二.奔走する七月七日(木曜日)(4)
生徒会室を出た俺は、いったんロッカーに寄って荷物をまとめてから、自転車置き場へ向かう。
五時を回っても夏の太陽は強く照りつけ、首元が汗ばんだ。
「黒砂幸は悪いやつじゃない、よなぁ。あのドクロシャツ達を裏で操るようなやつだとは考えたくないな」
黒砂幸と話した俺の感想だった。亮から肯定の返事の波。
しかし、話を切り出したときの黒砂幸の反応はなにか引っかかるものがあった。あのとき、黒砂幸は自分が思わずしてしまった反応を悟られまいとしていなかったか。単純に驚いただけなら、表情を慌てて直す必要はない。
自転車置き場に向かっていると、反対側から歩いてくる姿があった。一人ぼっちで向かってくるそいつは、以前もこの場所で出会った佐倉貴だった。
佐倉貴は俺を見つけると、片手を小さくあげて微笑んだ。
「やあ」
「やあ。今帰り?」
亮の声色を作って、愛想よく佐倉貴に返事する。
「うん。ちょっと残って自習しててね。あ、そうそう」言いながら佐倉貴は自分が来た校舎のほうをうかがう。「あっちで生徒会長がなんだかもめてたみたいで……大丈夫かな?」
「生徒会長……黒砂さんが?」
思わず聞き返した。さっきまで生徒会室で一緒に話していたはずの黒砂幸がなぜ?
「うん……僕はもう帰らなきゃいけないけど……」
佐倉貴はちらちらと校舎のほうを気にしている。
「わかった。見に行ってみるよ」
「そう、じゃあ僕はこれで。またね」
佐倉貴は片手をあげると、正門へと歩いて行った。
その後ろ姿を見送ってから、俺は校舎へと歩きだす。そのときだった。
「くす」
と、背後で笑い声が聞こえたような気がして、俺は振りむく。
佐倉貴の姿はもう見えなくなっていた。門を出てしまったのなら声が聞こえる距離ではない。周りも見渡してみるが、誰かがいる気配はない。
「……気のせいか?」
確かに聞こえたと思ったのだが。何かひっかかるものを感じつつも、校舎の方へ向かった。
「どうしてあんな簡単なこともできないのよ!」
校舎の近くまで来ると、中から女子生徒のものと思われる大声が聞こえてきた。
それは、黒砂幸の声のように思えた。
思えた、というのは、およそ黒砂幸がこんな声を挙げるとは考えられないほど、感情をむき出しにしていたからだ。
しかし、その声は確かに黒砂幸のものだった。
「毎日言ってるじゃない!」
「同じミスばっかりして!」
「なんとか言いなさいよ!」
相手の声は聞こえなかった。
校舎内に入り、気付かれないよう足音を殺して、そっと声のするほうへ近づく。靴箱の影から廊下を窺うと、そこにはやはり黒砂幸がいた。
そして黒砂幸の向こうに、小さな人影。古林典子だった。
さっき生徒会室で別れてから、そんなに時間が経っていないはずだ。黒砂幸は古林典子を追いかけてきたのだろうか?
「本当に、あなたのせいでみんなが困っているのよ!」
古林典子はうつむいて、肩を震わせて、黒砂幸の言葉をただ受けていた。
表情が髪にかくれてわからないが、泣いているように見える。
なにも言わない古林典子に、黒砂幸の言葉は止まらない。
「誰があなたのミスの尻拭いをしてると思ってるの!」
「あなたがいるだけで生徒会室の雰囲気が悪くなるの!」
それは、無抵抗の相手をナイフで刺しているような、残酷な言葉の羅列だった。仕事のミスとは関係ない、古林典子の性質まで、黒砂幸は批判の言葉で攻め立てる。
いくらなんでも、そこまで言わなくてもいいんじゃないか。
さっき生徒会室の前で、古林典子のことを気にかけていた黒砂幸からは、およそ想像できない、冷たい声。
黒砂幸の言葉が放たれるたび、古林典子の肩がびくりと跳ねる。
それでも黒砂幸はやめなかった。理屈の伴わない、ただただ暴力的な言葉の刃は、横で聞いている俺にとっても、刺さるかのように鋭かった。
ただ少しミスをしただけで、古林典子はここまで怒られなくてはいけないだろうか? 黒砂幸の持つ生徒会長の肩書には、それほどの権利があるっていうのか?
黒く、粘っこい感情が沸き上がる。言いようのない怒りの感情。身体の表面がざわつくような感覚。思わず、握った右手に力が入った。
「――もう、あなたなんて使えない人は」
そして。最後に、黒砂幸は、決して言ってはいけない言葉を吐いた。
「――死んじゃえば、いいのに」
古林典子の肩は動かなかった。
俺は、飛び出したい衝動を必死で抑えた。
俺ではなく大輪田亮ならどうするか、考えなくてはならない。しかし上手くいかない。大輪田亮を演じることができない。
俺の内で、大輪田亮もまた、どうしていいかわからないような反応をしていた。
迷っているあいだに、古林典子の拳はぎゅっと握られ、それからすぐに、力なく開かれた。そして古林典子は、その場から駆けだした。床のタイルを踏む上履きの音が、廊下の奥へと遠ざかって行く。
「あっ、古林さん!?」
声をあげたのは、黒砂幸だった。困惑した声。古林典子が駆けて行ったほうへ、掴むように右手を伸ばし、そして二、三歩前へ出る。
「あれ? 古林、さん……?」
黒砂幸が発した声には、さっきまでの暴力的な勢いがなかった。
俺は足音を立てて黒砂幸に近付く。黒砂幸が振り向き、俺と眼を合わせてから、再び古林典子が駆けて行ったほうを向くと、その場にへたり込んだ。
「大輪田君……今の……」
「聞いてたよ」
やや低い声で、俺は答えた。黒砂幸はじっと床を見つめて、俺を見ようとはしない。
「私……あれ? そんなつもりじゃ……そんなこと言うつもりじゃ……私、生徒会長だから、しっかりしなくちゃって……生徒会長だから……」
黒砂幸の肩が震える。
ついさっき生徒会室で話したときの、あの凛とした声ではなかった。弱々しい、いまにも消えそうな声。
「……でも、黒砂さんは言ったよね」古林典子に対して、死んじゃえばいいのにって。「……言ったよね」
黒砂幸からの返事はない。
床に座ったままの黒砂幸を見ながら、俺は大輪田亮を演じ切れていないことを自覚する。
大輪田亮の声色を作ってはいる。だが黒砂幸に言葉を放っているのは、大輪田亮になりきれていない俺自身だった。溢れてくる感情に負けて、自分を抑えきれない。口をついて出る言葉を止められなかった。俺が善良だから、だろうか。
「さっきのは、言ってはいけない言葉だったと思う」
「違うの……」
黒砂幸が首を振る。
「そうじゃない、私、そんなこと言うつもりなかった!」
「でも言ったじゃないか!」
思わず、自分の声が怒気を帯びた。誰もいない廊下に声がわずかに反響する。
黒砂幸がこちらを見た。その唇は震えていて、目は涙で濡れていた。
「生徒会長だから、古林さんを、わたし、生徒会長……あれ……? せいとかい、ちょうなの……」
うわごとのようにつぶやく「女帝会長」黒砂幸。完璧であるはずの彼女が、顔をくしゃくしゃにして、泣いている。
その意外な姿に俺は一瞬違和感を覚え、口をつぐんだ。数十秒前の、古林典子を容赦なく攻めていた黒砂幸の姿とは思えなかった。
完璧な生徒会長、学校の有名人、『女帝会長』としての黒砂幸。
生徒会室で、俺が不良に襲撃された件で不可解な反応を示した黒砂幸。
古林典子を気遣い、優しく微笑んだ黒砂幸。
そのすぐあと、さっき気遣ったはずの古林典子に容赦ない言葉を吐いた黒砂幸。
そして、いま目の前で、すすり泣いている黒砂幸。
……わけがわからない。黒砂幸という人間は、統一していない。
「古林さんを探してくる」
そう俺が言ったのは、古林典子を気遣ってか、それともこの不可解な黒砂幸を理解するのを放棄したからか。俺自信にもわからない。
「……うん、お願い……」
焦点の定まらない、虚ろな目で黒砂幸は言った。俺は黒砂幸を残し、廊下の奥へと走り出した。




