12話「ドアの向こう」
土曜日の午後。
美咲は、白嶺から送られた住所を見ながらアパートの前に立っていた。
約束の午後二時まで、あと七分。
片手には菓子店の紙袋を持っている。
コーヒーに合うという焼き菓子を選んだ。高価すぎず、安く見えないものを探した結果、店の中を三十分近く歩くことになった。
美咲は建物を見上げる。
白嶺が住んでいる場所。
それだけで、何の変哲もないアパートが特別なものに見えた。
「……早いかな」
約束より七分前。
迷惑になるほどではない。
だが、時間に正確な白嶺なら、午後二時に合わせて何か準備しているかもしれない。
美咲は近くを一度歩くことにした。
アパートの前を離れ、角を曲がる。
すぐに戻って時計を見ると、一分しか経っていなかった。
「長い……」
あと六分。
美咲は紙袋の持ち手を握り直した。
焼き菓子が崩れていないか気になる。
今さら確認することもできない。
もう一度、アパートの周囲を歩く。
今度は少し遠くまで行った。
戻ってくると、午後二時を一分過ぎていた。
「過ぎた……」
早すぎるよりはいい。
そう言い聞かせ、階段を上る。
白嶺から教えられた部屋番号を見つけた。
扉の前で、服装を確認する。
派手になりすぎない薄い色のブラウスと、膝丈のスカート。休日にしては少し堅い気もするが、白嶺の家へ着ていく服として間違ってはいないはずだった。
髪を整える。
呼吸を整える。
紙袋の位置を持ち替える。
それでも胸の高鳴りは収まらない。
美咲は呼び鈴へ指を伸ばした。
短い電子音が、扉の向こうで鳴った。
◇
室内から、何かが落ちる音がした。
続いて、白嶺の声が聞こえる。
『今、行くわ』
会社で聞く声より少し低い。
足音が近づいてくる。
美咲は背筋を伸ばした。
鍵が外れる。
扉が開いた。
『いらっしゃい』
そこに立っていたのは、会社では一度も見たことのない加藤白嶺だった。
長い白髪は無造作にまとめられ、いくつかの房が首筋へ落ちている。
薄いグレーのキャミソール。
その下には、淡いピンク色のレースが覗いていた。
下半身も同じ色の下着だけで、長い脚には何も身につけていない。素足の爪先まで、無防備に床へ置かれている。
美咲の思考が止まった。
「――っ」
声にならない息が漏れる。
会社では、皺一つないブラウスとスラックスを身につけている。
白い髪は乱れなくまとめられ、立ち姿にも隙がない。
目の前にいる白嶺には、そのどれもなかった。
細い肩。
キャミソールから伸びる腕。
薄い生地の下にある身体の輪郭。
露わになった腰から、長い脚へ続く線。
美咲の顔へ、一気に熱が集まった。
「か、加藤さん……?」
『何?』
「その格好……」
白嶺は自分の身体を見下ろした。
『家では大体こうよ』
「こう、なんですか?」
『ええ』
「でも、その……下……」
『下?』
「何でもありません!」
美咲は視線を逸らした。
正面を見れば白嶺がいる。
下を見れば、白嶺の素足が見える。
横を向くしかなかった。
白嶺は、美咲がなぜそれほど動揺しているのか本気で分かっていないらしい。
『暑いの?』
「違います」
『顔が赤いけれど』
「加藤さんのせいです」
『あたし?』
白嶺が首を傾げる。
まとめきれなかった白髪が肩から滑り、胸元へ落ちた。
美咲はますます顔を上げられなくなった。
「普通、人が来るときは、もう少し何か着ませんか?」
『家にいるのに?』
「人が来ています」
『佐藤さんでしょう』
美咲の心臓が大きく鳴った。
自分だから構わない。
そう言われたように聞こえた。
白嶺に、そのような意味がないことは分かっている。
分かっていても、熱は引かなかった。
『上がらないの?』
「上がります」
『では、どうぞ』
白嶺が扉を広く開けた。
美咲は横を向いたまま、白嶺の前を通る。
近い。
すれ違った瞬間、風呂上がりに似た柔らかな香りがした。
美咲は紙袋を胸へ強く抱えた。
◇
靴を脱ぎ、上がり框で揃える。
顔を上げた美咲は、部屋の中を見て、もう一度固まった。
ソファには畳まれていない洗濯物が置かれている。
テーブルには、飲みかけのコーヒー。
二脚の椅子の間には、黒く長い棒のようなものが渡され、その上に小さな衣類が干されていた。
そして、部屋の奥にはベビーベッドがある。
床に散らばっているのは、色鮮やかな玩具だった。
美咲は白嶺を見る。
「加藤さん」
『何?』
「この部屋……」
ベビーベッドの中から、小さな声が聞こえた。
「あぅ」
美咲の目が大きくなる。
白嶺は振り返り、何事もなかったようにベッドへ近づいた。
『起きたの』
中から赤ん坊を抱き上げる。
白嶺の白い髪へ、小さな手が伸びた。
『待ちなさい』
避けようとしたが、一本の房を掴まれる。
『痛い。お客さんの前だから、少し手加減して』
「あー」
『聞いていないわね』
白嶺は赤ん坊を抱いたまま、美咲へ戻ってきた。
美咲は口を開いたが、すぐには声が出なかった。
「加藤さん……お子さん、いるんですか?」
『ええ』
「本当に?」
『この状況で嘘をつく意味がある?』
「ないですけど……」
白嶺の腕の中で、赤ん坊が美咲を見ている。
黒く澄んだ瞳だった。
『彩華。十か月よ』
「彩華ちゃん……」
名前を呼ぶと、彩華が黄色い鳥の玩具を持ち上げた。
鈴の音が鳴る。
「こんにちは」
「あぅ」
「か、かわいい……」
美咲の口から、素直な声が漏れた。
白嶺は彩華を抱いたまま居間へ向かう。
『座って。散らかっているけれど』
美咲はソファの空いている場所を探した。
白嶺が洗濯物をまとめて端へ寄せる。
『これで座れるわ』
「今日、私が来るのは知っていましたよね?」
『知っていたわ』
「片づけようとは思わなかったんですか?」
『午前中は片づいていたのよ』
床には玩具が広がっている。
彩華が出したのだろう。
「洗濯物も?」
『それは昨日から』
「午前中は片づいていないじゃないですか」
『細かいわね』
会社であれば、美咲の方が細かい点を指摘される。
ここでは立場が逆だった。
美咲はソファへ座り、紙袋をテーブルへ置いた。
「これ、差し入れです。コーヒーに合うものを選びました」
『ありがとう』
白嶺は中を覗く。
『焼き菓子ね』
「甘いものは大丈夫でしたか?」
『食べるわ。自分ではあまり買わないけれど』
「よかったです」
白嶺は台所へ向かった。
彩華を片腕で抱いたまま、冷蔵庫から麦茶を取り出す。
キャミソールの肩紐が少しずれた。
美咲は反射的に目を逸らす。
見ないようにすると、余計に意識してしまう。
白嶺の肩。
首筋へ落ちた髪。
何も身につけていない長い脚。
視界の端へ入るたび、胸の奥が騒いだ。
『どうぞ』
目の前に麦茶が置かれる。
「ありがとうございます」
『さっきから、あたしの顔を見ないわね』
「見られません」
『なぜ?』
「分かってください」
『難しいわね』
白嶺は美咲の向かいへ座った。
彩華を膝へ乗せる。
脚を組もうとして、彩華が滑りそうになったため、そのまま両足を床へ置いた。
美咲は麦茶を一口飲んだ。
味はほとんど分からなかった。
◇
「加藤さんは、一人で育てているんですか?」
少し落ち着いたところで、美咲が尋ねた。
『ええ』
「旦那さんは……」
『離婚しているわ』
「あ……すみません」
『謝らなくていい。隠していることでもないから』
白嶺の表情は変わらない。
彩華が黄色い鳥をテーブルへ打ちつける。
鈴が何度も鳴った。
『うるさいわよ』
「あー」
『楽しそうね』
白嶺は玩具を取り上げなかった。
「会社では、全然分かりませんでした」
『何が?』
「子供がいることも、一人で育てていることも」
『話す機会がなかったもの』
「大変ではないんですか?」
『大変よ』
白嶺は即答した。
『朝は早いし、思ったとおりに動かない。置いたものは落とすし、食べさせたものは飛ばすし、髪は引っ張る』
「あぅ」
『自分の話だと分かっているの?』
彩華が笑う。
白嶺は小さく息を吐き、娘の身体を抱き直した。
『でも、やるしかないでしょう』
声に悲壮さはない。
誰かに苦労を理解してほしいとも思っていない。
ただ、自分がするべきこととして受け入れている。
美咲が会社で見ていた白嶺と同じだった。
急な問題が起きても、誰かを責める前に解決する。
部下が失敗しても、必要なことを見極めて前へ進ませる。
強いから動じないのではない。
動揺しても、やるべきことを選び続けている。
そのことを、美咲は初めて知った気がした。
「加藤さんって、会社では何でもできるように見えます」
『大体できるわよ』
「そこは否定しないんですね」
『できないと言う方が不自然でしょう』
美咲は思わず笑った。
白嶺も、ごくわずかに口元を緩める。
会社ではほとんど見せない表情だった。
それを見た瞬間、美咲の胸がまた大きく鳴った。
「でも、家では違うんですね」
『失礼ね』
「違います。悪い意味ではなくて……」
美咲は言葉を探す。
「少し、安心しました」
『安心?』
「加藤さんにも、こういうところがあるんだと思って」
散らかった玩具。
畳まれていない洗濯物。
下着姿のまま客を迎える無防備さ。
それでも、彩華を抱く腕は落ち着いている。
白嶺は会社とは違う。
同時に、どこにいても白嶺だった。
「もっと遠い人だと思っていました」
『同じ会社で働いているでしょう』
「そういう意味ではなくて」
『難しいわね』
白嶺は麦茶を飲んだ。
美咲は、もう一つ気になっていたことへ目を向ける。
肩から流れる白い髪。
「その髪、本当に生まれつきなんですか?」
『ええ』
「御家族も白髪なんですか?」
白嶺の指が止まった。
ほんの一瞬だった。
美咲が気づいたときには、すでに普段の表情へ戻っている。
『母も白い髪だったわ』
「そうなんですね」
『それだけの話よ』
それ以上は聞かない方がいい。
美咲にも分かった。
「綺麗だと思います」
『ありがとう』
白嶺は短く答えた。
彩華が再び髪へ手を伸ばす。
『あなたは、綺麗だと思って掴んでいるわけではないでしょう』
「あぅ」
『否定しないのね』
美咲は二人を見ながら笑った。
胸の奥に、温かなものが広がっていく。
白嶺の知らなかった一面を、自分だけが見ている。
会社の他の人間は、この部屋を知らない。
彩華を抱く白嶺も。
乱れた白髪も。
無防備な格好も。
その事実が、ささやかな優越感となって美咲の中へ残った。
◇
三十分ほど経った頃、彩華が目を擦り始めた。
白嶺は時計を見る。
『そろそろ眠る時間ね』
「あ、長居してしまってすみません」
『長くはできないと言ったでしょう』
「はい」
美咲は慌てて麦茶を飲み干した。
立ち上がり、紙袋の中から焼き菓子を一つ取り出す。
「これは加藤さんに。残りは、よかったら会社へ持ってきてください」
『なぜ?』
「全部あると、夕食の代わりにしそうなので」
『信用がないわね』
「家を見たら、少しなくなりました」
『帰ってもらおうかしら』
「もう帰ります」
美咲は笑いながら鞄を持った。
玄関へ向かう。
白嶺も彩華を抱いたまま見送る。
近くへ立たれると、美咲は再び白嶺の格好を意識した。
キャミソール。
ピンクのレース。
長い素足。
ここへ来てから何度見ても、慣れることはなかった。
「加藤さん」
『何?』
「誰が来ても、その格好なんですか?」
『宅配便なら、上に何か羽織るわ』
「私には?」
『佐藤さんだから』
美咲の心臓が跳ねた。
白嶺は続ける。
『着替えるほどでもないと思ったの』
意味が違う。
美咲は分かっている。
「……そうですか」
『何?』
「何でもありません」
靴を履き、扉へ手を掛ける。
外へ出る前に、もう一度振り返った。
白嶺が彩華を抱いている。
会社では見られない姿だった。
「今日は、ありがとうございました」
『こちらこそ。焼き菓子、ありがとう』
「月曜日に、また」
『ええ』
扉が閉じた。
◇
廊下へ出た美咲は、しばらくその場から動けなかった。
顔が熱い。
胸もうるさい。
目を閉じると、白嶺の姿が浮かぶ。
薄いキャミソール。
覗いていたピンク色のレース。
無防備に伸びた脚。
白い髪が、肩から胸元へ滑り落ちる瞬間。
思い出してはいけない気がする。
会社の先輩を、そのような目で見てはいけない。
そう思うほど、細部まではっきり浮かんだ。
「佐藤さんだから」
白嶺の言葉が、頭の中で繰り返される。
そのあとに続いた意味も覚えている。
着替えるほどではないと思った。
特別な意味などない。
それでも、最初の言葉だけを切り離してしまいたくなる。
美咲は胸元を押さえ、階段を下りた。
彩華という娘がいること。
白嶺が離婚していること。
一人で子供を育てていること。
今日知ったことは、それだけではない。
会社で見上げていた完璧な人にも、無防備な時間がある。
その時間の中へ、ほんの少しだけ自分を入れてもらえた。
美咲には、それが何より嬉しかった。
◇
部屋へ戻った白嶺は、彩華をベビーベッドへ寝かせた。
美咲から受け取った焼き菓子を一つ開ける。
コーヒーを淹れ、ソファへ座った。
『おいしいわね』
眠りかけている彩華へ言う。
返事はない。
白嶺は焼き菓子をもう一口食べた。
美咲が何度も視線を逸らしていた理由は、最後までよく分からなかった。
家にいるときの格好を見られただけだ。
白嶺にとっては、普段どおりだった。
それよりも気になっていることがある。
家族について尋ねられたとき、自分の意識が一瞬だけ過去へ向いた。
白い髪をした母。
虹結家。
そして、商店街の屋上に立っていた黒い影。
白嶺はコーヒーを飲む。
今は考えないことにした。
今日は、色霊の気配もない。
彩華は眠っている。
美咲が持ってきた焼き菓子もある。
静かな休日だった。
白嶺はソファの上に残っていた洗濯物を足で少しだけ端へ寄せ、背もたれへ身体を預けた。
会社で見せる姿とはほど遠い。
そのことを気にする者は、もう部屋にいなかった。




