第8話 戻ってくれ、と仰いました
エドウィン様がお見えになりましたのは、雨の日でございました。
供を門の外に待たせて、お一人で入ってこられました。外套から水が落ちて、玄関の石を濡らします。母が布をお持ちしましたが、お受けになりませんでした。
「ラヴィニア」
「エドウィン様」
「話がある」
わたくしは応接間へお通しいたしました。ブリジットが茶を運びかけましたので、下がらせました。この子は公爵家の者を見ると、身体が半分ほど小さくなります。
◇
「母が、顧問に文を書かせている」
「伺っております」
「止めた。止めたが、聞かない」
「はい」
「あれは家のためだと思っている。思っていることは、本当にそう思っているんだ」
わたくしは頷きました。夫人はそういう方でございます。ご自分のためになさることが一つもございません。
「訴えになれば、君の名が出る」
「出ますでしょうね」
「困るだろう」
「困ります」
エドウィン様はそこで少し黙られました。困ると申し上げたことに驚かれたのだと思います。
困らないと申し上げるつもりはございません。困るものは困ります。
◇
「ラヴィニア。解消を、なかったことにできないか」
雨が窓を打っております。この家の窓は南側だけ音が高うございます。硝子が薄いからでございます。
「もう一度、婚約を結び直す。書面は取り下げる。母には私から言う。モーガンの話は、まだ形になっていない」
「エドウィン様」
「君が戻れば、書庫は元に戻る」
わたくしはその一言を聞いてから、ゆっくりお答えいたしました。
「戻りますでしょうね」
「そうだ」
「書庫は、戻ります」
エドウィン様はわたくしの言い方に何かを感じ取られたようでした。感じ取られましたが、それが何かは分からないお顔でございました。
◇
「もう一つある。寮から文が来た。十月の一日だ」
「伺っております」
「……君が、なぜ知っている」
「辻でお目にかかりましたので」
エドウィン様はそれを不思議そうにお聞きになりました。ご自分の家に届いた文の日付を、外の者が先に知っております。順が逆でございます。
「原本を添えろと書いてある。写しでは受け付けないと」
「さようでございます」
「間に合うと思うか」
わたくしは少し考えて申し上げました。
「わたくしがお答えする筋ではございません」
◇
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「なんだ」
「エドウィン様は、書庫にお入りになったことがございますか」
この方はすぐにはお答えになりませんでした。
「……ある」
「いつでございましょう」
「子供の頃だ」
「そのあとは」
雨の音が続いております。
「……ない」
「十年、ございませんね」
「ない」
エドウィン様はそこで少し早口になられました。
「入らないようにしていた。父に叱られたことがある。八つか九つの頃だ。棚の紙をいじって、順を崩した。父は、ここはお前の来る場所ではないと言った」
「さようでございましたか」
「それきりだ。それきり、入っていない」
わたくしはその話を初めて伺いました。十年この方の家におりまして、初めて伺いました。
◇
わたくしは少しのあいだ考えました。
この方は書庫を軽んじていらしたのではございません。近づかないようにしておられました。近づかない場所はだんだん見えなくなります。見えないものは、無いものと同じ形になります。
それでも、結び目は同じところにございます。
「エドウィン様」
「うん」
「わたくしが十年しておりましたことを、この家の方はどなたもご覧になっておりません」
「……ああ」
「見ないことは罪ではございません。見ないままで済ませられたのが、十年でございます」
「責めているのか」
「いいえ」
この方は、責められることを待っておられました。責められれば謝ることができます。謝れば終わります。
わたくしは、責めませんでした。
◇
「戻りません」
「ラヴィニア」
「戻りますと、また同じ十年になります」
「今度は違う」
「何が違いますでしょう」
エドウィン様はお答えになりませんでした。
答えを持っておられないのではございません。答えを探したことがないのだと思います。探したことのないものは、その場では出てまいりません。
「……君は、なぜあれを十年もやったんだ」
この問いには、わたくしもすぐにお答えできませんでした。
「お答えする言葉を、まだ持っておりません」
「持っていない」
「はい。十年やったことの理由は、十年では出てまいりませんでした」
◇
エドウィン様はお立ちになりました。
外套はまだ濡れております。着るときに袖へ腕が入りにくそうでございました。わたくしは手を貸しませんでした。貸す間柄では、もうございません。
「母のことは、私が止める」
「お願いいたします」
「……止められなかったら」
「そのときは、そのときでございます」
この方は玄関でもう一度こちらをご覧になりました。
それから、何も仰らずに出ていかれました。
謝罪はございませんでした。悪いと思っていると、前に一度仰っております。あれで済んだとお考えなのだと思います。
済んでいないとは、わたくしも申しませんでした。申しますと、済ませる手続きが始まります。始まればこの方は手続きのほうを覚えて、中身をお忘れになります。
◇
その晩、ブリジットが十字ぶんの紙を持って参りました。
この子は決めた数を必ず書きます。決めたのは自分でございます。
「お嬢様」
「なに」
「さっきの方、若様ですよね」
「ええ」
「書庫で、一度もお見かけしませんでした」
「そうね」
ブリジットは紙を置いて少し考えました。
「じゃあ、あの方は、お嬢様が毎朝あそこにいたのを知らないんですか」
わたくしはその問いに答えを持っておりました。
持っておりましたが、口に出しますと角が立ちます。ですので、こう申しました。
「知る機会は、十年ございました」
ブリジットはそれで納得したようでした。
この子の納得は早うございます。早いのは、余計なことを考えないからではございません。十二で公爵家の厨房におりますと、納得しないままでいる時間が高くつくのを覚えます。
(目録より)第二棚 第百十一項 縁組覚書 一通。昨年霜月十日付。
責められることを待っておられる方に、責めずにお答えするのは、いくらか手間がかかります。責めれば謝ることができて、謝れば終わりますので。終わらせないために、わたくしは何も申し上げませんでした。次回、九月の三日。立会いの席に、三百年前の紙が一枚出て参ります。




