四、 坪牢という名の「不良債権」
四、坪牢という名の「不良債権」
明治二年(一八六九年)の春、雪解けの水が吉田川を激しく流れる頃、帰郷した凌霜隊の生き残りたちを待っていたのは、想像を絶する「戦後処理」であった。
新政府の命令により、郡上藩は降伏した凌霜隊の身柄を引き取り、厳重に監禁することを義務付けられた。
しかし、藩の本音を言えば、彼らは一刻も早くこの世から消し去りたい「負の遺産(不良債権)」に他ならない。もし彼らが「藩の命令で戦った」と大声で叫べば、今度こそ青山家二万四千石は新政府によってお取り潰しになる。
そこで藩の幹部たちが構築したシステムが、城下の旧藩校の敷地内に作られた、通称「坪牢」への隔離であった。
坪牢とは、地面を深く掘り下げ、その四方を太い丸太の格子で囲った、半地下の鳥籠のような構造の牢である。広さはわずか数坪。
そこに十数人ずつの若者が押し込められた。天井は低く、大人が立ち上がることもできない。日差しは一切届かず、冬は凍てつく泥水が足元に溜まり、夏は風が通らずに悪臭が満ちる。
「……これが、命を懸けて戦った我が故郷の仕打ちか」
十七歳の遠藤進は、薄暗い牢の隅で、冷たい膝を抱えて震えていた。
会津の死闘を生き延び、ようやく故郷へ戻れると信じていた若者たちの肉体と精神は、この「生殺し」のシステムの前に、急速に磨り減っていった。
新政府への手前、藩は彼らに満足な食事を与えない。一日に出されるのは、わずかな粥と塩分だけ。
栄養失調と不衛生な環境から、若者たちの間には次々と結核や赤痢が蔓延し始めていた。
このまま全員が病死してくれれば、藩にとっては「書類上の問題」が自然に解決する。
坪牢とは、まさに合法的に若者たちを餓死・病死させるための、冷徹な「減価償却の仕組み」であった。




