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11話「近い用事」

金曜日の午後。


 美咲は、何度も白嶺の席を見ていた。


 正面からではない。


 資料を取りに立ったとき。


 飲み物を買いに行くふりをしたとき。


 画面から顔を上げ、考え事をしているように見せたとき。


 白嶺が仕事をしていることを確認しては、自分の席へ視線を戻す。


 午前中から、ずっと同じことを繰り返していた。


 声をかける理由は決めている。


 話す内容も、頭の中で何度も練習した。


 それでも立ち上がれない。


 仕事に関する質問なら、迷わず行ける。


 企画書を確認してもらう。


 資料の使い方を相談する。


 打ち合わせの進め方について意見を聞く。


 どれも、会社の後輩として自然な用事だった。


 今日、美咲が白嶺へ話そうとしていることは、仕事ではない。


 土曜日に、家へ寄ってもいいか。


 それだけだった。


 白嶺の自宅近くに用事があるというのは、嘘ではない。


 以前から気になっていた菓子店が、その地域にある。


 ただ、その店へ行く日が明日でなければならない理由はなかった。


 白嶺の住所も知らない。


 本当に店と家が近いかどうかさえ、美咲には分からなかった。


 近くに用事がある。


 だから、ついでに立ち寄る。


 そういう形にすれば、白嶺も警戒しないかもしれない。


 自分自身にも、白嶺の家へ行くことが目的ではないと言い訳できる。


 美咲は手元の資料へ目を落とした。


 同じ文章を、もう三度読んでいる。


「佐藤さん」


 名前を呼ばれ、肩が跳ねた。


「はいっ」


 顔を上げる。


 呼んだのは白嶺だった。


『午前中に頼んだ確認は終わった?』


「はい。終わっています」


『では、結果を送って。待っているのだけれど』


「あ……すみません。すぐに送ります」


 確認作業は終えていた。


 白嶺へ話しかけることばかり考え、報告を送るのを忘れていた。


 美咲は慌てて画面を操作する。


 作成済みのメールを確認し、送信した。


「今、送りました」


 白嶺が自分の画面を見る。


 添付した資料を開き、内容を確認する。


『問題ないわ。ありがとう』


「いえ。遅くなってすみません」


『終わっているなら、次からは報告まで済ませて』


「はい」


 白嶺は叱るでもなく、それだけ伝えて自分の仕事へ戻った。


 美咲は小さく息を吐く。


 余計に声をかけづらくなった。


 仕事へ集中しなければならない。


 美咲はそう思い、しばらく画面へ向かった。


          ◇


 午後三時を過ぎた頃、白嶺は部長との打ち合わせから戻った。


 席に着き、持ち帰った資料を整理する。


 続いて予定表を確認し、いくつかのメールへ返信した。


 美咲は横目で様子を窺った。


 白嶺の手が止まる。


 画面から目を離し、コーヒーへ手を伸ばした。


 今なら、話しかけても邪魔にはならないかもしれない。


 美咲は立ち上がった。


 白嶺の席へ向かう。


 一歩進むごとに、何をしようとしているのだろうという疑問が大きくなった。


 休日に上司の家を訪ねる。


 仕事の相談があるわけでもない。


 親しい友人というわけでもない。


 それでも、もう席へ戻ることはできなかった。


「加藤さん」


 白嶺が顔を上げる。


『何?』


「今、少しいいですか?」


『ええ』


 用意していた言葉が、一度すべて消えた。


 白嶺は急かさず、美咲が話すのを待っている。


「実は……明日、加藤さんの家の近くへ行く用事があるんです」


『あたしの家の場所を知っているの?』


「知りません」


『なら、近いかどうかも分からないでしょう』


「……そうですね」


 最初から破綻した。


 美咲の顔へ熱が集まる。


「駅の近くにある菓子店へ行こうと思っていて、その……加藤さんも、同じ沿線だったと思ったので」


『同じ沿線ではあるわね』


「もし本当に近かったら、帰りに少しだけ寄ってもいいですか?」


 白嶺はコーヒーの缶を机へ置いた。


『何か用事があるの?』


「用事というほどではないんですけど……」


 美咲は指先を握る。


 ここで嘘を重ねても、白嶺には通じない。


「会社以外で、加藤さんと少しお話ししてみたいと思って」


 声が小さくなる。


「御迷惑でなければ、ですけど」


 白嶺は美咲を見た。


 白嶺にとって、美咲は部下の一人だった。


 努力家で、指摘した内容を自分なりに考え、次の仕事へ反映させようとする。


 まだ自信がなく、失敗を恐れるあまり、必要以上に萎縮することもある。


 それでも、少しずつ成長している。


 家へ招く理由があるわけではない。


 一方で、拒むほどの理由もなかった。


『駅前の菓子店なら、あたしの家から歩いて十五分くらいよ』


「近いです」


『そうね』


「では……」


『場所を送るわ』


 美咲の顔が明るくなる。


「本当ですか?」


『ただし、長くはできないけれど』


「短時間で大丈夫です」


 返事が早かった。


 白嶺は美咲の連絡先へ住所を送る。


『午後二時頃なら家にいるわ』


「はい。ありがとうございます」


『仕事の話をするときより嬉しそうね』


「そ、そんなことは……」


『そう』


 白嶺は深く追及せず、仕事へ戻った。


 美咲は自分の席へ向かう。


 歩調が不自然に速くならないよう気をつけた。


 席へ着き、画面を開く。


 白嶺から届いた住所が表示されている。


 何度も見る必要はない。


 それでも美咲は、建物名と部屋番号まで確かめた。


 明日、白嶺の家へ行く。


 会社とは違う場所で、二人で話す。


 そう考えただけで、胸が落ち着かなかった。


          ◇


 退勤時刻になった。


 白嶺は予定していた仕事をすべて終え、パソコンの電源を落とした。


「加藤さん、お疲れさまでした」


『お疲れさま』


 美咲は普段と同じように挨拶をしたつもりだった。


 声が少し明るくなっている。


 白嶺は特に気にした様子もなく、鞄を持って営業企画部を出た。


 扉が閉じる。


 美咲は椅子へ座り直した。


 自分のスマートフォンを開く。


 白嶺から送られた住所は消えていない。


 当然だった。


 美咲は画面を閉じた。


 明日は菓子店へ行く。


 その帰りに、たまたま近かった白嶺の家へ寄る。


 それだけだ。


 最初から白嶺の家へ行くことが目的だったわけではない。


 何度言い聞かせても、胸の高鳴りは収まらなかった。


          ◇


 白嶺は保育園へ彩華を迎えに行った。


 抱き上げると、彩華の手には黄色い鳥が握られている。


『今日も一日持っていたの?』


「あー」


「お昼寝のときも離さなかったんですよ」


 保育士が笑った。


『そこまで気に入るとは思いませんでした』


「大切なものなんでしょうね」


 白嶺は黄色い鳥を見る。


 彩華は今日も、それを大切そうに握っていた。


『なくさないようにしないとね』


「あぅ」


 彩華を抱いて帰る。


 胸の奥には、赤、橙、黄色が沈んでいる。


 会社にいる間は、一度も表へ出さなかった。


 今も、白嶺の行動を支配するほどではない。


 だが、赤の渇望は、彩華を抱くたびに反応する。


 もっと強く抱け。


 その身体に宿る熱を、命の赤を、確かめろ。


 白嶺は彩華の背中へ添えた手から、余計な力を抜いた。


 触れないのではない。


 奪わないように触れる。


 それが今の白嶺にできることだった。


          ◇


 夜。


 白嶺は彩華の小さな足へ保湿用のクリームを塗っていた。


 冷え始めた季節のせいか、踵が少し乾燥している。


『動かないで』


「あー」


『塗りづらいでしょう』


 彩華はくすぐったそうに足を動かした。


 白嶺は片手で足首を支え、残ったクリームを薄く伸ばしていく。


 黄色い鳥は枕元に置いてある。


 手から離すまでに時間はかかったが、今はクリームの容器へ興味が移っていた。


『これは駄目よ』


 彩華が手を伸ばす前に、容器を遠ざける。


「うー」


『怒っても渡さない』


 彩華は不満そうに眉を寄せた。


 白嶺は蓋を閉め、手の届かない場所へ置いた。


 明日、美咲が来る。


 そのことを思い出す。


 彩華がいることを、美咲には話していない。


 隠していたわけではなかった。


 会社で私生活を話す必要がなかっただけだ。


 明日になれば、美咲は知る。


 白嶺が一人で子供を育てていること。


 会社では見せない生活を送っていること。


 それを知った美咲がどう思うのか、白嶺には分からない。


 驚くだろうとは思う。


 それ以上のことは、特に考えなかった。


『明日、お客さんが来るわよ』


「あぅ」


『会社の人』


 彩華がクリームの容器へ、もう一度手を伸ばす。


『聞いていないわね』


 白嶺は彩華を抱き上げ、ベビーベッドへ寝かせた。


 黄色い鳥を隣へ置く。


 彩華はすぐに掴み、胸元へ引き寄せた。


『おやすみ』


 しばらく背中を叩く。


 彩華の目が、ゆっくりと閉じていった。


 窓の外に色霊の気配はない。


 黒い影も現れない。


 今夜は、何も起きない。


 明日、美咲が訪ねてくる。


 白嶺にとっては、休日が少しだけ普段と違うものになる。


 今は、それだけのことだった。


          ◇


 同じ頃。


 美咲は自宅のベッドへ座り、菓子店の案内を見ていた。


 焼き菓子。


 生菓子。


 季節限定の商品。


 白嶺が何を好むのか分からない。


 コーヒーをよく飲んでいることは知っている。


 なら、焼き菓子が無難かもしれない。


 何度も商品を見比べる。


 高すぎるものを選べば、重く感じられる。


 安すぎれば、せっかく家へ招いてもらうのに失礼かもしれない。


「……何しに行くんだろう、私」


 声に出すと、余計に恥ずかしくなった。


 会社以外で話したい。


 それだけは本当だった。


 白嶺が休日にどのように過ごしているのか。


 どんな服を着て、何を食べ、どのような顔で笑うのか。


 知りたい。


 会社で見ている加藤白嶺以外の部分へ、少しだけ近づいてみたい。


 そう思っている。


 美咲はスマートフォンを伏せ、布団へ横になった。


 目を閉じる。


 すぐに白嶺の顔が浮かんだ。


 会社で見せる、静かで隙のない横顔。


 明日も同じ顔をしているのだろうか。


 それとも、自宅では少し違うのだろうか。


 考えるほど眠れなくなる。


 美咲は枕へ顔を埋めた。


 明日の午後二時。


 その時刻だけが、頭の中で何度も繰り返されていた。

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