第8話 シェイド、来たる
体の重さが半分になったのは、3日後のことだった。
半分、というのは正確ではない。正確に言えば、重さがあることを意識しなくなった。朝起きて、立って、歩く。その一連が、以前のように当たり前に戻った。当たり前というのも正確ではないが、少なくとも壁に手をつかずに台所まで行けるようになった。
アレンはその間も、何も聞かなかった。
聞かないことが当たり前になりつつあった。それが何なのかを考え始めると、別のことを考えた。1000年以上、私はそうやって都合の悪い思考を中断してきた。今もそうした。
体が動くようになった日の昼過ぎ、アレンが畑に出た。リーナは来ていなかった。フィルも今日はまだ来ていない。
私は外に出た。
村の外れに、水車がある。川沿いの道が水車小屋の手前で曲がっていて、その先は森に続く。私はそこまで歩いた。理由は特になかった。体が動くようになったから、動かしてみた、それだけだった。
水車の音がしていた。水の音がそれに混じっていた。
「お久しぶりです、魔王様」
声は、背後からではなかった。
気づいたら隣にいた。
白髪。長身。口の端が上がっている。諜報部長のシェイドは、3年ぶりに見ても、3年前と同じ顔をしていた。変わったところといえば、服が人間の商人風になっていることくらいだった。
「お元気そうで」
「どこから来た?」
「川の上流の方から。景色がよかったです」
景色を見に来たわけではないのは、お互いにわかっていた。私はシェイドを見た。シェイドは川の方を見ていた。笑っている。いつも笑っている。
「ここがわかったのか?」
「ゴルダに聞きました」
私は額に手を当てたくなった。当てなかった。
「あの人、すぐ泣くんですよね。聞いてもいないのに全部話してくれました」
「……あとで叱る」
「優しいですね」
「叱ると言っている」
シェイドが川から視線を戻した。こちらを見た。笑ったままだったが、目の奥が少し変わった。
「本題に入りましょうか」
王都で何が起きているか、シェイドは順を追って話した。
魔族排斥を掲げる組織が、この半年で王都の議会に食い込んでいること。後ろ盾に大商人と西部の教会連合がいること。次の議会で、魔族の居住を制限する法案が提出される見込みであること。通れば、難民として各地を流れている魔族たちの行き場が、制度として塞がれる。
シェイドは淡々と話した。感情を乗せなかった。それがかえって、話の重さを際立たせた。
「魔王様が動けば、話は変わります」
「どう変わる?」
「魔族の民には、旗が必要です。交渉の席に座れる者が必要です。今の魔族に、それができる者はいません」
「私がその旗になれと?」
「なっていただければ、と」
水車が回っていた。一定のリズムで、止まらずに回っていた。
私はシェイドを見た。シェイドは私を見た。こちらの返事を急かす様子がなかった。急かさないことが、この男の手の内のひとつだということは、千年来の付き合いで知っていた。
「今は動かない」
シェイドの表情が変わらなかった。
「……そうですか」
「それだけか」
「はい。また来ます」
あっさりしていた。もっと食い下がるかと思っていた。私が構えていた分、拍子抜けだった。シェイドはすでに川の方へ向きを変えていた。
「シェイド」
「はい」
「お前は何がしたい?」
シェイドが振り返った。笑っていた。
「さあ」と言った。「では」
水車の音の中に、足音が混じって、消えた。
家に戻ると、アレンが畑から上がってきたところだった。井戸で手を洗っていた。私が敷地に入ると、顔を上げた。
「遅かったな?」
「散歩だ」
アレンは手を拭いながら、私の顔を見た。特に長くではなかった。ただ、見た。
私は視線を外さなかった。
アレンが先に顔を逸らして、「飯の前に着替える」と言って家の中に入った。私は井戸の前に立ったまま、少しの間そこにいた。
(今は動かない、と言った)
言ったことに、嘘はない。今の私に動ける力はない。幼女の体で、魔力もほぼなく、手駒も整っていない。シェイドの話が本当だとしても、今動くのは悪手だ。戦略として、正しい判断をした。
(……それだけだ)
水が井戸の縁から少し垂れていた。アレンが手を洗った水だった。私はそれを見て、家の中に入った。




