太の存在、感情、記憶、希望、絶望、挫折、屈折、そのほか人生の紆余曲折、およそ語りつくすことのできない大量の情報が、印象となって口いっぱいに広がる。噛めば噛むほど、味の形を取って「人間味」が滲み出る。
俺はさらに二度噛んで、それから喉をぱんぱんに膨らませて呑みこんだ。黒い塊となった俺の体内、胃袋へと、桐川業太の名前が流れ込んでいく。
最後のひとかけら、「太」の字のまんなかの点が胃に収まったとき、視界が暗転した。
「げっ! げほっ! ごっ!」
むせたのは、亮の身体だった。
俺の実態と思われる黒い影は一瞬で亮の中に引っ込んで消えた。そして俺の視界もまた、亮の両目の位置に戻ってきていた。
飛び跳ねるように桐川業太から離れた。桐川業太の手にしていた果物ナイフは、綺麗な銀色のまま地面に転がっていた。桐川業太の手から力が抜けたことで、亮に刺さることなく手からすっぽ抜けたようだ。
そして、桐川業太自身は、その場から動かずに、コンクリートにあおむけになったままで、小さく呼吸を繰り返していた。目も口もだらしなく開いたまま、言葉にならない小さな音を時々吐いている。
「間に合った、か……」
ようやく息をついた。体中を倦怠感が襲う。名前を喰うという挙動は、思った以上に体力を消費するようだ。
ひとまず、亮の身体に傷をつけずに済んだ。
一方、桐川業太は自身の名前を喰われ、存在を規定するものを失い、自我が崩壊してしまったようだ。いま、桐川業太が自分を自分だと思っていた根拠は、俺の胃袋の中にある。
「とりあえず、警察に通報して家に帰ろう……しかし、うぷっ」
胃の中から酸っぱいものがこみ上げてくるような気がして、思わず口を押さえる。
さっき喰った名前が入ったのは俺の「名前を喰う胃袋」だ。亮の胃袋に影響があるはずはない。それでも今なお気持ち悪さを感じるほど、桐川業太の名前は不味かった。
「行動が外道なら、名前の味も外道味かよ……」
食ったことはないし、亮の記憶にもないが、きっとゲテモノの類を喰ったときはこんな味がするのだろう。
「気持ちわりぃ……」
腹をさすりながら言い、念のためもういちど桐川業太の携帯電話を拾い上げた。自我を失った通り魔男は、俺が勝手に携帯電話を操作しても、もうなにも反応しない。発着信履歴を開いてみるが、そこは空欄のままだった。
「履歴は消去してあるな……結局、名前以外のことはわからずじまい、か」
携帯電話を閉じ、指紋を残さぬよう、ポケットに入っていたハンカチで丁寧にぬぐうと、横たわる桐川業太のほうへ投げやった。
「倒すしかなかったか」
ひとつ溜息をついた。あまり長居をすると誰かに見られる可能性が高くなる。
桐川業太については、後で警察に通報しておけばいいだろう。血のついた包丁という物的証拠もある。
コンクリートに横たわる桐川業太を引きずり、道の端に寄せると、自分の鞄を拾って自転車にまたがり、その場を後にした。




