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一、 美濃二万四千石の計算尺

本作は、明治初期の

郡上八幡に実在した悲劇の別働隊「凌霜隊」と、彼らを裏で支えた家族の記録を基にした歴史小説です。


国家や藩という巨大な組織が、自己保身のためにいかに冷酷なシステムを稼働させ、末端の人間を切り捨てるのか。


そして、そのシステムの隙を突き、「生きること」の絶対的な価値を証明しようとした一人の母親の戦いを、

経済・組織論的な視点と、緻密な構造分析の筆致を意識して描き出します。



「本書(本作品)はフィクションです。作中に登場する人物、団体、名称、地名、事件などはすべて架空のものであり、実在するいかなる対象とも一切関係ありません。また、特定の思想・信条・宗教を支援または誹謗中傷する意図はございません。」



一、美濃二万四千石の計算尺


慶応四年(一八六八年)の一月、日本という巨大な国家組織は、未曾有の「システムエラー」を起こしていた。


鳥羽・伏見の戦いにおける旧幕府軍の敗北、そして徳川慶喜の江戸への敵前逃亡は、全国三百に及ぶ諸藩の経営者たちに、致命的な二者択一を迫ったのである。すなわち、「東(徳川)」に賭けるか、「西(薩長)」になびくか。この選択を一歩誤れば、待っているのは「改易」という名の倒産、あるいは一族郎党の滅亡であった。


美濃国郡上郡(現在の岐阜県郡上市)を統治する青山家、二万四千石。


この小大名にとっても、事態は一刻の猶予も許されなかった。城下を流れる吉田川のせせらぎは、いつもと変わらず清らかであったが、城内の奥書院に集まった幹部たちの空気は、凍りついたように重かった。


「薩長を中心とする新政府軍の東山道軍が、すでに美濃の大垣まで迫っております。このまま旧幕府への義理を立てておれば、我が二万四千石は一瞬にして官軍の鉄砲に踏み潰されましょう」


国家老の朝比奈主計かずえが、算盤そろばんを弾くような冷徹な声で言った。


彼の前には、諸国の情勢を記した最新の「情報カルテ」が広げられている。当時の郡上藩は、財政難にあえぐ典型的な過疎の山間さんかん藩であった。


工業製品といえば特産の郡上地染(藍染)くらいのもので、軍事力も旧式の火縄銃や槍が主流。新政府軍の持つアームストロング砲やスナイドル銃といった「最新テクノロジー」に対抗できるだけの資本も技術も、この藩には最初から存在しなかった。


「しかし、朝比奈殿。徳川家には二百五十年におよぶ大恩がある。


それに、もし江戸の東軍(旧幕府軍)が巻き返し、新政府軍を撃退したならば、真っ先に官軍に寝返った我が青山家は、裏切り者としてお取り潰しになるのではないか」


若い藩士が声を荒らげる。組織の論理とは、常にこの「二面性」に引き裂かれるものだ。



勝つ方に味方すれば生存できるが、勝敗が見えぬ段階での博打は、どちらに転んでも破滅のリスクを伴う。



郡上藩の首脳陣が出した結論は、日本の組織が古来より得意としてきた、実に見事な、そして同時に最も「卑劣」な二股リスクヘッジの戦略であった。



「藩の公式な方針(表看板)としては、新政府に恭順の意を示し、勤王を誓う。これによって薩長の軍勢を城下に入れず、領民と土地を守る」

朝比奈は、集まった若者たちの顔を見回した。



「だが、万が一のために、裏の看板を作る。藩士の中から『脱藩の不逞の輩』を偽装した別働隊を組織し、これを密かに江戸へ送り込んで幕府軍に合流させるのだ。その名を、凌霜隊りょうそうたいとする」

凌霜。


秋の終わりに、激しい霜の寒さに耐えて凛と咲く菊の花を意味する。



だが、その美しい名の裏にある本質は、冷酷なまでの「トカゲの尻尾切り」であった。



もし新政府が勝てば、凌霜隊は「藩の命令を無視して勝手に暴走した脱走兵」として処刑すればよい。藩本体は無傷で生き残る。


逆に徳川が勝てば、「実は裏で凌霜隊を組織し、徳川のために忠義を尽くしていた」と言い訳ができる。



若者たちの命を「保険の掛け金」として差し出す――それが、美濃二万四千石という中小企業が生き残るための、唯一の計算尺であった。

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