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婚約解消いたします。書庫の目録はわたくしの私物ですので、持って参ります  作者: 卯月まゆ


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4/15

第4話 これは仕事です

 王室系譜寮の記録官は、昼を少し過ぎた頃にお見えになりました。


 名をネイサン・ソーンリー様と仰います。子爵家の次男でいらっしゃると後で母から聞きました。そのときは存じませんでしたし、いまも家のことは存じません。この方はご自分の家のお話を一度もなさいません。


 外套は焦げ茶で肘のあたりが薄うございました。よく袖を机に置く方の擦れ方でございます。


「ウェイクフィールド嬢でいらっしゃいますか」


「はい」


「王室系譜寮の記録官でございます。ウィンズロウ公爵家の系図の件で伺いました」


「わたくしは、あちらの家の者ではございません」


「存じております」


 この方はそれだけ申されて黙りました。用件を言い足しません。言い足さない方は、こちらが黙っていると本当にずっと黙っておられます。


「……お上がりくださいませ」


    ◇


「十年に一度、家々の系図を寮に納めていただきます」


「伺っております」


「ウィンズロウ公爵家へは先月に文を出しました。返事が参りません。ですので昨日わたくしが参りました」


「書庫をご覧になりましたか」


「拝見しました」


「いかがでございましたか」


 ネイサン様は少しだけ言葉をお探しになりました。


「箱がございました」


「はい」


「箱がたいへん多うございました」


 わたくしは頷きました。書庫の箱は三百二十一ございます。系図の箱がございますのは五の棚で、そこだけで四十七でございます。


 五の棚の箱は、去年の秋に二つ増えました。増えた分も、番号は続きで振ってございます。


「家令の方が三日探しておられるそうです。わたくしも半日探しました。三代前の婚礼の系図が要るのですが、出てまいりません」


「五の棚の第四十項でございます」


 ネイサン様はそこで初めてわたくしの顔をご覧になりました。


「……いま、なんと」


「五の棚の、第四十項でございます。窓を背にして左から五つ目の棚、下から二段目。箱の蓋の内側に赤い紐が結んでございます」


「なぜ、赤い紐を」


「婚礼のものには赤を結んでございます。訃報には黒を。土地のものには何も結びません」


 紐は、母の裁縫箱から出た端切れでございます。買ったものではございませんので、帳面にはございません。


    ◇


「ウェイクフィールド嬢」


「はい」


「その控えを、拝見できますか」


「お見せはいたします。お渡しはいたしません」


「渡していただこうとは思っておりません」


 わたくしは、束を持って参りました。ネイサン様は、束を受け取る前に手を布でお拭きになりました。それから両手で受け取られました。


 紙をお繰りになる速さが、夫人ともハーヴィーとも違いました。一枚を三つ数えるほどでご覧になって、次へ移られます。読んでいらっしゃるのではなく、形を見ておられるのだと分かりました。


 二十枚ほど繰ったところで手をお止めになりました。


「これは」


「はい」


「表題の付け方が、寮のものと違います」


「さようでございますか」


「寮は収めたものの名をそのまま書きます。『婚礼系図』と書きます。ここには『婚礼系図(花嫁の家名で引けます)』と書いてあります」


「そのほうが早うございますので」


「早い」


「探す方は、婚礼という言葉を思いつく前に、家の名を思い出されます」


 ネイサン様はその紙をしばらくご覧になっておりました。


「……これは、置いた者の並びではありませんね」


「はい」


「探す者の並びです」


    ◇


 ネイサン様は巻末の手前で手をお止めになりました。挟んである紙を、指の先で少しだけ持ち上げられます。


「これは」


「北の窓の隙間風のことでございます。七の棚を壁から離した理由を書いてございます」


「理由を」


「はい」


「……寮の目録には、理由が書いてございません」


「さようでございますか」


「収めた物の名と、番号と、日付だけでございます。なぜそこに置いたのかは、置いた者と一緒に辞めていきます」


 ネイサン様は挟み紙を元の位置にお戻しになりました。戻された位置が指二本ぶん狂っておりません。


    ◇


 ネイサン様は束を閉じて卓にお戻しになりました。戻すときも両手でございました。


「ウェイクフィールド嬢。一つ、こちらの事情を申し上げます」


「はい」


「寮の記録にも欠けがございます」


「欠け」


「三百年前の、ある一区画でございます。書庫がいくつか建った頃の分がまとめて抜けております。火事とも紛失とも、記録が残っておりません」


「ウィンズロウの書庫も、三百年前でございます」


「ですから参りました」


 ネイサン様はそこで初めて言葉を選ぶ間を置かれました。


「公爵家の書庫には初代の覚書があると聞いております。目録の第一項に、そう書いてございました」


「一葉ございます」


「読まれましたか」


「日付と表題は控えました。中は読んでおりません」


「なぜ」


「読む理由がございませんでしたので」


 この方はその答えに頷かれました。頷き方が少し長うございました。


「ウェイクフィールド嬢。念のために申し上げますが、系図の提出には期限がございます」


「いつまででございましょう」


「今年のうちでございます」


「今年」


「日は、寮が改めて文でお知らせいたします。もっとも、お知らせする先はウィンズロウ公爵家でございますが」


    ◇


 お帰りの際に、ネイサン様は玄関で足をお止めになりました。


「ウェイクフィールド嬢」


「はい」


「一つ、申し上げてもよろしいですか」


「どうぞ」


「これは仕事です」


 わたくしは、お礼を申し上げました。


 お褒めいただいたのだと思いました。十年のあいだに褒めていただいたことは何度かございます。ご丁寧な方だと思いました。


 ネイサン様は、それだけ仰って帰られました。門のところで一度だけ振り返られて、それから真っ直ぐに歩いていかれました。振り返られたのは、道をお間違えになったからだと思います。


    ◇


 夕方になって、母が茶を持って参りました。母は卓の上の束をご覧になって、それから一言だけ仰いました。


「あの方、あなたのことを一度も『お嬢様』とお呼びにならなかったわね」


 わたくしは、その言葉の意味を考えました。


 考えて、思い当たりませんでした。呼び方は家によって違います。あの方はご自分の家のお話をなさいませんので、そういう家なのでしょう。


 卓の上の束はそのままにしておきました。麻紐は結び直しておりません。あの方の繰り方では、紙の順が乱れませんでしたので。

(目録より)第五棚 第四十項 婚礼系図(花嫁の家名で引けます) 三代前。


「これは仕事です」という一行を書きたくて、前の三話を書いたようなところがございます。褒め言葉のつもりではないのでございます。当人のほうは世辞と受け取って、丁寧にお礼を申し上げております。門のところで一度だけ振り返られたのも、道をお間違えになったのだと思っております。次回、公爵家に札紙が八百枚届きます。書庫の箱は、三百二十一しかございません。

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