第7話 字は、まだです
朝、門のところに子供が立っておりました。
背は低うございます。十二か、十三か。前掛けが煤けておりまして、靴の踵が片方すり減っております。片方だけすり減りますのは、荷を同じ側で持つ癖のある者でございます。
わたくしはその子を存じておりました。
「ブリジット」
「お嬢様」
「歩いてきたの」
「はい」
公爵家からここまでは、荷馬車で半日でございます。歩けば朝までかかります。
◇
ブリジットは書庫の見習いでございました。
二年前に厨房から回されてきた子でございます。埃を払うのと、梯子を押さえるのと、箱を運ぶのが仕事でございました。字は読めません。ですので、札を書く仕事は回りませんでした。
「札を、下げていらっしゃるのでしょう」
「はい」
「あなたは」
「外されました」
ブリジットはそれを恥じている顔をしておりませんでした。恥じるようなことではないと分かっている顔でございます。
「町の写字屋さんが四人みえて、その方たちが書きます。あたしは箱を運ぶだけでした」
「それも仕事でしょう」
「運ぶ先が、毎日変わるんです」
わたくしはその一言でだいたいのことを察しました。
毎日変わりますのは、置き場所が決まっていないからでございます。決まっていないのは、分け方が決まっていないからでございます。
「ゆうべ、廊下の箱を三度運び直しました。三度目に、家令さんがもう帰れと仰いました」
「それで、歩いてきたのね」
「はい」
「なぜ、こちらへ」
ブリジットは少し考えました。考えるときにこの子は唇だけを動かします。
「ほかに、行くところを知らないので」
◇
母は何もお聞きになりませんでした。
ブリジットを見て、それから台所へ行かれて、パンと牛の乳を持って出てこられました。それだけでございます。夕方には、屋根裏の小部屋に寝床が整っておりました。
わたくしが礼を申し上げますと、母はこう仰いました。
「あの子、うちの階段の段数を数えていたわ」
「はい」
「十四段よ、と教えたら、知っていますと言われたの」
◇
その日の午後にわたくしはブリジットに紙と筆を渡しました。
「字を、覚えましょう」
「あたしがですか」
「あなたが」
「札は、もう書く人がいます」
「札のためではありません」
ブリジットは筆を持ちました。持ち方は上手でございます。梯子を押さえる子は指の力の入れ方を知っております。
「棚の番号は、いくつまで覚えているの」
「全部です」
「全部」
「一の一から、九の十二まで」
わたくしはいくつか尋ねました。四の十一。六の二。八の七。この子はどれも間を置かずに答えました。何が入っているかまでは申しません。番号と段と、右から何番目かだけを申します。
それで足ります。字が読めなくても、並びは覚えられます。
わたくしは十年、これと同じことをしておりました。
「ブリジット。四の十一には、何が入っているの」
「知りません」
「見たことは」
「あります。運びましたから」
「それでも、知らないの」
「中の紙が、何なのか分からないので」
この子は箱を運びます。運ぶ手は中身を覚えません。覚えるのは重さと、蓋の閉まり具合と、置いた場所でございます。
わたくしは十年、その中身のほうだけを覚えてまいりました。二人で一人分でございます。
◇
最初の一字はこの子に選ばせました。
選ぶのに少し時がかかりました。それからこう申しました。
「お嬢様のお名前は、どう書くんですか」
わたくしは紙の端に書きました。ラヴィニア、と。
ブリジットはその形を長いこと見ておりました。それから写しました。三度書き直して、四度目でだいたい同じ形になりました。
「なぜ、それを」
「札に、書いてなかったので」
「札に」
「箱の札に、書いた人の名がないんです。誰が書いたか、どこにも書いてないんです」
◇
その晩から、ブリジットは寝る前に十字ずつ書きました。
紙は端切れで足ります。書き損じの裏を使わせました。書き損じは十年ぶんございます。捨てずに束ねてありましたので、屋根裏に二箱ございました。
二日目にこの子は自分の名を書きたいと申しました。書いてやりますと、しばらく黙って見ておりました。
「短いですね」
「短いわね」
「お嬢様のほうが長いです」
「長いほうがえらいわけではありません」
「そうですか」
「そうです」
◇
ネイサン様がお見えになりましたのは、その三日後でございます。
ブリジットが茶をお持ちいたしました。運び方が丁寧でございます。厨房にいた子は手が覚えております。
「ウェイクフィールド嬢。寮の欠けの件で、少し進みました」
「はい」
「三百年前の一区画は、火事ではございません。移されております」
「移された」
「別の場所へ写して、そちらが戦で焼けました。写しを取ったところまでは帳面に残っておりました。焼けたことは、寮の帳面には入っておりません」
「入れる方がいらっしゃらなかったのですね」
「そうなります」
ネイサン様は茶に口をつけられました。
「ですので原本が要ります。三百年前に建った書庫の、建てた折の書き付けが要ります」
「ウィンズロウの、第一棚の第一項でございますね」
「はい」
◇
「公爵家へは、もう一度参りました」
「いかがでございましたか」
「廊下に箱が並んでおりました。家令の方が、水利の証文を出してくださいました」
「三の棚のものでございますね」
「ええ。ただ、こちらの求めた数と合いません。十一のはずが、十でございました」
ブリジットが茶器を下げに参りました。
下げながらこう申しました。
「三の七です」
ネイサン様が顔をお上げになりました。
「……いま、なんと」
「三の七が、ありません」
「なぜ、それを知っている」
ブリジットは茶器を胸のところで持ち直しました。
「お嬢様が毎朝そう仰るので」
◇
わたくしは覚えがございませんでした。
覚えはございませんが、そうなのだろうと思います。十年、朝にあの壁の前で数えました。数えるたびに六の次で一度止まります。止まって、三の七はありません、と申します。
申していた相手は誰でもございません。
誰でもない相手に十年申していたことを、この子が全部聞いておりました。
ネイサン様は、それから何も仰いませんでした。帰りぎわに一度だけ振り返られました。今度は道をお間違えになったのではないと分かりました。
(目録より)第八棚 第十九項 書庫番日誌 三冊。前任者まで。以後なし。
十年、朝にあの壁の前で数えました。数えるたびに六の次で一度止まって、三の七はありません、と申します。申していた相手は誰でもございません。……誰でもない相手に十年申していたことを、この子が全部聞いておりました。次回、雨の日にどなたかがお見えになります。傘はお持ちでした。用件のほうは、お持ちではございませんでした。




