ニ、 母の不渡り手形
二、母の不渡り手形
その凌霜隊の結成式が、城下の外れにある寺で極秘裏に行われたのは、雪が激しく舞う夜のことであった。
集まったのは、十七歳から二十代前半までの、まだ世間を知らぬうら若き藩士たち、四十五名。
彼らは藩の幹部から「これぞ真の忠義」「我が藩の未来は君たちの双肩にかかっている」という熱い神輿に担がれ、目を輝かせていた。
その中に、遠藤進、十七歳がいた。
進は、若くして夫を亡くした母・滝によって、女手一つで育てられた一人息子であった。
遠藤家は下級武士の家柄で、禄高(給与)はわずかに二十石。毎月の米の配給だけでは食うや食わずで、母の滝が夜遅くまで郡上紬の機を織り、そのわずかな内職の収入で進を養ってきたのである。
「進、本当に行くのですか」
出立の前夜、滝は囲炉裏の火を見つめたまま、静かに進に問いかけた。
滝は今年で四十二歳。贅肉のない引き締まった身体と、絶え間ない労働によって荒れた手が、彼女の歩んできた過酷な半生を物語っていた。
だが、その瞳だけは、城内のどんな家老よりも深く、時代の本質を見抜いているように澄んでいた。
「行くよ、母上。藩の幹部の方々も、僕たちを『藩の誇り』と言ってくださった。
ここで徳川様のために命を懸け、手柄を立てれば、我が遠藤家の二十石も、五十石、百石へと加増されるかもしれない。
そうなれば、もう母上に夜なべをして機を織らせることもなくなる」
進は、新調されたばかりの木綿の着物の袖をさすりながら、意気揚々と語った。
その着物の背には、家老から手渡された「凌霜」の菊花の紋が、白く染め抜かれている。
滝は、深くため息をついた。
彼女は長年、商人の街である八幡の職人や両替商たちと接してきた。だからこそ、組織が発行する「言葉の約束」がいかに脆いかを知っていた。
(手柄を立てれば加増……。そんなものは、表向きの組織が発行した、裏付けのない『不渡り手形』に過ぎない。城の上の人間たちは、進たちの命を、自分たちの身分を守るための『使い捨ての消耗品』としか思っていないのだ)
この幕末の小藩もまた、冷徹な「生存の損益計算」のために、進たちの命を帳簿の上で処理しているに過ぎない。
「進、覚えておきなさい」
滝は、進の目をまっすぐに見つめ、その不器用な手を握りしめた。
「藩のため、徳川様のため、などという大きな言葉に、あなたの命を預けてはなりません。
組織というものは、都合が悪くなれば、いつでもあなたを『裏切り者』として切り捨てます。
私の望みは、遠藤家の加増でも、武士の名誉でもない。ただ一つ、あなたが『生きて』この郡上の地に帰ってくること。それだけです」
「母上……」
「どんなに汚い泥水をすすっても、どんなに惨めな這い蹲り方をしても、生き延びなさい。死んでしまえば、組織の帳簿からは名前が消えるだけ。だけど、私にとっては、世界のすべてが消えるのと同じことなのですから」
進は、母の言葉の重さに圧倒され、ただ黙って頷くしかなかった。
翌朝、滝は笑顔で進を送り出した。
雪の山道を歩み去る四十五名の若者たちの背中を見送りながら、滝は心の中で、すでに始まっている「組織の裏切り」に対する、静かな、けれど苛烈な戦いの覚悟を固めていた。




