15話「土と光」
白嶺が踏み込むと、地面が足首まで沈んだ。
土は柔らかい。
それでも、泥とは違う。
足を包み、引き留めるように形を変えていく。
「急がなくていい」
クチツチの声が響く。
「もう、立たなくていいの」
白嶺は宿彩を横へ振った。
長い刀身が足元を薙ぎ、まとわりついた土だけを切り離す。
右足を引き抜く。
すぐに左足の下から、新たな腕が伸びた。
白嶺はその手首を斬る。
褐色の腕は地面へ落ちると、形を失って土へ戻った。
「疲れているでしょう?」
クチツチの巨大な顔が、白嶺を見下ろす。
開いた瞳の奥には、暗い穴がある。
「ずっと働いている」
地面から、いくつもの腕が生える。
「朝から夜まで。会社でも、家でも」
白嶺は宿彩を構えた。
「誰かを守って、誰かのために立っている」
土の腕が一斉に伸びる。
「あなたが倒れたとき、誰が支えてくれるの?」
『随分とよく喋る土ね』
宿彩が弧を描いた。
一振りで、正面から迫る腕がまとめて断たれる。
「休ませてあげる」
『間に合っているわ』
「嘘」
クチツチの腹部で、無月の身体がさらに沈んだ。
胸元まで土に覆われている。
その隣には、公園で見た男性が取り込まれていた。
ほかにも三人。
いずれも目を閉じ、眠るような顔をしている。
苦しんではいない。
だからこそ、自分から出ようとしない。
◇
無月は、暗い場所に立っていた。
身体が軽い。
痛みもない。
耀彩を握っていた感触だけが、右手に残っている。
目の前には、虹結家の稽古場があった。
幼い頃から、何度も立った場所。
板張りの床。
壁に並ぶ木刀。
開け放たれた戸の向こうから差し込む、朝の光。
稽古場の中央に、白嶺が立っている。
今より少し若い。
白い髪を結び、片手に木刀を持っていた。
『無月』
呼ばれる。
胸の奥が震えた。
『今日はここまでにしましょう』
「まだできます」
『十分よ。よく頑張ったわね』
白嶺が手を伸ばす。
幼い無月の頭を撫でる。
それだけで、身体から力が抜けた。
『もう追わなくていい』
優しい声だった。
『あたしに追いつかなくてもいい。剣を振らなくてもいい。誰かの命令に従わなくてもいい』
「でも、私は……」
『疲れたでしょう』
白嶺の手が、無月の髪を撫で続ける。
『休んでいいのよ』
無月は目を閉じかけた。
この言葉を、ずっと待っていたような気がする。
白嶺に認めてほしかった。
置いていかれたくなかった。
隣へ立てないのなら、せめて追うことを許してほしかった。
だが、今はもう追わなくていいと言われている。
剣を置いてもいい。
使命も、家も、すべて忘れていい。
「……白嶺様」
『何?』
「あなたは、そんなことを言わない」
白嶺の手が止まった。
無月は目を開ける。
「私が疲れていても、剣を振れなくても、あなたは勝手に休めとは言わない」
『どうして?』
「選ぶのは私だからです」
目の前の白嶺へ手を伸ばす。
その肩を突き放した。
稽古場の床へ亀裂が走る。
『ここにいれば、楽なのに』
白嶺の顔が褐色に崩れた。
稽古場も、朝の光も、湿った土へ変わっていく。
「偽物が、あの人の顔を使うな」
無月の足元が沈む。
身体はまだ動かない。
それでも意識だけは、暗い土の中から浮かび上がろうとしていた。
◇
クチツチの腹部で、無月の指が動いた。
白嶺は見逃さなかった。
まだ意識が残っている。
『随分と強情な子を食べたわね』
「すぐに眠る」
『無理だと思うわ』
白嶺はクチツチの腹部を見る。
取り込まれた人間を中心に、褐色の層が幾重にも重なっていた。
正面から核を斬れば、中にいる者まで巻き込む。
だが、それぞれの身体から土の奥へ伸びる細い筋がある。
人間の疲労とクチツチを繋ぐ根。
それが、眠りを見せながら身体を土へ変えている。
白嶺は宿彩を右側へ引いた。
クチツチとの距離は、まだ遠い。
普通の刀では届かない。
宿彩なら届く。
長い刀身の切っ先を、最も近くに取り込まれた男性へ向ける。
「その人を斬るの?」
『あなたとの繋がりだけをね』
白嶺が踏み込んだ。
切っ先が、男性の胸元を掠める。
衣服には触れていない。
斬ったのは、身体の奥から伸びていた褐色の筋だった。
一本目。
男性を包んでいた土が崩れる。
身体が地面へ落ちた。
クチツチの腕が白嶺へ迫る。
白嶺は宿彩を返し、二本の腕をまとめて薙ぎ払う。
その勢いを止めないまま、二人目へ刃を走らせた。
二本目。
三本目。
土の筋が切れるたび、取り込まれた人間が一人ずつ外へ落ちていく。
「返して」
クチツチの声から、穏やかさが消えた。
「その人たちは、休みたいの」
『起きてから本人に聞きなさい』
地面が隆起する。
褐色の壁が、白嶺とクチツチの間に立ち上がった。
白嶺は足を止めない。
宿彩を両手で握り、斜めに振り下ろす。
長い刃が土壁へ深く入り、そのまま一息に切り開いた。
崩れた壁の向こうに、無月がいる。
首元まで土へ沈んでいた。
無月から伸びる筋は、ほかの人間よりも太い。
疲労だけではない。
置いていかれた痛み。
使命を果たせなかった恐怖。
戻る場所を失う不安。
それらが複雑に絡まり、一本の根になっている。
「この子は、休みたがっている」
クチツチが無月の頭へ手を置いた。
「もう追わなくていいと言ってほしかった」
『そうかもしれないわね』
「なら、渡さない」
『でも、あなたに言われたいわけではない』
白嶺が間合いへ入る。
クチツチの腕が、無月の身体を覆おうとする。
宿彩の刃が先に届いた。
無月とクチツチを結ぶ太い根が断たれる。
土の層が崩れた。
無月の身体が前へ倒れる。
白嶺は片腕で受け止め、そのまま地面へ横たえた。
呼吸はある。
身体も、まだ土へ変わっていない。
『少し待っていなさい』
無月から返事はない。
白嶺はクチツチへ向き直った。
腹部からすべての人間が失われたことで、異形の中心が露出している。
地層の奥に、褐色の核があった。
乾いた土を丸めたような、ひび割れた塊。
「どうして起こすの?」
クチツチが尋ねる。
「起きれば、また苦しいだけなのに」
『そうね』
白嶺は否定しなかった。
『それでも、眠り続けるかどうかを決めるのは、あなたではないわ』
地面から最後の腕が伸びる。
これまでより太く、大きい。
白嶺の全身を掴めるほどの手だった。
白嶺は宿彩を鞘へ納めた。
腰を落とす。
右手を柄へ添える。
巨大な手が頭上から落ちてくる。
白嶺は、その下へ踏み込んだ。
【虹結封彩流 花無垢】
抜き放たれた刃が、白い花を描いた。
巨大な手が中央から裂ける。
白い剣閃はその奥へ進み、露出した褐色の核を正確に断った。
クチツチの身体へ亀裂が走る。
「休まなくて、いいの?」
『休むわよ』
白嶺は宿彩を振り抜いた姿勢から、静かに身体を起こす。
『帰って、娘の顔を見てからね』
核が崩れた。
巨大な異形が、乾いた土となって地面へ落ちていく。
風が吹く。
土の粒が褐色の光へ変わり、宿彩へ吸い寄せられた。
赤。
橙。
黄色。
その奥へ、新たな褐色が封じられる。
四つ目の色だった。
◇
宿彩を通り、クチツチの安息が白嶺へ流れ込んだ。
膝から力が抜ける。
白嶺は宿彩を地面へ突き立て、身体を支えた。
もう立たなくていい。
人を助ける必要もない。
無月を気にする必要もない。
彩華の待つ家へ帰らなくてもいい。
ここへ横になれば、すべて終わる。
土は温かい。
疲れも、責任も、選ばなければならない苦しさも、すべて受け入れてくれる。
心地よかった。
ダツヨウの見せた幸福とは違う。
何も望まなくていいという、深い安堵だった。
白嶺の膝が地面へ触れる。
視線の先に、無月が倒れている。
その向こうには、クチツチから解放された人々がいる。
誰も起き上がっていない。
自分も眠ってしまえばいい。
その考えが、白嶺自身のもののように馴染んでいく。
白嶺は目を閉じかけた。
家に、彩華がいる。
一人で眠っている。
泣いているかもしれない。
白嶺を待っているかもしれない。
『……帰るわよ』
宿彩の柄を握る。
腕へ力を入れ、立ち上がった。
褐色は、立つ必要などないと囁き続けている。
白嶺は無視した。
眠る人々の呼吸を確認する。
全員、生きている。
携帯電話で救急へ通報し、人数と場所を伝えた。
その間に、背後で土を踏む音がした。
振り返る。
無月が、ゆっくりと身体を起こしていた。
◇
「……クチツチは」
『封じたわ』
無月は周囲を見る。
倒れている人々。
褐色の光が消えた地面。
そして、白嶺の手にある宿彩。
状況を理解するまで、時間はかからなかった。
「私を、助けたのですか」
『結果としては、そうなるわね』
「なぜ」
『聞きたいことが残っていたから』
無月の目が僅かに揺れる。
白嶺は地面に落ちていた耀彩を拾った。
鞘も近くにある。
刃を納め、無月の前へ置く。
『持っていきなさい』
「……私に返すのですか」
『あなたの刀でしょう』
「私は、その刀であなたを殺そうとした」
『失敗したわね』
無月の唇が強く結ばれる。
白嶺は宿彩を帯へ戻した。
髪から虹色が消え、膝まで伸びていた白髪も元の長さへ戻っていく。
救急車の音が、遠くから近づいている。
『あたしは帰る』
「待ってください」
白嶺は足を止めた。
「先ほどの答えを、まだ聞いていません」
なぜ、置いていったのか。
なぜ、何も言わずに家を出たのか。
白嶺は無月へ背を向けたまま答えた。
『今は、娘を一人で待たせている』
無月が黙る。
『あなたの問いに答えるより、早く帰らないといけない』
「……そうですか」
『それが、あたしが家を出た理由の一部でもあるわ』
白嶺はそれ以上説明しなかった。
今、この場所で話すことではない。
無月も追ってこなかった。
白嶺は歩き出す。
褐色の安息が、足を止めようとする。
それでも、一歩ずつ家へ向かった。
◇
白嶺の姿が見えなくなってから、無月は耀彩を手に取った。
家の命令を果たせなかった。
宿彩を回収できず、白嶺を殺すこともできなかった。
色霊に飲み込まれ、標的だった白嶺に救われた。
失敗では済まない。
虹結家へ戻れば、処分される。
分家の長女として本家へ仕えながら、与えられた使命さえ果たせなかった人間に、次の役目はない。
無月は耀彩を抱えたまま立ち上がった。
救急車が近づいてくる。
ここへ残ることもできない。
家へ帰ることもできない。
白嶺を追う資格もない。
行くべき場所が、どこにもなかった。
「……白嶺様」
小さく呼ぶ。
返事はない。
無月は夜の中へ歩き出した。
その背中に、家の命令も、帰る場所も残されていなかった。




