第12話 無くならないように
その晩、母がわたくしの部屋へ参りました。
母がこの部屋へ入られるのは、月に一度あるかどうかでございます。入られるときは、たいてい繕い物を持っておられます。今日は何もお持ちではございませんでした。
「ラヴィニア」
「はい」
「見せてほしいものがあるの」
母は、七の棚の一枚をお指しになりました。前に、言いかけてやめられた紙でございます。
「これ、光の順に並べたでしょう」
「はい」
「朝に明るくなる段のものを先に。夕まで暗い段のものを後に」
「……はい」
「誰に教わったの」
「教わっておりません」
母は、少しだけ笑われました。笑い方が、いつもより長うございました。
◇
「うちの書庫を、覚えている」
「二階の、東の小部屋でございますね」
「そう。あなたが六つの頃まで、わたくしが毎朝あそこにいたの」
わたくしは、その話を存じませんでした。
覚えておりますのは、母がいつも二階から降りてこられたことだけでございます。降りてくる刻が決まっておりました。降りてくる前にどこにおられたかを、わたくしは考えたことがございません。
「嫁いできた年に、書庫の紙が濡れていたの」
「はい」
「屋根が傷んでいたのよ。誰も気づいていなかったの」
「……はい」
「それで、中のものを全部出して並べ直したの。並べ直すのに、二年かかったわ」
◇
母は、その先を少し急がずに話されました。
「並べ直すときに、古い覚えが出てきたの」
「覚え」
「分け方を書いた紙よ。ずいぶん古いもの。光の当たる順に並べよ、と書いてあったわ」
わたくしは、手元の紙を見ました。
七の棚は、北の窓の光が届く順に並んでございます。この並べ方を、わたくしは自分で思いついたと思っておりました。
「お母様。その覚えは」
「まだあると思うわ。二階の、いちばん下の引き出しよ」
「なぜ、いままで仰らなかったのでしょう」
母は、そこで少し黙られました。
「言えば、あなたが真似したことになるでしょう」
「……」
「あなたが自分で見つけたことにしておきたかったの。……いいえ。それは嘘ね」
母は、膝の上で手を組み直されました。
「わたくしは、二年かけて並べ直したの。並べ直したことを、誰も何も言わなかったの。お義母様も、あの人も。一度も」
「はい」
「それを娘に言うのが、恥ずかしかったのよ」
◇
わたくしは、しばらく何も申し上げませんでした。
母は、この十年、一度もお聞きになりませんでした。関心がないのだと思っておりました。聞かないことと関心がないことは、外から見ると同じ形をしております。
同じ形をしておりますが、中身は逆でございました。
「ラヴィニア」
「はい」
「あなたは、呼ばれたかったの」
わたくしは、その問いをしばらく考えました。
考えたのは、答えを探すためではございません。答えは前からございました。言葉にしたことがなかっただけでございます。
「いいえ」
「そう」
「無くならないように、したかったのです」
母は頷かれました。
「わたくしもよ」
母はそれだけ仰いました。
二年と十年でございます。合わせて十二年になります。十二年ぶんの仕事がこの家の中で二度、誰にも数えられずに済んでおりました。
いま数えましたのは、母とわたくしでございます。
◇
二階の引き出しから出てまいりましたのは、二つ折りの紙が一枚でございます。
紙は厚うございました。ウィンズロウの覚書と同じ厚みでございます。
書いてあることは短うございました。分け方の決まりが六つ。それだけでございます。光の当たる順に並べよ、というのは、そのうちの四つ目でございました。
最後に、名前がございました。
——ウェイクフィールド家 書庫掛 アダム・ウェイクフィールド
その下に、年が入っております。
三百年前でございました。
その晩、ブリジットに紙を見せました。この子はまだ六十字ほどしか読めません。それでも名前の形は分かります。
「お嬢様と、同じですね」
「同じね」
◇
ネイサン様とラドクリフ様がお見えになりましたのは、翌日の朝でございます。
わたくしは二つ折りの紙を卓の上に置きました。ラドクリフ様はそれを両手でお取りになりました。取ってから、しばらく動かれませんでした。
「……アダム」
「はい」
「ウィンズロウの覚書の九行目でございます。姓の頭の一字だけが残っておりました。ウの字でございました」
「はい」
ラドクリフ様は、紙を卓へお戻しになりました。
「三百年前に、ウィンズロウの初代は外から目録係を招きました。招かれたのが、ウェイクフィールドの書庫掛でございます」
「……さようでございましたか」
「寮の欠けた一区画は、この方の記録でございました。名が読めませんので、三百年埋まりませんでした」
◇
「ウェイクフィールド嬢」
「はい」
「一つ、お尋ねいたします」
ラドクリフ様は、そこで姿勢をお正しになりました。
「当寮の目録は、収めた順に書いてございます。探すには使えません。使えないまま二百年参りました」
「はい」
「作り直したく存じます。作り直す者を、探しております」
わたくしは、その言葉の意味をゆっくり取りました。
「わたくしは、寮の者ではございません」
「初代ウィンズロウ公は、外から招くべしと書き残しております」
ラドクリフ様は、そう仰いました。
「三百年前の定めでございます。当寮も、同じ考えでございます」
◇
わたくしは、お受けいたしました。
お受けしてから、手が少し震えました。震えたことに、自分で驚きました。
ネイサン様は、そのあいだ何も仰いませんでした。
仰いませんでしたが、この方はいつも通りの顔をしておられませんでした。どこがどう違うのかは、うまく申せません。目録の表題と同じで、違いが分かっても言葉にできないことがございます。
◇
ラドクリフ様は、お帰りの前に一つお尋ねになりました。
「ウェイクフィールド嬢。当寮の帳面に、三百年前の一区画を入れます」
「はい」
「入れますからには、編者の名が要ります。アダム・ウェイクフィールドの名は入ります」
「はい」
「もう一つ、入れる欄がございます」
ラドクリフ様は、卓の上の束をご覧になりました。
「ウィンズロウ公爵家書庫目録、四千三百十八項目。当寮はこれを写しではなく、記録としてお預かりしたく存じます」
「……」
「編者の名を、どうなさいますか」
(目録より)第九棚 第一項 分類覚 一葉。二つ折り。三百年前。
二年と十年で、十二年でございます。十二年ぶんの仕事が、この家で二度、誰にも数えられずに済んでおりました。いま数えましたのは、母とわたくしの二人でございます。次回、四千三百十八項目の照合が始まります。読み手は、わたくししかおりません。……いえ、もう一人おりました。




