第11話 一度お断りになりました
翌日、ハーヴィーがもう一度参りました。
今度は門の内へ入ってこられました。玄関でお名を仰って、それから帽子をお取りになりました。この方が帽子をお取りになりますのは、身分の上の方の前だけでございます。
「お嬢様」
「どうぞ、お入りくださいませ」
「ここで結構でございます」
「雨が来そうでございます」
ハーヴィーは空をご覧になって、それから入ってこられました。雨のほうには逆らわれません。
◇
応接間でこの方は座られませんでした。立ったままこう仰いました。
「目録の写しを、お願いできませんでしょうか」
「……」
「お代は当家がお支払いいたします。奥様のお許しはいただいております」
わたくしは卓のほうへ手を向けました。ハーヴィーはそれでも座られませんでした。
「ハーヴィー。一つ、確かめさせてくださいませ」
「はい」
「写しは二月かかると、八月に申し上げました。今日から始めますと十一月の末になります」
ハーヴィーはしばらく黙っておられました。
「……はい」
「提出は十月の一日でございます」
「はい」
◇
わたくしはそこで一度言葉を切りました。
切りましたのは、次に申し上げることの角を落とすためでございます。角は落ちませんでした。落ちませんでしたが、申し上げないわけには参りません。
「奥様は、一度お断りになりました」
「……はい」
「八月の初めでございます。あのときお受けくだされば、九月の末には出来ておりました」
「はい」
ハーヴィーはそれを否まれませんでした。この方は都合の悪い事実を否まれたことが一度もございません。
わたくしは続けました。
「ですが、お受けくださっていても、三の七は出て参りません」
◇
ハーヴィーが顔をお上げになりました。
「写しは、在るものの在処を示すだけでございます」
「……」
「無いものの在処は、どなたにも書けません」
ハーヴィーはその言葉をゆっくりお聞きになりました。
「では、写しがあっても」
「叙爵の更新には間に合いません」
「……」
「写しがあれば、系図と証文の十通は早く出せました。ですがその十通は、もうお出しになっているのでしょう」
「出しております」
「では残りますのは、三の七の一通でございます」
ハーヴィーは目を閉じられました。
この方が目を閉じられるのを、わたくしは初めて見ました。十年、この方は数が合わないときに黙られました。目は閉じられませんでした。
◇
「……お嬢様。わたくしの落ち度でございます」
「いいえ」
「八月に、奥様をお止めすべきでございました」
「お止めになれる筋ではございません」
「筋ではございませんが、家令でございます」
わたくしはその言い方に少し胸が詰まりました。詰まりましたが、顔には出しておりません。出しますと、この方はもっと深く頭を下げられます。
◇
ブリジットが茶を運んでまいりました。
ハーヴィーはこの子を見て少し驚かれました。
「お前、うちの」
「はい」
「……達者か」
「はい」
ブリジットは茶を置いてから、卓の端に紙を一枚置きました。
その紙には二つの名が書いてございます。ブリジット、と。それから、ラヴィニア・ウェイクフィールド、と。
「あたし、字を覚えました」
ハーヴィーはその紙をご覧になりました。ご覧になってから、ブリジットのほうを見られました。
「……そうか」
「二つだけです」
「二つで足りる」
ブリジットは、その返事を聞いて一度だけ深く頷きました。頷いてから下がりました。
この子は褒められ慣れておりません。慣れておりませんので、受け取り方が正確でございます。余計な礼を言わずに、下がるところまでを一度でやります。
◇
ハーヴィーは帰りの支度をなさいました。
外套の釦を上から順に留められます。一つ。二つ。三つ。
四つ目のところで手をお止めになりました。
「お嬢様」
「はい」
「一つ、申し上げてよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「十年前の春でございます」
わたくしはその言葉を聞いて、手を膝の上で揃えました。
「先代の旦那様が、書庫から箱を一つ書斎へお持ちになりました」
「はい」
「運びましたのは、わたくしでございます」
◇
わたくしはしばらく何も申しませんでした。
「どちらの箱でございましょう」
「三の棚の、七つ目でございました」
「……さようでございましたか」
「旦那様はその月のうちに王都へお発ちになりました。お戻りは秋でございます」
「はい」
「戻られてから箱を書庫へお戻しになったかどうかを、わたくしは存じません」
ハーヴィーは四つ目の釦を留められました。
「存じませんまま、十年が経ちました」
「なぜ、いままで仰らなかったのでしょう」
「聞かれませんでしたので」
この方はそう仰って、それから少しだけ言い足されました。
「……いえ。それは言い方が悪うございます。お嬢様は、書庫番にお尋ねになりました。書庫番はわたくしに聞かず、旦那様がお持ちになったとだけお答えしたのでしょう」
「はい」
「わたくしのところまで、お尋ねが上がって参りませんでした」
◇
この方はそれだけ仰って帰られました。
雨はまだ降っておりません。空だけが低うございます。
わたくしは玄関の框に腰を下ろしました。
これで済んだのだと思いました。写しはお作りしません。作っても間に合いません。作っても、無いものは出て参りません。申し上げるべきことは全て申し上げました。
済んだのだと思いました。
◇
ブリジットが茶器を下げに参りました。
「お嬢様」
「なに」
「家令さんの外套、四つ目の釦が取れかけてました」
「そう」
「留めるときに、ずいぶん気をつけておられました」
わたくしは頷きました。
この子は人の手元をよく見ます。見て、覚えて、言わずに置きます。言いますのは、言ってよさそうなときだけでございます。
わたくしは束を持って部屋へ戻りました。
三の棚の一枚を開いて、六と八のあいだをしばらく見ておりました。
十年、この空きは空きでございました。空きは空きのままで、誰の落ち度でもございませんでした。落ち度がないというのは、誰も探していないという意味でもございます。
(目録より)第四棚 第二十二項 照合手控 一冊。前任者の筆。以後、追記なし。
写しは、在るものの在処を示すだけでございます。無いものの在処は、どなたにも書けません。それを申し上げる前に、一度言葉を切りました。切りましたのは角を落とすためでございます。角は落ちませんでした。次回、母が繕い物も持たずに部屋へ参ります。光の順に並べたのは誰に教わったのか、とお尋ねになります。




