14話「先に来たもの」
彩華が眠るまで、いつもより時間がかかった。
ミルクを飲み終えても、白嶺の指を離さない。
目を閉じたと思えば、白嶺が身体を離した途端に薄く開く。
『今日は随分と疑い深いわね』
「あぅ……」
『どこにも行かない顔をしているつもりなのだけれど』
嘘だった。
黒い着物には、すでに着替えている。
壁には宿彩を立てかけていた。
彩華を眠らせたあと、公園へ戻るつもりだった。
地面へ沈みかけていた男性が、今も無事でいるとは限らない。
クチツチが次の人間を見つければ、被害はさらに増える。
褐色の気配は、窓を閉めた部屋にまで入り込んでいた。
足元が重い。
立たなくていい。
出ていかなくてもいい。
今夜くらい、彩華の隣で眠ればいい。
低い声が、白嶺の身体を床へ縫い止めようとしている。
『残念ね』
白嶺は彩華の背中を叩きながら呟いた。
『今は休めないの』
やがて、彩華の呼吸が整った。
指を握る力も少しずつ緩んでいく。
白嶺はゆっくり手を抜き、黄色い鳥の玩具を代わりに握らせた。
小さな鈴が鳴る。
彩華は目を覚まさなかった。
白嶺は立ち上がり、宿彩を帯へ差した。
ベビーベッドを振り返る。
眠る娘を一人で残すことが、危険だと分かっている。
まして今夜は、虹結家の人間が近くまで来ている。
家を空けた隙に狙われる可能性もある。
それでも、クチツチを放置することはできない。
白嶺には二つの場所を同時に守ることができなかった。
『すぐに戻るわ』
彩華へ言い残し、部屋を出た。
鍵を掛ける。
この薄い扉一枚に娘を残し、白嶺は夜の階段を下りた。
◇
褐色の気配は、公園から住宅街の外れへ移動していた。
白嶺は土の匂いを追って歩く。
途中、公園の前を通った。
先ほどの男性はもういない。
座り込んでいた場所には、人の身体が収まるほどの窪みだけが残されていた。
周囲の土は湿っている。
男性の足跡は、窪みから先へ続いていなかった。
『遅かったかしら』
白嶺は窪みへ触れなかった。
地面の下から、まだ人間の気配がする。
完全に土へ変えられたわけではない。
クチツチの中へ取り込まれ、どこかへ運ばれている。
今なら、まだ救える。
白嶺は歩調を速めた。
住宅街を抜ける。
空き地と古い倉庫が並ぶ、人通りの少ない区域へ入った。
土の匂いが濃くなる。
同時に、別の気配が混じった。
刃の気配だった。
宿彩とは違う。
明るく、鋭く、迷いなく前へ伸びる光。
白嶺は足を止めた。
倉庫の壁と電柱の間。
街灯の届かない場所から、一人の女が歩み出る。
黒い装束。
後ろで一つに結んだ長い黒髪。
背丈は白嶺より低い。
腰には、一振りの刀を帯びている。
かつてより顔つきは鋭くなっていた。
それでも、見間違えるはずはなかった。
商店街の屋上から白嶺を見ていた影。
封書が届く前から、何度も気配だけを残していた人間。
女は白嶺の正面まで歩き、足を止めた。
静かに頭を下げる。
「お久しぶりです。白嶺様」
整った、丁寧な声だった。
白嶺は女の顔を見る。
『……無月』
「覚えておられましたか」
『忘れるほど昔ではないでしょう』
無月は顔を上げた。
表情には何も浮かんでいない。
だが、白嶺を見る目だけには、冷たいものが宿っている。
「虹結家からの通告は、御覧になりましたか」
『燃やしたわ』
「そうですか」
無月の声は変わらなかった。
「では、御返答を頂いたものと判断します」
『律儀ね。わざわざ確認しに来たの?』
「いいえ」
無月の右手が、刀の柄へ触れる。
「宿彩の返却と、あなたの命をいただきに来ました」
白嶺は無月の腰にある刀へ目を向けた。
耀彩。
虹結家に伝わる三振りの一つ。
三振りの中では最も軽く、使い手を選ばない。抜きやすく、刃筋も素直で、どのような体格の剣士にも応える刀だった。
かつての無月は、あの刀を持っていなかった。
『随分といいものを預けてもらったのね』
「余裕がおありですか」
『感想を言っただけよ』
「その余裕が、いつまで続くか確かめましょう」
無月が耀彩を抜く。
刀身へ淡い虹色が走った。
白嶺も宿彩へ手を掛ける。
『あたしは今、急いでいるのだけれど』
「私には関係ありません」
『近くに色霊がいる』
「承知しています」
『なら、先にそっちを――』
「あなたを斬ることが、私の使命です」
無月の言葉に迷いはない。
「色霊への対処は、その後に行います」
『間に合わない人間がいるわ』
「虹結家へ背いた人間が、今さら役目を語るのですか」
無月の声から、初めて冷静さとは違うものが滲んだ。
「器として家へ従うことを拒み、家を捨て、宿彩を持ち出したあなたが」
白嶺は答えなかった。
虹結家を出たのは、自分の人生を家へ差し出し続けることを拒んだからだった。
何を感じるか。
誰を愛するか。
どこで生きるか。
やがて生まれる子供を、誰のために育てるか。
そのすべてを家に決めさせるつもりはなかった。
白嶺は、自分の人生と娘を虹結家の役目から切り離すため、最も手に馴染んでいた宿彩を持って家を出た。
その選択を後悔してはいない。
だが、白嶺が家を出たことで、残された人間がいる。
目の前の無月も、その一人だった。
『退いて、無月』
「お断りします」
『色霊を封じたあとなら、相手をしてあげる』
「また、あとですか」
無月の声が低くなる。
『何?』
「昔から、あなたはそうだった」
丁寧な言葉遣いが、わずかに崩れる。
「稽古も、話も、すべてあとで。私が追いつくより先に、あなたは次へ進んだ」
『今、その話をするの?』
「あなたが始めたのでしょう」
『始めた覚えはないわ』
「そうでしょうね」
無月は耀彩を正眼に構えた。
「置いていった側は、何も覚えていない」
空気が張り詰める。
遠くから、土が崩れる音が聞こえた。
クチツチが動いている。
白嶺は宿彩の鯉口を切った。
白い髪が揺れる。
背中を越え、腰を越え、膝へ届くまで伸びていく。一部の房へ、封じた赤、橙、黄色と、元から宿る虹色が走った。
白嶺は髪を頭の横で大きく結い上げる。
宿彩を抜く。
長い刀身が、夜の中へ現れた。
『時間を掛けるつもりはないわ』
「同感です」
無月が地面を蹴った。
◇
最初の一撃は、白嶺の左肩を狙っていた。
耀彩の刃が最短の軌道で伸びる。
速い。
白嶺は半歩だけ右へ動き、宿彩の鍔元で受け流した。
金属音が短く響く。
無月は弾かれた力へ逆らわない。
身体を回し、そのまま二撃目を白嶺の脇腹へ走らせる。
白嶺は宿彩の長い柄を引き、刀身の中央で受けた。
刃が擦れ、火花が散る。
無月はすぐに間合いを外した。
以前の無月なら、二撃目のあとに踏み込みが止まっていた。
今は違う。
耀彩の軽さを活かし、攻撃と後退を一つの動作にしている。
『強くなったわね、無月。気配で分かる』
無月の眉が動いた。
「黙れ」
先ほどまでの敬語が消える。
「いつまでも自分が上だと思うな。殺す」
無月が再び踏み込む。
今度は正面からではない。
白嶺の右側へ回り込み、宿彩の長い刀身が追いつく前に懐へ入ろうとする。
白嶺は切っ先で追わなかった。
長い柄を動かし、石突に近い部分で無月の手首を打つ。
耀彩の軌道が僅かに逸れた。
白嶺の頬を、風だけが通り過ぎる。
『上だとは思っていないわ』
「なら、その余裕をやめろ!」
無月は手首を返し、耀彩を下から跳ね上げた。
白嶺は後ろへ下がる。
切っ先が黒い着物の袖を掠めた。
「家を捨てた人間が、なぜ宿彩を持っている」
『あたしが一番使いやすかったからよ』
「ふざけるな!」
無月が刃を振り下ろす。
白嶺は宿彩で受け、二本の刀が鍔元で噛み合った。
互いの顔が近づく。
「私たちは、その刀も、あなたも失った」
『私たち?』
白嶺は無月の目を見る。
『あなたは、何を失ったの』
「黙れ!」
無月が耀彩を引く。
続けて突き出された切っ先を、白嶺は身体を捻ってかわした。
宿彩の柄尻を無月の脇腹へ当てる。
無月の身体が揺れる。
それでも倒れず、横薙ぎの一撃を返した。
『無月』
「呼ぶな!」
『あたしの剣を追っていたでしょう』
「知ったような口を利くな!」
無月の刃が速さを増す。
肩。
首。
手首。
急所を狙う連撃だった。
白嶺は宿彩の長い刃を細かく動かし、すべて受け流す。
一歩も踏み込ませない。
無月の剣には、白嶺の癖が残っていた。
刃を返す角度。
踏み込みの前に左足へ重心を置く動き。
相手の視線ではなく、肩から次の攻撃を読むところ。
かつて白嶺の稽古を見続け、自分の剣へ取り込んだ痕跡だった。
『あなたの剣を知っているだけよ』
「何も言わずに私を置いていったくせに!」
無月の叫びが夜へ響いた。
その瞬間だけ、刃の軌道が大きくなる。
白嶺は踏み込まず、宿彩の切っ先で耀彩を外へ弾いた。
無月はすぐに体勢を戻す。
呼吸が荒くなっていた。
「私は分家の剣だ」
自分へ言い聞かせるように言う。
「本家の命令へ従い、裏切り者を斬る。そのためにここへ来た」
『それだけ?』
「それだけだ」
『それだけの人間なら、そんなに怒らないわ』
「黙れ!」
無月が深く踏み込んだ。
耀彩の切っ先が、一直線に白嶺の胸へ伸びる。
速く、迷いのない突きだった。
白嶺は宿彩を横へ寝かせる。
刃をぶつけるのではなく、耀彩の側面へ沿わせた。
無月の力を外へ流す。
突きが白嶺の身体を外れた。
無月の右側が開く。
白嶺は柄から片手を離し、その手で無月の手首を掴んだ。
身体を入れ替える。
無月の足が地面から浮いた。
次の瞬間、背中から地面へ落とされる。
「――っ」
息が詰まる。
それでも無月は耀彩を離さなかった。
白嶺が宿彩の峰を、無月の手首へ正確に打ち込む。
指が開く。
耀彩が地面へ落ちた。
澄んだ金属音が響く。
白嶺は宿彩の切っ先を、無月の喉元へ向けた。
『終わりよ』
無月は地面へ倒れたまま、白嶺を睨んでいる。
荒い息を繰り返す。
目には怒りが残っている。
その奥で、別の感情が揺れていた。
「……なぜですか」
無月の言葉が、再び丁寧なものへ戻る。
「白嶺様」
刺客として現れたときの声ではない。
怒りを隠すための敬語でもなかった。
かつて白嶺の背中を追っていた、年下の少女の声だった。
「あなたに憧れて、剣を振りました」
無月の手が、土のついた地面を掴む。
「追いつきたかった。隣に立ちたかった。いつか、あなたに認めてもらいたかった」
白嶺は宿彩を下ろさない。
「それなのに、なぜ何も言わずに旅立たれたのですか」
声が僅かに震える。
「なぜ、私を見捨てたのですか」
白嶺の目が揺れた。
無月を見捨てるために、家を出たわけではない。
あの場所へ残れば、自分は一生、虹結家の器として生きることになる。
やがて生まれる彩華も、家の都合で扱われる。
それを拒むには、何も告げずに消えるしかなかった。
誰か一人に話せば、その人間まで罪を問われる。
無月に伝えれば、彼女は家と白嶺の間で選ばされる。
だから置いていった。
それが無月を傷つけない方法だと、当時の白嶺は考えた。
『あたしは――』
地面が動いた。
◇
無月の背後で、土が大きく盛り上がった。
褐色の腕が地面を突き破る。
『無月!』
白嶺が宿彩を振る。
刃が土の腕を一本斬り落とした。
しかし、地面から伸びたものは一本ではない。
無月の両腕と胴へ、複数の土の手が絡みつく。
身体を地面へ引きずり込もうとする。
「な――」
無月が手を伸ばす。
耀彩は、僅かに離れた場所へ落ちている。
指が届かない。
白嶺が無月の腕を掴もうと踏み込む。
その足元まで、地面が崩れた。
深い穴が口を開ける。
穴ではない。
土で形作られた、巨大な口だった。
褐色の歯が並び、その奥には何人もの人間が眠るように埋まっている。
公園で沈んだ男性もいた。
苦しそうな顔はしていない。
誰もが穏やかに目を閉じている。
「もう、立たなくていい」
地面の底から、女の声が響く。
「疲れたでしょう。何も背負わなくていい。土の中なら、ずっと休める」
クチツチ。
人の疲労へ寄り添い、安息と引き換えに身体も意志も土へ沈める褐色の色霊。
無月の身体が、腰まで地面へ呑まれる。
「離せ!」
無月の口調が再び荒くなる。
土の腕へ拳を打ちつけるが、崩れた箇所から新しい土が集まり、すぐに形を戻す。
白嶺が宿彩を振り上げた。
無月を傷つけず、絡みついた腕だけを斬る。
狙いを定めた、その瞬間。
無月の身体が一気に沈んだ。
「白嶺様――」
最後に伸ばされた手が、土の中へ消える。
『無月!』
白嶺の刃が地面へ突き刺さった。
わずかに遅かった。
無月の姿はない。
残された耀彩だけが、褐色の土の上に横たわっている。
地面が大きく脈打った。
クチツチの本体が、土の中から持ち上がる。
巨大な女の上半身。
表面は幾重もの地層に覆われ、顔には閉じた目しかない。下半身は地面と一つになり、腹部には人間を収める複数の窪みが並んでいた。
その一つに、無月が取り込まれている。
目を閉じ、土へ沈みながらも、胸はまだ僅かに動いていた。
生きている。
「この子は、よく疲れている」
クチツチが無月の顔を撫でる。
「ずっと誰かを追って、置いていかれて、それでも走ることをやめられなかった」
『返しなさい』
「どうして?」
『その子は、まだ休む場所を選んでいない』
「選ばなくていい」
クチツチの閉じた目が、ゆっくりと開いた。
瞳の奥には、底のない穴がある。
「選ぶことにも、疲れているから」
白嶺は宿彩を構え直した。
クチツチの腹部には、無月だけではなく、何人もの人間が取り込まれている。
一人も傷つけず、色霊だけを斬らなければならない。
無月の気配は、すでに土の奥へ沈み始めていた。
時間はない。
自分を殺しに来た刺客であっても、置いて帰るという選択はなかった。
『待っていなさい、無月』
返事はない。
白嶺は一歩、褐色の領域へ踏み込んだ。




