13話「家紋の封書」
日曜日の朝。
白嶺は彩華を抱いたまま、アパートの郵便受けを開けた。
入っていたのは、宅配業者の広告と水道工事の案内。それから、一通の白い封書だった。
切手がない。
消印もない。
誰かが、この郵便受けへ直接入れたものだった。
表には、宛名が一つだけ書かれている。
虹結白嶺。
白嶺の腕の中で、彩華が封書へ手を伸ばした。
『触らないで』
「あぅ」
白嶺は封書を遠ざける。
裏返すと、封じ目に家紋が押されていた。
円を描く七色の線。
その中央を貫く、一本の白い刀。
虹結家の家紋だった。
『随分と懐かしいものを持ってきたわね』
彩華は意味も分からず、黄色い鳥を振った。
鈴の音が、静かな廊下へ響く。
白嶺は周囲を見る。
階段にも、アパートの前にも人影はない。
気配も残っていなかった。
封書を入れた者は、白嶺が気づくより前に立ち去っている。
白嶺は広告と案内を郵便受けへ戻し、封書だけを持って部屋へ入った。
◇
彩華を床へ座らせる。
黄色い鳥を渡すと、しばらくは一人で遊び始めた。
白嶺はテーブルの前へ座り、封書を置いた。
開けなくても、内容は想像できる。
宿彩を返せ。
家へ戻れ。
彩華を差し出せ。
そのどれか。あるいは、すべてだった。
封を切る。
中には、厚い和紙が一枚だけ入っていた。
中央に、短い文章が記されている。
――宿彩を携え、御子とともに帰参せよ。
差出人の名はない。
期限も、理由も書かれていない。
命令だけだった。
『変わらないわね』
白嶺は和紙をテーブルへ置いた。
虹結家は、十二の色霊を封じるために続いてきた一族だった。
公に名を知られているわけではない。
国や組織に認められた存在でもない。
それでも長い年月をかけ、色霊の存在と封印の方法を受け継いできた。
十二の色を宿す器。
色を斬るための剣技。
封印に用いる三振りの刀。
虹結家は、それらを守ることを自らの役目としている。
本家は器と刀を管理し、封印を継承する。
その本家を支えるため、いくつもの分家が存在した。
分家の人間は、幼い頃から本家へ仕えるよう教えられる。
命令へ疑問を持つことも、役目を拒むことも許されない。
家にとって、個人の意志は重要ではなかった。
器も、刀も、そこへ生まれた人間も、すべてが封印を続けるためのものだった。
白嶺も、かつてはその中にいた。
虹結家の長女。
十二色を宿す器。
いずれ家の中心に据えられ、役目を果たすことを当然とされた人間。
だが、今は違う。
白嶺は加藤という姓で暮らしている。
会社へ行き、主任として働き、保育園へ彩華を迎えに行く。
家の許可を得ずに産んだ娘と、二人で暮らしている。
虹結家を捨てた人間だった。
「あー」
彩華が声を上げる。
黄色い鳥が、白嶺の足元へ転がってきた。
白嶺は拾い上げ、彩華へ返す。
『これは、あなたのものね』
「あぅ」
『宿彩も、返す気はないけれど』
彩華が鳥を振る。
白嶺は封書へ目を戻した。
御子。
名前さえ書いていない。
家は彩華を一人の人間として見ていない。
虹結の血を引く、白嶺の娘。
それだけで、家へ連れ戻す理由になる。
白嶺は和紙と封筒を持ち、台所へ向かった。
灰皿代わりの金属容器へ入れる。
角へ火をつけると、紙は静かに燃え始めた。
最初に消えたのは、家紋だった。
続いて、宿彩という文字が黒く崩れる。
最後に、御子の二文字が灰になった。
『刀も、娘も、返すつもりはないわ』
炎へ告げる。
返事はない。
虹結家にとって、あの封書は交渉ではない。
従うことを前提とした命令だった。
白嶺が拒否したなら、次は紙では済まない。
家の人間が来る。
おそらく、分家から。
命令へ従い、宿彩と彩華を回収するために育てられた誰かが。
白嶺の脳裏に、商店街の屋上で見た黒い影が浮かんだ。
腰に刀を帯びた人影。
あれが封書を届けた者かどうかは分からない。
だが、無関係とは思えなかった。
紙がすべて灰になる。
白嶺は火が消えたことを確かめ、金属容器へ水を注いだ。
◇
月曜日。
白嶺は普段と同じ時刻に出勤した。
営業企画部へ入り、挨拶を返す。
席へ向かう途中、美咲と目が合った。
「お、おはようございます」
『おはよう、佐藤さん』
美咲の返事が、わずかに上ずっている。
白嶺は特に気にせず、自分の席へ着いた。
美咲は画面へ視線を戻した。
今日は白嶺も、いつもの格好だった。
白いブラウス。
黒いスラックス。
長い白髪は後ろで一つにまとめられている。
肌の露出もない。
会社で見慣れている姿のはずだった。
それでも美咲の頭には、土曜日の白嶺が浮かんでくる。
薄いグレーのキャミソール。
肩から落ちた白い髪。
覗いていたピンクのレース。
無防備に伸びていた長い脚。
思い出した途端、顔が熱くなる。
美咲は慌てて資料を開いた。
「佐藤さん」
再び名前を呼ばれた。
「はいっ」
立ち上がる。
白嶺が手元の予定表を見ている。
『十時からの打ち合わせで使う資料は?』
「準備できています」
『では、始まる前に会議室へ運んで。投影する画面も確認しておいて』
「分かりました」
美咲は資料を抱え、会議室へ向かった。
白嶺の態度は何も変わらない。
家へ招いたことも、彩華を会わせたことも、特別な意味として扱っていない。
美咲にも、それは分かっていた。
それでも、自分だけが白嶺の別の姿を知っている。
その事実は消えなかった。
◇
午前十時。
打ち合わせが始まった。
白嶺は進行を務めながら、各担当者の報告を順番に確認する。
先週変更した展示台の搬入も、予定どおり完了している。
店舗から届いた写真を画面へ映し、改善するべき箇所を指示する。
『入口側の商品が、想定より目立っていないわね』
「照明の位置を変えますか?」
『それだけでは足りない。奥の商品と高さが揃いすぎているから、手前を一段上げて』
「分かりました」
『変更後の写真を、今日中に共有してください』
必要な指示を出し、次の報告へ進む。
封書のことを考えている様子はない。
虹結家の人間が近くまで来ている可能性も。
彩華を連れ戻すよう命じられたことも。
そのすべてを、白嶺は会社の外へ置いてきた。
今は仕事の時間だった。
打ち合わせは予定どおりに終わった。
美咲が議事録を確認し、白嶺へ渡す。
「こちらで大丈夫でしょうか」
白嶺は目を通す。
『一か所だけ、決定事項と検討事項が混ざっている。分けて書いて』
「はい」
『それ以外は問題ないわ』
「ありがとうございます」
美咲は資料を受け取る。
その場を離れる直前、白嶺が付け加えた。
『焼き菓子、おいしかったわ』
美咲の足が止まった。
「本当ですか?」
『ええ。ありがとう』
「いえ。こちらこそ、土曜日はありがとうございました」
『何もしていないでしょう』
「お邪魔させていただきましたから」
『そう』
白嶺はすでに次の資料へ目を落としている。
美咲は少しだけ残念に思いながら、自分の席へ戻った。
それでも、焼き菓子を食べてもらえた。
そのことだけで口元が緩みそうになる。
美咲は誰にも見られないよう、画面へ顔を向けた。
◇
午後の会議中、白嶺は足元に違和感を覚えた。
靴の裏へ、湿った土が貼りついているような感覚だった。
雨は降っていない。
会社へ入ってから、土の上を歩いた記憶もない。
白嶺は表情を変えず、発言者の説明を聞いた。
足首が重い。
床の下から何かが伸び、椅子へ縛りつけようとしている。
立たなくていい。
ここへ座っていればいい。
そのまま身体を預け、すべてを手放せばいい。
低く、穏やかな誘いだった。
アケバミの赤ほど激しくない。
ダツヨウの橙のように、幸福な記憶を見せることもない。
もっと単純な安息。
疲れているなら、もう立たなくていい。
何も背負わず、土へ横たわればいい。
「加藤さん」
部長に呼ばれる。
白嶺は顔を上げた。
『はい』
「この日程で、営業企画部の調整は可能ですか」
渡された資料へ目を通す。
足元の重さを感じながら、必要な人員と日数を計算する。
『可能です。ただし、二日目の確認作業を午前へ移してください。午後ですと、修正が発生した場合に対応できません』
「では、その形で組み直そう」
『承知しました』
会議はそのまま進んだ。
白嶺の声にも、姿勢にも乱れはない。
誰も、白嶺の足元にまとわりつく土の感触へ気づかなかった。
◇
退勤後、白嶺は保育園へ彩華を迎えに行った。
抱き上げると、彩華はいつものように白い髪へ手を伸ばした。
『今日は少し待って』
「あぅ」
『鞄を持ち直すから』
彩華を片腕で支え、保育園の荷物を肩へ掛ける。
その間も、足元の重さは消えていない。
土の匂いは、会社にいたときよりも濃くなっている。
帰り道の途中、公園の前を通った。
ベンチの近くに、一人の男性が座り込んでいる。
三十代ほど。
スーツの膝と両手が、土で汚れていた。
転んだだけには見えない。
男性の足元だけ、舗装された地面が褐色に変わっている。
「もう、いいんです」
男性が呟いた。
「立たなくても。帰らなくても。ここなら、何もしなくていいから」
声は穏やかだった。
苦しんでいるようには聞こえない。
むしろ、ようやく休める場所を見つけた者の声だった。
白嶺は男性へ近づかなかった。
今は彩華を抱いている。
宿彩も持っていない。
男性の足元から、細い褐色の筋が地面の下へ伸びている。
土の匂いは、その先から流れてきていた。
次の色霊が動き始めている。
白嶺は筋が伸びる方向を確かめ、彩華を抱き直した。
『帰りましょう』
「あー」
先に彩華を家へ連れて帰る。
食事をさせ、風呂へ入れ、眠らせる。
そのあと、宿彩を持って戻る。
いつもと同じ順番だった。
公園を離れる直前、白嶺はもう一度だけ男性を見た。
男性の身体は、足先から少しずつ土へ沈み始めていた。
その背後にある暗がりで、何かが動いたように見えた。
黒い影。
刀を帯びた人間。
白嶺が視線を向けるより早く、影は木々の奥へ消えた。
色霊と、虹結家。
二つの気配が、同じ場所へ集まり始めていた。




