10話「触れる理由」
朝になり、彩華が目を覚ました。
ベビーベッドの中から白嶺を見つけ、両腕を伸ばす。
「あぅ」
白嶺は床へ座ったまま、その手を見つめていた。
昨夜から、ほとんど同じ姿勢でいる。
『おはよう』
「あー」
彩華は抱き上げてもらえると思っている。
白嶺が動かないでいると、伸ばした両手を何度も開閉した。
抱きたい。
柔らかな身体へ触れたい。
自分を求めて伸ばされた手に応えたい。
その感情が白嶺自身のものなのか、ミツガミから流れ込んだ黄色なのか、昨夜は分からなかった。
今も、完全に見分けられるわけではない。
胸の奥にある黄色は、彩華の温もりを欲しがっている。
触れれば安心できる。
抱けば満たされる。
もっと自分だけを求めてほしい。
それは、愛情によく似ていた。
白嶺は彩華の目を見る。
涙はない。
それでも、抱き上げられるのを待っている。
『……違うわね』
白嶺は立ち上がった。
彩華の身体へ両手を伸ばす。
黄色は、温もりを自分の中へ取り込もうとする。
白嶺が彩華へ向けているものは、反対だった。
この子を安心させたい。
空腹を満たしたい。
今日も何事もなく過ごさせたい。
自分が満たされるためではない。
彩華へ与えるために、触れようとしている。
『これは、あたしのものよ』
彩華を抱き上げた。
小さな身体が胸元へ収まる。
彩華はすぐに白嶺の白髪を掴んだ。
『そして、これは痛い』
「あー」
『朝から容赦がないわね』
白嶺は彩華の指を髪から外した。
黄色は消えていない。
抱いている温もりを、もっと欲しいと訴えている。
だが、昨日のように触れることを恐れる必要はなかった。
自分の感情まで疑い続ければ、それこそ色霊に奪われたことになる。
『御飯にしましょう』
「あぅ」
『今日は投げないでね』
彩華をベビーチェアへ座らせる。
白嶺が朝食の準備を始めると、黄色い鳥の玩具が床へ落ちた。
軽い鈴の音が鳴る。
彩華が白嶺を見る。
『自分で拾って』
「うー」
『……まだ無理ね』
拾って渡す。
彩華は満足そうに玩具を握った。
◇
翌日の月曜日。
白嶺が出勤すると、営業企画部の空気が普段より慌ただしかった。
藤原悠人が電話を終え、席から立ち上がる。
「加藤さん。今日の午後に搬入予定だった展示台ですが、先方の倉庫で手配に漏れがあったそうです」
『到着はいつになるの?』
「早くても明日の午後です」
『明日の設営には間に合わないわね』
「はい」
週明けから始まる、新商品の販促企画。
明日は対象店舗の一つで、売り場の設営を行う予定だった。
展示台が届かなければ、商品の配置も動線の確認もできない。
担当者の顔には焦りがある。
白嶺は自分の席へ鞄を置き、進行表を開いた。
『倉庫から直接、店舗へ運べない?』
「配送車が押さえられないそうです」
『こちらで手配した場合は?』
「確認します」
『お願い。展示台の代わりに使える備品が、店舗にあるかも聞いて』
「分かりました」
悠人が電話をかける。
白嶺は関係する作業を分けた。
展示台が必要な作業。
なくても進められる作業。
予定を入れ替えた場合、どの部署へ影響が出るか。
一つずつ確認していく。
胸の奥では、赤が苛立っていた。
手配を漏らした相手を責めろ。
今すぐ謝罪させろ。
橙は、明日になれば何とかなると囁いている。
黄色は、誰かが助けてくれることを期待していた。
白嶺は、どの感情も判断へ混ぜなかった。
『藤原さん』
電話を終えた悠人が振り返る。
「はい。こちらで配送車を用意すれば、今日中に倉庫から出せるそうです。ただ、通常より費用が掛かります」
『先方の手配漏れなら、費用の負担について交渉して』
「全額ですか?」
『まずは全額。難しければ折半。ただし、配送はこちらで押さえる』
「承知しました」
『店舗には?』
「展示台の代わりになる長机があるそうです」
『では、明日の午前は長机で配置と動線だけ確認する。展示台が届き次第、商品を移す』
「設営担当へ伝えます」
『あたしからも工程表を送るわ』
白嶺は予定を組み直す。
作業を止めるのではなく、順番を変える。
余計な残業も、休日出勤も発生させない。
十五分後には、新しい工程が関係者へ共有されていた。
部長が白嶺の机へ来る。
「加藤さん、展示台の件は?」
『本日中に倉庫から発送させます。明日は代用品で設営を始め、午後に入れ替えます』
「開始日に影響は?」
『ありません』
「分かった。任せる」
『承知しました』
部長はそれだけ確認して戻っていった。
白嶺も、何事もなかったように次の仕事を始める。
問題が起きないことが、優秀さではない。
問題が起きたとき、誰かを責める前に仕事を前へ進められること。
白嶺は、そう考えていた。
◇
昼前、悠人が再び報告へ来た。
「配送車を確保できました。費用も先方が全額負担するそうです」
『ありがとう。倉庫を出たら、店舗への到着予定を確認して』
「はい」
『藤原さんの判断が早かったから、明日に間に合ったわ』
「最初に作業を分けてくださったからです」
『連絡と交渉をしたのは藤原さんでしょう』
悠人はわずかに目を見開いた。
「……ありがとうございます」
『まだ終わっていないわよ』
「はい。最後まで確認します」
悠人は自分の席へ戻った。
美咲はその会話を聞いていたが、白嶺へ声をかけなかった。
手元の企画書へ視線を戻し、自分の仕事を続ける。
玲奈も、黙って集計表を作っている。
営業企画部には、それぞれの仕事がある。
白嶺が中心に立っていても、すべての会話が白嶺を巡って行われるわけではない。
電話の音。
キーボードを打つ音。
資料をめくる音。
いつもの仕事場の音が続いている。
白嶺は、その中へ自然に溶け込んでいた。
◇
午後、店舗から展示台が届いたと連絡が入った。
到着予定よりも早い。
明日の作業は、当初の計画に近い形で進められる。
白嶺は関係者へ最終の工程表を送り、仕事を終えた。
予定していた業務に遅れはない。
誰かが白嶺の体調を心配することもない。
三つの色を抱えていると気づく者もいない。
「お疲れさまでした」
『お疲れさまでした』
普段と同じ時刻に会社を出る。
保育園へ向かう途中、白嶺はショーウィンドウに映った自分を見た。
整えた白髪。
皺のないジャケット。
一定の歩調。
加藤主任としての姿に、乱れはなかった。
だが、その内側には三つの色がいる。
赤が、もっと多くを求める。
橙が、すべてを手放して休めと誘う。
黄色が、誰かの温もりに縋ろうとする。
どれも、会社では表へ出さなかった。
白嶺はショーウィンドウから目を離し、保育園へ向かった。
◇
彩華は、今日も黄色い鳥の玩具を握っていた。
「朝からずっと気に入っているみたいです」
保育士が笑う。
『家でも離さないんです』
「大切なものができたんですね」
『買ったのは一昨日ですけどね』
「子供に時間の長さは関係ないのかもしれません」
白嶺は彩華を抱き上げた。
彩華が鳥を白嶺の頬へ押しつける。
鈴が耳元で鳴った。
『近いわ』
「あぅ」
『聞こえているから』
もう一度鳴らされる。
『わざとね』
彩華を抱いて、保育園を出る。
帰り道に食料品を買い、アパートへ戻った。
玄関を開けると、朝のまま残された洗濯物が見える。
白嶺は数秒眺めた。
『先に夕食ね』
「あー」
『洗濯物は逃げないから』
部屋へ入り、彩華を床へ座らせる。
夕食を作りながら、何度か振り返った。
彩華は鳥を振っている。
楽しそうだった。
その姿を見るたび、白嶺の胸には温かな感情が生まれる。
黄色も同じように反応する。
それでも、もう混同はしなかった。
彩華から何かを得たいのではない。
笑っていてほしい。
そのために、白嶺は食事を作り、働き、迎えに行く。
色霊から押しつけられたものではない。
彩華が生まれる前から、自分の中にあったものでもない。
この子と暮らす中で、白嶺自身が育ててきた感情だった。
◇
彩華を寝かしつけたあと、白嶺は居間の収納を開いた。
商店街で見た黒い影が、まだ気になっている。
色霊ではない。
刀を持ち、白嶺の戦いを見ていた。
偶然その場にいただけとは考えにくかった。
収納の奥から、小さな箱を取り出す。
中には、家を出たときに持ち出したものが収められていた。
古い髪飾り。
折れた木札。
差出人のわからない手紙。
そのほとんどを、白嶺は長い間見ていない。
一番上に置かれた封筒を手に取った。
宛名には、今の姓が使われていなかった。
――虹結白嶺。
それが、白嶺の生まれたときの名前だった。
会社で使っている加藤という姓も、偽名ではない。
かつて結婚した相手から受け取った、正式な姓だった。
離婚したあとも、白嶺は虹結へ戻さなかった。
戻す理由がなかった。
むしろ、戻りたくなかった。
白嶺は封筒を裏返す。
差出人の名前はない。
封は切られていなかった。
『今さら、何を言われてもね』
白嶺は手紙を箱へ戻した。
開けるつもりはない。
だが、黒い影が虹結家と無関係だとも思えなかった。
虹結白嶺。
自分が捨てた名前を知る者が、近くまで来ている。
白嶺は収納を閉めた。
寝室では、彩華が眠っている。
色霊だけなら、自分が斬ればいい。
だが、相手が虹結家の人間なら、狙われるのは白嶺だけとは限らない。
白嶺は壁へ立てかけた宿彩を見た。
胸の奥で三つの色が揺れている。
そのどれとも違う感情が、静かに湧き上がった。
恐怖ではない。
怒りでもない。
自分が捨てたはずの過去が、彩華へ近づくことへの拒絶だった。
『この子には、触れさせない』
白嶺は小さく呟いた。
眠る彩華の手には、黄色い鳥が握られていた。




