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婚約解消いたします。書庫の目録はわたくしの私物ですので、持って参ります  作者: 卯月まゆ


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第13話 ブリジットが読みました

 目録を寮へお預けするにあたって、照合をいたしました。


 照合と申しますのは、こちらが読み上げて、あちらが書き取り、二つを突き合わせる作業でございます。写しを取るのではございません。寮の帳面に、四千三百十八項目を一行ずつ入れてまいります。


 場所は寮の三階の小部屋でございます。窓が一つ、机が二つ。ネイサン様が書き取り役でございました。


 ラドクリフ様がお帰りになってすぐ、その日のうちに始めました。九月の二十九日でございます。


    ◇


 一項目を読むのに、五つ数えるほどかかります。


 番号を読み、表題を読み、日付を読みます。あちらが書き取る間に、次の行へ目を移します。


 百項目で、およそ半刻でございました。


 四千三百十八項目ですと、二十一刻半になります。一日を八刻といたしますと、三日近くかかります。


 期日は十月の一日でございます。


「二人では、足りませんね」


 ネイサン様がそう仰いました。


「寮の者を、あと二人つけます」


「書き取りは増やせます。読むほうは増えません」


「読み手は」


「わたくししかおりません」


    ◇


 わたくしの声は、百五十項目のあたりで掠れ始めました。


 もともと丈夫な喉ではございません。書庫は乾いております。十年、乾いた部屋で黙って過ごしましたので、声を使う習慣がございませんでした。


 三百項目のところで、水を一度いただきました。


 四百項目のところで、ネイサン様が筆を置かれました。


「今日は、ここまでにいたしましょう」


「まだ日が高うございます」


「明日、声が出ませんと二日ぶんが飛びます」


 筋の通ったお話でございました。ですが、筋を通しますと間に合いません。


    ◇


 ブリジットは、部屋の隅で待っておりました。


 この子は朝から一緒に参りまして、水を運ぶのと、紙を押さえるのをしておりました。それ以外にすることがございません。


「お嬢様」


「なに」


「あたしが読みます」


 わたくしは、この子の顔を見ました。


「字は、六十ほどでございましょう」


「はい。表題は読めません」


「では」


「番号は、読めます」


    ◇


 わたくしは、しばらく考えました。


 考えて、それから紙を一枚この子に渡しました。


 目録の一行は、こうなっております。番号。表題。日付。


 番号は、算えの字でございます。一から九まで、それと十と百。この子はその十一字を、二年前から知っております。箱を運ぶのに要りましたので。


「ブリジット。番号だけ読んでちょうだい」


「はい」


「わたくしが表題を読みます」


「はい」


「日付は、わたくしが読みます」


「はい」


    ◇


 やってみますと、速うございました。


 この子が「三の四」と読みます。わたくしが「棚札」と読みます。この子が次の行へ指を移します。その間に、わたくしは息が入ります。


 一項目に五つ数えていたものが、三つ半になりました。


 百項目で、三分の一ほど早くなります。四千三百十八項目ですと、丸一日ぶん縮みます。


 ネイサン様の筆の速さも、それに合いました。この方は、揃った速さのほうが書きやすい方でございます。


    ◇


 昼を過ぎたあたりで、寮の者が二人入ってこられました。


 書き取りが三人になりますと、こちらの読みが追いつかなくなります。追いつかなくなりますと、こちらが遅れているように見えます。


 ですが、誰もそう見ませんでした。


 部屋の中で、いちばん速く動いているのは十二の子でございました。


 この子は、指を紙の上で滑らせません。一行ずつ、上から押さえて下げます。押さえた指の位置がずれませんので、読み飛ばしがございません。


 わたくしは十年、この作業を一人でやりました。一人ですと指と目と口を同じ手で回します。回しますので、必ずどこかが遅れます。


 二人ですと遅れません。二人でやることを、わたくしは十年思いつきませんでした。思いつく相手がおりませんでした。


 三百項目ほど進んだところで、寮の若い方が小さな声で仰いました。


「……この子、字が読めないって」


「番号は読めます」


「番号だけで、あんなに」


    ◇


 三の棚のところへ参りましたのは、日が傾いてからでございます。


「三の五」


「水利証文」


「三の六」


「水利証文」


 この子の指が、次の行へ下がりました。


 下がってから、止まりました。


 わたくしは待ちます。ネイサン様も筆を止めておられます。


 ブリジットは、その行をしばらく見ておりました。


 それから、読みました。


「三の七は、ありません」


    ◇


 部屋の中が動きませんでした。


 寮の若い方が、書き取る手を止めておられます。


 ネイサン様が、静かにお尋ねになりました。


「……ブリジット。そこには、何と書いてある」


「番号が、書いてありません」


「では、なぜ」


「六の次が八だからです」


 この子は、紙の上の指をそのままにしておりました。


「六の次が八のときは、七がありません。お嬢様が毎朝そう仰いました。ですから、そう読みました」


 わたくしは、頷きました。


 頷いてから、少し時をいただきました。


    ◇


 その日は、千二百項目まで進みました。


 二人で読みますと、一日で千二百でございます。残りは三千百十八。二日で終わります。


 帰りの馬車で、ブリジットは眠りました。


 眠る前に、一つだけ申しました。


「お嬢様」


「なに」


「あたし、今日いちばん働きましたか」


「いちばん働きました」


「そうですか」


 それだけ申しまして、この子は眠りました。


 指の腹が、墨で黒うなっておりました。押さえていた指でございます。


    ◇


 寮を出るときに、ネイサン様が門まで送ってくださいました。


「明後日でございます」


「はい」


「十月の一日に、公爵家が原本を納めに参ります。三の七の一通を除いて、全て揃うそうでございます」


「さようでございますか」


「除いて揃う、というのは、揃わないということでございます」


 ネイサン様は、そう仰いました。


 わたくしは、その言い方を覚えておくことにいたしました。


    ◇


 馬車の音が変わりました。石畳から土の道へ出たところでございます。


 馬車が動き出してしばらくして、ブリジットが寝言のように申しました。


「三の七は、どこへ行ったんでしょうね」


 わたくしは、答えを持っておりませんでした。


 十年、持っておりませんでした。

(目録より)第八棚 第二項 書写手本 二冊。子供用の算えの字、含む。


一人でやりますと、指と目と口を同じ手で回します。回しますので、必ずどこかが遅れます。二人ですと遅れません。二人でやることを、わたくしは十年思いつきませんでした。思いつく相手が、おりませんでしたので。次回、十月の一日。除いて揃う、というのは、揃わないということでございます。

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