第3話 元部下、現る
村に着いたのは昼前だった。
アレンは特に何も言わず歩く。私はその3歩後ろをついていく。石畳の道は、アレンの足には平坦に見えるが、私の足では1段ごとに微妙な段差がある。転びはしないが、自然と視線が下を向く。
市場の手前で人が増えてきた。
荷車、呼び込みの声、焼いた肉の匂い。私は1000年以上生きてきたが、こういった雑踏を「内側から歩いた」ことはなかった。常に上から見下ろすか、あるいは「人間どもの生活区域」として処理してきた場所だ。足元から積み重なる石畳の感触が、いやに具体的だった。
アレンが立ち止まった。
「ここで待っててもいい。用が済んだら戻る」
「行くと言った」
アレンは少しの間、私の顔を見た。それから「そうか」と言って歩き出した。
私はついていく。
市場に入って5分も経たないうちに、ゴルダを見つけた。
見つけた、というより、見えた。向こうの露天商の列の中で、220センチの体躯が際立って飛び出している。頭に巻いた布、朱色の前掛け、山積みの野菜。あれがゴルダだと気づくまで一呼吸かかった。四天王筆頭が野菜を売っている絵面を、私の脳は一度では処理できなかった。
足を止めた。
ゴルダはまだこちらに気づいていない。客の相手をしながら、大きな声で「今朝採れたばかりですよ!」などと言っている。角は布で隠している。表に出るときの偽装だ。以前から言っておいた。
逃げるべきか。
アレンが前を歩いている。私はその2歩後ろにいる。ゴルダは通路の向こうだ。アレンが今の進路を変えなければ、5秒後にゴルダの露天の真前を通る。
4秒。
3秒。
私はアレンの袖を引いた。
「……あちらに、ほかの店がある」
「何が欲しいんだ?」
「何でもいい。あちらで買え」
アレンは私を見た。それから通路の先を見た。ゴルダの露天を見た。何かを判断したのか、あるいは何も判断しなかったのか、右方向へ曲がった。私はほっと——
「ま」
後ろから声がした。
「ま、魔——」
振り返るな。そう思ったが体が先に動いていた。ゴルダと目が合った。ゴルダの顔が、ゆっくりと崩れていくのが見えた。大きな目がみるみる充血していく。
私は先に口を開いた。
「……知らない子供だ」
ゴルダは固まった。
「知らない、子供、だ」
私は一語一語を区切った。念を押した。大人の言葉で言っているつもりだったが、今の私の声では、どう聞こえているかわからない。
ゴルダの顎が震えた。
「え?」と言った。「え、でも、あの、目が」
「知らない子供だ」
「……そう、ですか」
声が、ひどく情けなかった。ゴルダの目から涙が一筋落ちた。客に見えないよう前掛けで素早く拭ったが、もう遅かった。隣で話を聞いていた客の老婆が心配そうに「どうしたの?」と言い、ゴルダが「なんでもないです」と答え、老婆が「無理しないのよ」と言い、ゴルダがまた泣いた。
アレンがゴルダの前に歩み寄って、懐から布を1枚出した。何も言わずに露天の台の上に置いた。ゴルダがそれを手に取ってまた泣いた。
私はその光景を3秒ほど見てから、進路とは関係ない方向を向いた。
アレンの用事というのは、道具屋での鍬の柄の交換と、薬師への薬草の受け取りだった。どちらも短かった。道具屋の親父がアレンの顔を見るなり「ああ、クロスフィールドさん、こないだので大丈夫でしたか?」と声をかけ、アレンが「ああ」と言い、それで会話が終わった。薬師の方はもう少し言葉があったが、私は外で待っていたので聞こえなかった。
帰り道を歩いている途中、路地の端に人影があった。
「魔王様」
ゴルダだった。前掛けをはずして、布を手に持っている。アレンはちょうど2軒先の果物売りに捕まっていて、こちらを向いていない。
「黙れ」
私は小声で言った。
「でも魔王様——」
「その呼び方をやめろと言っている」
ゴルダは口をつぐんだ。震えている肩を見ながら、私は周囲を確認した。人の声は遠い。アレンはまだ果物売りの相手をしている。
「状況は把握している。潜伏中だ」
「なぜ……なぜ勇者の家にいるのですか?」
少し間があいた。
「戦略的理由だ」
ゴルダの目が揺れた。「そ、そうですか」と言ったが、声に一切の確信がなかった。
「ゴルダ」
「は、はい」
「お前は今どこに?」
「村の北の方に、小屋を借りています。野菜を作って、売って……魔王様がいつか転生されると思って、待っていました」
203年生きた四天王筆頭が、人間の村で野菜を売って私を待っていた。
私は何か言おうとして、言葉を探した。労うつもりはない。そういう感傷は私の管轄ではない。ただ——
「余計なことはするな。今は動くな」
「……はい」
「私が呼ぶまで、ここで普通に暮らしていろ」
「魔王様は、いつ——」
「魔王様と呼ぶな」
路地の向こうからアレンの声がした。「ディア」と短く呼んだ。
私はゴルダに背を向けた。
「……またくる」
言ってから、言わなければよかったと思った。ゴルダが何か言おうとしている気配があったが、振り返らなかった。
アレンが立っていた。りんごを1個持っていた。
「知り合いか?」
「……違う」
「そうか」
アレンはりんごを私に差し出した。私はそれを受け取った。アレンが歩き出す。私は1歩遅れてついていく。
りんごを齧った。甘かった。
(いちいち食べさせるな)
心の中で言ったが、歩きながらもう一口齧った。
市場の入り口に戻ってくるあたりで、後ろを振り返った。路地はもう見えない。ゴルダも見えない。
アレンがふと立ち止まった。振り向きもせず、ぽつりと言った。
「さっきの人、泣いてたな」
「……知らない人間だ」
「ああ」
それで終わった。アレンは歩き始め、私もついていった。
りんごを最後まで食べた。芯は道端の植え込みに置いてきた。
家に帰ったのは昼過ぎだった。
アレンが昼の飯を作っている間、私は窓際に座って外を見ていた。市場の方角とは逆だったが、目はそちらを向いていた。
ゴルダが数年、野菜を作って待っていた。
そのことを、私は処理しきれていなかった。思い入れを持つつもりはない。ゴルダは駒だ。使える場面が来れば使う。それだけのことだ。
(それだけのことだ)
アレンが椀を2つ、卓に置いた。
「冷める前に食え」
私は窓から視線を戻した。椀の中に麦の粥があった。昨日の根菜が入っていた。
座って、匙を取った。
一口食べると、アレンが向かいに座って食べ始めた。私たちは黙って食べた。アレンが時々、窓の外に目をやる。私は粥を食べ続けた。
「……アレン」
呼んだ理由は、自分でもよくわからなかった。
「ああ」
「今日の用というのは、それだけだったのか?」
「ほかに?」
「……いや」
アレンは何も言わなかった。匙を動かした。
私も匙を動かした。
窓から風が入ってきて、卓の上に何かの葉が1枚落ちてきた。アレンがそれをつまんで、外に出した。それだけだった。
粥が、思ったより温かかった。




