第10話 残り一月
九月に入りますと、朝が少し暗くなります。
実家の朝は、公爵家より半刻ほど遅うございます。書庫がございませんので、急ぐ用がございません。わたくしはこの半刻の使い方をまだ覚えておりません。
半刻のあいだ、わたくしは母の縫い物を見ております。
母は針を持つとき、糸を必ず二度撫でます。撫でてから通します。理由を伺いましたら、埃が取れるからだと仰いました。二十年やっておられるそうでございます。
二十年やって、誰も理由を伺わなかったのだと思いました。
ブリジットは、朝のうちに十字書きます。
最初の月に、この子は四十三字を覚えました。数の覚え方が早うございますので、字も同じように覚えるのだと思っておりましたが、そうではございませんでした。数は順に並びます。字は並びません。
それでも四十三でございます。
◇
靴屋を呼びましたのは、九月の五日でございます。
ブリジットの靴は、右の踵だけがすり減っておりました。片方だけすり減りますのは、荷を同じ側で持つ癖のある者でございます。この子は二年、箱を右で運びました。
「直させましょう」
「まだ履けます」
「片減りのまま履きますと、膝が痛みます」
靴屋は、踵を見て一言だけ申しました。
「ここひと月は、まっすぐ減っておりますな」
ブリジットは、その言葉の意味をすぐには取りませんでした。それから、自分の足を見ました。
「箱を、運んでいないので」
「そうね」
「運ばないと、まっすぐ減るんですね」
わたくしは頷きました。
この子が二年かけて片側を減らしたことは、誰の帳面にも載っておりません。載っておりませんが、靴には載っておりました。
ブリジットは直った靴で家の中を三度歩きました。歩いてからこう申しました。
「音が変わりました」
「そう」
「片方だけ、重かったんですね」
◇
ハーヴィーからの文は、八月の末で途絶えました。
途絶えました理由を、わたくしは考えないようにいたしました。考えても、こちらから伺う筋がございません。
紙屋は、九月の半ばに参りました。
「お屋敷のほう、写字屋さんが二人に減りましたよ」
「二人」
「四人のうち二人が、よそへ移ったそうで。日雇いですから」
「札は、下がりましたでしょうか」
「下がったそうです。ただ」
紙屋は、荷紐を結びながら申しました。
「札を下げ直しているとかで。同じ言葉の札が多すぎて、使いものにならなかったとか」
◇
ネイサン様がお見えになりましたのは、九月の二十日でございます。
この方は、来られるたびに用件から入られます。挨拶は、用件のあとに参ります。
「延期の願いが出ました」
「公爵家から」
「はい。寮は認めません」
「なぜでございましょう」
「十年に一度の提出でございます。一つ認めれば、次から全ての家が出します」
ネイサン様は、卓の上で指を折られました。
「今日で、残り十一日でございます」
◇
「揃わないものは、どれでございましょう」
「系図は揃いました。札を下げ直したそうでございます。三代前のものも出てまいりました」
「では」
「水利の証文でございます」
ネイサン様は、そこで一度言葉をお切りになりました。
「叙爵の更新には、領内の水利の権が要ります。十一通ございませんと、権の続きが繋がりません。十通では、五年ぶんが抜けます」
「三の七でございますね」
「はい」
わたくしは、束を持って参りました。
三の棚の項が並んだ一枚を開きます。一、二、三、四、五、六。それから八。
六と八のあいだに、指一本ぶんの空きがございます。十年、この空きは埋まっておりません。
「ウェイクフィールド嬢。この空きは、いつからでございますか」
「十年前の春でございます」
「そのとき、どこにあったのでしょう」
「棚から出ておりました。書庫番は、旦那様がお持ちになったと申しました」
「先代の公爵でございますね」
「はい」
ネイサン様は、その一行を長いことご覧になりました。
「……お尋ねになりましたか」
「一度、文をお書きしました。お返事はございませんでした」
「二度目は」
「書きませんでした」
この方は、それ以上お尋ねになりませんでした。
二度目を書かなかった者に、なぜ書かなかったのかとお尋ねになりません。この方は、そういうお尋ねをなさらない方でございます。
◇
その晩、わたくしは束の巻末を開きました。
余白は、まだ空いております。今年の日付を、わたくしはまだ書いておりません。
書く用がないと、先月は思いました。
いまも用はございません。用はございませんが、十年続けたことを途中でやめますと、途中でやめたことのほうが残ります。
わたくしは、日付だけ書きました。
九月二十日。その下には何も書きませんでした。書くことがございませんでしたので。
日付だけの行は、十年で初めてでございます。前の九行には、必ず何項目足したかが書いてございます。千二百。八百。三百十。二百四十。今年の行は、そこが空でございます。
空の行も、一行は一行でございます。
◇
九月の二十七日に、ハーヴィーが参りました。
参りましたと申しましても、門の内へは入られませんでした。
わたくしが気づきましたのは、ブリジットが窓から見ていたからでございます。この子は、人の立ち方でだいたいの用が分かります。
「お嬢様。家令さんです」
「お通しして」
「門の外です」
わたくしは、玄関まで出ました。
ハーヴィーは、門の柱のところに立っておられました。外套の釦は、上から三つ留めてございます。四つ目は留めておられません。
この方は、わたくしのほうをご覧になりました。
それから、腰を折られました。深うございました。今まで見た中で、いちばん深うございました。
◇
わたくしは、門まで参りました。
ハーヴィーは、まだ何も仰いません。口をお開きになりかけて、二度お閉じになりました。
三度目に、こう仰いました。
「……いえ」
「はい」
「失礼いたしました」
ハーヴィーは、それだけ仰って帰られました。
帰り道をしばらく見ておりました。この方の歩き方はいつも用の重さで変わります。今日は軽うございませんでした。
門の柱には蔦が絡んでおります。この家の蔦は毎年秋に赤くなります。今年はまだ緑でございました。
残り、四日でございます。
(目録より)第三棚 第一項より第六項 水利証文 六通。第七項、欠。第八項より第十一項、四通。
二年かけて片側だけ減らした踵は、誰の帳面にも載っておりません。載っておりませんが、靴には載っておりました。箱を運ばなくなりますと、まっすぐ減るようになります。音まで変わるのだそうでございます。次回、家令が帽子をお取りになります。この方が帽子をお取りになりますのは、身分の上の方の前だけでございます。




