第5話 写しは、いかがなさいますか
解消の書面が整いましたのは、それから十日後でございます。
家同士の書面は、思っていたよりずっと短うございました。四行でございます。婚約を解消すること、双方に瑕疵がないこと、贈答の品を相互に返さぬこと、この件を他言せぬこと。それだけでございました。
十年が四行になりました。四行のうち、わたくしの名が出るのは一度きりでございます。
署名は公爵家でいたします。ですので、わたくしはもう一度あちらへ上がることになりました。
◇
朝のうちに参りました。
玄関でハーヴィーがお迎えくださいました。この方は、わたくしを客間へお通しになりました。十年、わたくしはこの家で客間を使ったことがございません。いつも勝手口から入って、まっすぐ書庫へ参りましたので。
「奥様が、間もなくお見えになります」
「はい」
「……お茶をお持ちいたします」
ハーヴィーは、そう仰って一度出られました。それから茶をお持ちになって、また出られました。出るときに扉を閉め切らずに、指一本ぶん開けておかれました。閉め切ると、こちらから呼べないからでございます。
この方の気の配り方は、いつも道具の側から参ります。
◇
書面には、わたくしが先に署名いたしました。
夫人は、わたくしの字をしばらくご覧になりました。
「きれいな字ですこと」
「恐れ入ります」
「十年、書いていらしたものね」
「はい」
夫人はご自分の署名をなさいました。それから蝋を落として、印を押されました。印を押す音は、思ったより小さうございました。
「これで、終わりですわ」
「はい」
「鍵を、お返しいただけて」
わたくしは、書庫の鍵を卓に置きました。鍵は二つございます。表の扉と、奥の帳箱のものでございます。
夫人は二つとも取られて、指の上で数えられました。
「二つ」
「二つでございます。合鍵はございません」
「作らなかったの」
「作る必要がございませんでした。わたくしが行けない日は、誰も入りませんので」
◇
最後に、書庫を見てもよろしいかと伺いました。
夫人は少しお考えになって、それからお許しくださいました。ハーヴィーが付いて参りました。付き添いが要るということでございます。それはそうだと思いました。
扉を開けますと、いつもの匂いがいたしました。紙と、埃と、蝋の匂いでございます。
北の窓から入る光は、この刻がいちばん奥まで届きます。七の棚の下二段だけが、いつもこの時間に明るくなります。ですからわたくしは、朝のうちに七の棚の仕事をしておりました。
棚は、わたくしが出た日のままでございました。
箱の蓋も、紐も、梯子の置き場所も動いておりません。動かせる方がいらっしゃらないのだと思いました。
わたくしは、一冊も触りませんでした。触る用がございません。
梯子の三段目は今日も鳴りました。鳴る段は八年前からこの段でございます。直しておりません。直しますと、誰が上っているか分からなくなりますので。
ハーヴィーが、扉のところで待っておられます。わたくしは一度だけ振り返って、それから出ました。
◇
玄関へ戻りますと、夫人がまだ立っておられました。
わたくしは、お暇の前に一つだけ申し上げました。
「奥様」
「なに」
「写しを、お作りしましょうか」
夫人は、聞き返されませんでした。意味はすぐお取りになったのだと思います。
「目録の写しを、こちらへお納めいたします。同じものを一部作ります。四千三百十八項目を書き写しますと、二月ほどかかります。年内には間に合います」
「……お代は」
「紙とインクの実費だけでございます。手間の分は結構でございます」
夫人は、しばらく黙っておられました。
それから、こう仰いました。
「結構です」
「さようでございますか」
「ウィンズロウの書庫のことを、よその家の方に二度も書かせるわけには参りません。一度目は、こちらの落ち度ですけれど」
「はい」
「うちには家令がおります。人手もおります。三月もあれば作れましょう」
「さようでございますね」
わたくしは、それ以上申し上げませんでした。
三月では作れません。作れないと申し上げれば、作らせてご覧になるでしょう。作らせてご覧になれば、作れないと分かります。分かるのはご自分でよろしいことでございます。
夫人は、手袋の指で袖の埃を払われました。この方の仕草は、いつも終わりの合図が丁寧でございます。
「ラヴィニアさん」
「はい」
「なぜ、十年もあれを」
夫人は、そこまで仰って口をお閉じになりました。
「……いいえ。いまさら伺うことでもありませんわね」
「はい」
「長いあいだ、ご苦労さまでした」
「こちらこそ、お世話になりました」
◇
門を出ました。
行きに持っていたものは、鍵が二つと書面が一通でございます。帰りに持っているものは、何もございません。
両手が空いているというのは、思っていたよりも落ち着かないものでございました。十年、この門をくぐるときは必ず何かを抱えておりました。紙か、箱か、燭台の替えか。
空の手を一度握って、開きました。
道はゆるやかな下りでございます。十年、この坂を朝に上って夕に下りました。今日は昼に下ります。昼の坂ははじめてでございました。
◇
辻のところに、ネイサン様が立っておられました。
こちらをお待ちだったのか、たまたまなのかは分かりません。この方は、待っていても待っている顔をなさいません。
「ウェイクフィールド嬢」
「ソーンリー様」
「文が届きました。寮から公爵家へ、日を知らせる文でございます」
「さようでございますか」
「今年の系譜提出は、秋ですね」
わたくしは、その言葉を二度うかがいました。
「……秋と申しますと」
「十月の一日でございます。原本を添えて、寮へお持ちいただきます。写しでは受け付けません」
「原本を」
「はい。三百年前の一区画が抜けておりますので、今年は特に厳しく見ます」
ネイサン様は、それだけ仰いました。
わたくしは、いま出てきた門を振り返りました。
あの中には、四千三百十八の項目が全部ございます。一つも減っておりません。減らしたものは何もございません。
ただ、どこに何があるかを書いた紙だけが、わたくしの腕の中にございません。今日は持ってきませんでしたので、家の机の上に置いてございます。
(目録より)第九棚 第十二項 書庫鍵 二本。合鍵なし。
行きに持っておりましたのは鍵が二つと書面が一通、帰りに持っておりますものは何もございません。十年、この門をくぐるときは必ず何かを抱えておりました。紙か、箱か、燭台の替えか。空の手というものは、思っていたよりも落ち着かないものでございます。次回、町の写字屋が四人入ります。札を八百枚、下げるのだそうでございます。――ブックマークと評価を一つ持たせていただけますと、帰りの手がふさがって、ちょうどよろしゅうございます。




