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9話「差し出された手」

日が沈むまで、白嶺は彩華と過ごした。


 夕食を食べさせ、風呂へ入れる。


 昼間に買った黄色い鳥の玩具は、入浴中も脱衣所に置かれていた。手放させようとすると泣いたため、彩華から見える場所へ置くことで納得させた。


『お風呂には入れないわよ』


「あぅ」


『壊れたら、もう鳴らなくなるから』


 風呂から上がった彩華は、身体を拭き終えるより先に玩具へ手を伸ばした。


『逃げないから、服を着なさい』


「うー」


『なぜ怒るの』


 寝間着を着せ、黄色い鳥を返す。


 彩華はすぐに機嫌を直した。


『現金ね』


 玩具を握ったままミルクを飲み、やがて白嶺の腕の中で眠り始める。


 鳥を持つ手から力が抜けない。


 白嶺が指を開こうとすると、彩華は眠ったまま眉を寄せた。


『分かった。持っていなさい』


 そのままベビーベッドへ寝かせる。


 小さな胸元に、黄色い鳥が乗っている。


 白嶺はしばらく寝顔を見つめた。


 今夜も、この部屋に彩華を一人で残す。


 何度繰り返しても、慣れることはなかった。


 慣れてはいけないとも思っている。


 それでも、商店街から伸びていた黄色い糸を放置することはできない。


 白嶺は黒い着物へ着替え、宿彩を帯へ差した。


『すぐに戻るわ』


 返事はない。


 彩華の手の中で、黄色い鳥が小さく鳴った。


          ◇


 商店街の店は、半分以上が営業を終えていた。


 昼間の人混みは消え、通りを歩く者も少ない。


 白嶺には、街灯の下を漂う黄色い糸が見えていた。


 一本ずつは細い。


 だが、昼間よりも数が増えている。


 糸は商店街の裏手へ伸び、閉店した古い洋菓子店の前へ集まっていた。


 甘い匂いがする。


 菓子の残り香ではない。


 人の体温と、誰かへ向けられた思いやりを煮詰めたような匂いだった。


 店の前に、小さな女の子が座っている。


 六歳ほどだろうか。


 黄色いワンピースを着て、両膝を抱えていた。


 白嶺が近づくと、女の子が顔を上げる。


「お姉ちゃん」


 明るく、無邪気な声だった。


「迷子になっちゃったの」


『そう』


「お母さんを探してくれる?」


 女の子は立ち上がり、両手を差し出した。


「手を繋いで」


 白嶺は足を止めた。


 差し出された手から、無数の黄色い糸が伸びている。


 昼間、老婦人から温もりを奪ったものと同じだった。


『交番なら、通りの反対側よ』


「一緒に行って」


『一人で行けるでしょう』


「怖いの」


 女の子の瞳に涙が浮かんだ。


「お願い」


 普通の人間なら、その手を取る。


 夜の商店街で泣いている子供を、放っておける者は少ない。


 その善意を、目の前のものは待っている。


『随分と考えた姿ね』


「何が?」


『あなたが老婆の姿なら、助けてもらえるまで少し時間がかかるもの』


 女の子は首を傾げた。


「助けてくれないの?」


『ええ』


「かわいそうだと思わない?」


『思うわ』


 白嶺は宿彩の柄へ手を掛けた。


『だから、中にいる子を返して』


 女の子の笑顔が消えた。


 人間の身体へ色霊が入り込み、その姿を表面に使っている。


 白嶺が見ているのは、色霊そのものではない。


 依代にされた人間の子供だった。


 その背後で、異形の輪郭が浮かび上がる。


 膨らんだ腹部。


 蜂の巣に似た無数の穴が開いた胸。


 細い腕が幾重にも重なり、それぞれの手が誰かを招くように開かれている。


 胸の穴には、奪った温もりが黄金の蜜となって溜まっていた。


「この子は、くれたよ」


 声が二重に響く。


「お腹が空いていたから、パンをくれた」


『そう』


「優しかったから、入れたの」


『礼儀を知らないのね』


「れいぎ?」


『気にしないで』


 やはり通じなかった。


 白嶺が鯉口を切る。


 白髪が膝まで伸び、その一部へ生来の虹色が走った。


 その中で、封じた赤と橙がひときわ濃く浮かび上がる。


 伸びた髪を結い上げ、宿彩を抜く。


 女の子が目を見開いた。


「それで、何をするの?」


『あなたを斬る』


「この子も切れちゃうよ?」


『そうね』


 白嶺は否定しなかった。


 色霊と依代は、同じ場所に重なっている。


 普通の刃で斬れば、人間の身体も傷つく。


 だからこそ、虹結家の剣は色を斬るために作られた。


 白嶺の目には、女の子の身体と、その背後にいる色霊の境界が見えている。


 宿彩が捉えるのは肉体ではない。


 その内側へ入り込んだ色だけだった。


「怖くないの?」


 女の子が尋ねる。


『怖いわよ』


「じゃあ、刀を置いて」


『それとこれは別の話ね』


 女の子の両腕が開く。


 周囲を漂っていた黄色い糸が、一斉に白嶺へ伸びた。


 腕へ。


 胸へ。


 刀を握る指へ。


 触れた者の善意と温もりを吸い上げる糸。


 白嶺は後ろへ退かなかった。


 宿彩を横へ倒す。


 長い刃が、白嶺へ届くより先に糸へ触れた。


 一振り。


 正面から伸びていた黄色がまとめて断たれる。


「どうして?」


 色霊が新たな糸を放つ。


 白嶺は宿彩の切っ先だけを動かし、一本ずつ正確に斬り落とした。


 色霊の手は白嶺へ届かない。


 宿彩だけが、その外側から相手を捉えている。


 長すぎる刀は、狭い場所では扱いにくい。


 重心も遠く、抜くだけでも技量を求められる。


 だが、使いこなせる者にとって、その間合いは絶対的な優位になる。


 触れたものから奪うミツガミの力は、白嶺へ触れなければ意味がない。


「ずるい」


『戦いに公平を求めないで』


 白嶺は宿彩を鞘へ納めた。


 腰を落とし、左手で鞘を押さえる。


 右手は柄へ。


 女の子の身体と、背後の異形。


 二つの輪郭が重なる一点を見定める。


「その子ごと、切るの?」


『あなたしか斬らない』


「できないよ」


『できるわ』


 色霊の胸から、蓄えた蜜が溢れ出した。


 地面へ落ちる前に無数の手へ変わり、白嶺を掴もうと迫る。


 白嶺が踏み込んだ。


【虹結流抜刀術 居彩】


 鞘走りの音が、一度だけ響いた。


 宿彩の刃は、女の子の身体を通り抜けている。


 衣服も、皮膚も、一本の髪さえ傷ついていない。


 斬られたのは、その内側に潜んでいた黄色だけだった。


「どうして……」


 色霊の胸にある蜂の巣が、中央からずれた。


 蓄えられていた蜜が光となって溢れ出す。


「優しくしてくれたから、もらっただけなのに」


『差し出された手は、奪っていいという意味ではないわ』


「温かかった」


『でしょうね』


「もっと、ほしかった」


『もう終わりよ』


 色霊の輪郭が崩れる。


 無数の腕が黄色い光へ変わり、胸の蜂の巣も形を失っていく。


 光は宿彩へ吸い寄せられた。


 赤と橙に続き、黄色が刃の奥へ封じられる。


 同時に、誰かの温もりが白嶺の内側へ流れ込んだ。


 差し出された手。


 分け与えられた食事。


 見返りを求めない親切。


 抱き締められたときの安堵。


 知らないはずの記憶が、胸を満たしていく。


 心地よかった。


 もっと触れていたい。


 誰かに優しくされたい。


 その温もりを、自分だけのものにしたい。


 白嶺は宿彩を鞘へ戻した。


『三つ目ね』


 戦闘の姿が解ける。


 白髪が元の長さへ戻り、虹色も消えていった。


 依代にされていた女の子の身体が傾く。


 白嶺は片腕で受け止めた。


 呼吸はある。


 目立った傷もない。


 眠っているだけだった。


 色霊が使う依代と、虹結家が呼ぶ器は、同じものではない。


 依代は、色霊が人間の身体を借りるための入れ物にすぎない。相性さえ合えば、誰でも選ばれる可能性がある。


 対して器は、十二の色をすべて封じられる素質を持ち、実際に封印を受け継いだ者を指す。


 虹結家の中でも、その素質を持つ者はほとんどいない。


 白嶺は、その稀な一人だった。


 本人が望んだことではない。


 選ぶ前から決められていた役目だった。


 白嶺は眠る女の子を抱き上げ、商店街の表通りへ向かった。


          ◇


 人目につく場所まで戻り、白嶺は女の子を長椅子へ寝かせた。


 近くに置かれていた鞄の中から、子供用の携帯電話が見つかる。


 登録された連絡先には、母親からの着信が何件も残っていた。


 白嶺は母親へ電話をかけ、女の子の居場所だけを伝えた。


「あなたはどなたですか」と尋ねられたが、答えずに電話を切った。


 数分後、通りの向こうから一人の女性が駆けてくる。


 女の子の母親だろう。


 白嶺はその姿を確認し、路地の暗がりへ退いた。


「芽衣!」


 女性が女の子を抱き上げる。


 名前を呼ばれた少女が、ゆっくりと目を開けた。


「お母さん……?」


「よかった……」


 母親は何度も名前を呼びながら、娘を強く抱き締めている。


 女の子も、母親の背中へ腕を回した。


 黄色い糸は見えない。


 奪われた温もりは、街へ戻り始めていた。


 白嶺は二人に背を向けた。


 一刻も早く、彩華のもとへ帰らなければならない。


 歩き出そうとしたとき、背後に視線を感じた。


 白嶺は足を止める。


 商店街に面した建物の屋上。


 黒い影が立っていた。


 顔は見えない。


 腰には、刀と思われる細長いものがある。


 影は白嶺ではなく、抱き合う母娘を見下ろしていた。


『誰?』


 白嶺の声が届く距離ではない。


 それでも、影はこちらへ顔を向けた。


 白嶺が宿彩へ手を掛ける。


 次の瞬間、影は建物の奥へ消えた。


 追うことはできる。


 だが、影が色霊の気配を持っていないことは分かっていた。


 今は、それよりも優先するものがある。


 白嶺は影を追わず、アパートへ走った。


          ◇


 自宅の扉を開ける。


 泣き声は聞こえない。


 白嶺は寝室へ向かった。


 彩華はベビーベッドの中で眠っている。


 胸元には、黄色い鳥の玩具があった。


 眠ったまま握っていたらしく、片方の翼が掌から覗いている。


 白嶺はその場へ膝をついた。


 宿彩から流れ込んだ黄色が、胸の奥で温もりを求めている。


 抱き締めたい。


 頬へ触れたい。


 小さな身体から感じる熱を、すべて自分のものにしたい。


 白嶺は伸ばしかけた手を止めた。


 今、彩華へ触れたいと思っているのは誰なのか。


 自分か。


 ミツガミか。


 その境界が、すぐには分からなかった。


『……今日は、やめておきましょう』


 白嶺は彩華を起こさず、ベビーベッドの横へ座った。


 触れなくても、ここにいることはできる。


 赤が熱を求めている。


 橙がすべてを休めと囁いている。


 黄色が誰かの温もりを欲しがっている。


 三つの色が、白嶺の中で別々に息づいていた。


 これまでの二つとは違う。


 黄色は、彩華へ向ける白嶺自身の愛情とよく似ている。


 似ているからこそ、分けることが難しい。


 白嶺は眠る娘を見守った。


 黄色い鳥が、彩華の小さな寝返りに合わせて鳴る。


 その音を聞きながら、白嶺は夜が明けるのを待った。

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