16話「損得」
朝、目を覚ました瞬間、白嶺は自分が床で眠っていたことに気づいた。
着物を脱ぎ、彩華の無事を確かめたところまでは覚えている。
その後、身体を横にしたつもりはなかった。
壁へ背を預け、少し休もうとしただけだった。
クチツチから流れ込んだ安息への欲求が、白嶺の意識を奪ったのだ。
『……油断したわね』
身体を起こす。
床に触れていた背中が、離れることを嫌がった。
もう少し休め。
急いで立つ必要などない。
今日は会社へ行かなくてもいい。
柔らかな誘惑が、土の中から染み出すように全身へ広がる。
白嶺は膝へ力を入れ、立ち上がった。
『生憎、休んでいる暇はないの』
隣の部屋へ向かう。
ベビーベッドの中で、彩華は黄色い鳥を抱いて眠っていた。
呼吸を確かめる。
昨夜も、何事も起きなかった。
何事も起きなかったからよかった。
それだけだった。
白嶺が戻る前に彩華が目を覚ましていたかもしれない。
泣いていたかもしれない。
色霊ではなく、別の事故が起きた可能性もある。
その危険を、白嶺自身が最もよく分かっていた。
それでも、ほかに方法がなかった。
色霊を放置すれば、犠牲者は増える。
今、色霊を斬れる者は白嶺以外いない。
だから、そのたびに彩華を残して出ていく。
無事であることを祈りながら。
危険だと分かっていながら。
『……最低ね、あたし』
小さく呟く。
彩華が瞼を動かした。
「あぅ」
『起こした?』
白嶺の顔を見つけると、彩華は黄色い鳥を握ったまま両手を伸ばした。
抱き上げる。
胸の奥で、赤がざわめく。
もっと強く。
自分だけを求めるように。
同時に、褐色の安息が囁いた。
このまま何もせず、抱いて眠ればいい。
白嶺はどちらにも従わなかった。
『おはよう、彩華』
「あー」
『今日も保育園よ』
「うー」
『あたしも会社。残念だったわね』
彩華が不満そうな声を出す。
白嶺はその頬へ、自分の頬を軽く触れさせた。
◇
定刻より少し早く、白嶺は会社へ到着した。
いつもと同じようにパソコンを立ち上げ、予定を確認する。
提出された資料へ目を通し、不足している情報を書き出す。
午前中の会議では、複数の意見を整理し、決定事項をまとめた。
午後には、進行の遅れていた案件について担当者から事情を聞き、期限に間に合わせるための手順を組み直した。
身体は重かった。
椅子へ座るたび、立ち上がる必要などないとクチツチの声が囁く。
書類から手を離せば、赤や橙や黄色が、心の隙間から浮かび上がろうとする。
白嶺はそのすべてを沈めた。
声の調子も。
歩く速さも。
判断の正確さも。
いつもと変えなかった。
営業企画部主任、加藤白嶺。
会社にいる間、彼女はそれ以外の何者にもならない。
「加藤さん、こちらの確認をお願いします」
『置いておいて。十分後に見るわ』
「分かりました」
「先方から、日程変更の連絡が来ています」
『代替案を二つ作って送って。先方には一時間以内に返答すると伝えて』
「はい」
誰も、白嶺が昨夜刀を振るったことを知らない。
四体目の色霊を封じたことも。
殺しに来た女を救ったことも。
その女が今、帰る場所を失っていることも。
白嶺自身でさえ、考えないようにしていた。
無月へ耀彩を返した。
そこで関係は終わったはずだった。
殺せなかった刺客と、殺されなかった標的。
それ以上でも、それ以下でもない。
だが、白嶺は知っている。
任務に失敗した分家の者が、どのように扱われるか。
命令へ背いたわけではない。
それでも結果を出せなかった者に、虹結家は寛容ではない。
まして、回収すべき宿彩を持つ相手に敗れ、その相手に命を救われた。
無月が何もなかったように戻れるとは思えなかった。
「加藤さん」
自分を呼ぶ声で、白嶺は顔を上げた。
部長が資料を持って立っている。
『何でしょう』
「朝頼んだ数字、もう出た?」
『出ています。今、送ります』
白嶺は保存していた資料を添付し、送信する。
部長が自分の端末で確認した。
「早いね。助かるよ」
『これが仕事ですから』
白嶺は再び画面へ向かった。
無月のことを考えるのは、退勤してからでいい。
◇
保育園へ彩華を迎えに行き、自宅へ戻った。
夕食を済ませ、風呂へ入れる。
彩華が眠るまで待ってから、白嶺は宿彩を持った。
長い刀身が鞘の中で微かに鳴る。
『少しだけ出てくるわ』
眠る彩華へ告げる。
返事はない。
また一人にする。
胸の奥が重くなる。
それでも、白嶺は玄関を出た。
耀彩の気配は、まだ遠くへ離れていなかった。
三振りの刀は、互いの存在を微かに伝える。
宿彩ほど癖の強くない耀彩は、使い手の動きへ素直に馴染む。
昨夜の剣筋を思い出す。
無月は確かに強くなっていた。
あの刀を持たされたことにも、理由があるはずだった。
黒花が、何も考えずに耀彩を渡すはずがない。
白嶺は気配を追った。
◇
無月は、閉店した商店街の軒下に座っていた。
傍らには耀彩が置かれている。
装束は土に汚れたままだった。
夜の冷気が通り抜けても、動こうとしない。
行く場所がなかった。
虹結家へ帰れば、失敗を報告しなければならない。
白嶺を殺せなかった。
宿彩を取り戻せなかった。
それどころか色霊に呑まれ、討つべき相手に助けられた。
その事実を、どのような言葉で報告すればよいのか分からなかった。
命令を果たせなかったことが苦しかった。
幼い頃から教えられてきた。
本家へ尽くせ。
器を守れ。
家の命へ従え。
それが分家に生まれた者の役目だと。
無月はその教えを疑わなかった。
疑わないように生きてきた。
白嶺が虹結家を出ていくまでは。
自分には何も告げずに。
振り返りもせずに。
姿を消すまでは。
「……なぜ、私は」
呟いた声が途切れる。
昨夜の自分の言葉を思い出す。
黙れ。
殺す。
憧れていた相手へ向ける言葉ではなかった。
それでも、嘘ではなかった。
置いていかれた恨みも。
追いつきたかった気持ちも。
一度でいいから、自分を見てほしかったという願いも。
すべて本物だった。
白嶺を斬れば、迷いは消えると思っていた。
命令を果たせば、置いていかれた過去にも決着をつけられると思っていた。
結果は、白嶺へ刃を届かせることすらできなかった。
そのうえ、助けられた。
「私は、何をしに来たんだ……」
答える者はいない。
『暗いところが好きなの?』
聞き慣れた声がした。
無月は顔を上げた。
商店街の入口に、白嶺が立っている。
黒い着物ではない。
普段着の上へコートを羽織り、片手に宿彩を持っている。
白い髪は長く伸びておらず、虹色もない。
それでも、無月にはすぐに分かった。
「……何の御用ですか」
『あなたを捜しに来たの』
「私を?」
『そう』
「私を笑いに来たのですか」
『あたしがそんなに暇に見える?』
無月は立ち上がった。
耀彩へ手を伸ばす。
だが、柄を握る前に指が止まった。
白嶺へ斬りかかったところで、結果は分かっている。
昨夜の自分は全力だった。
それでも勝てなかった。
『抜かないの?』
「……今の私を斬る価値もないと?」
『面倒な受け取り方をするわね』
「面倒にしたのは、あなたです」
無月の口から、思っていた以上に強い声が出た。
「何も言わずにいなくなった。私は、あなたの背中を追っていた。いつか認めていただけると信じて、剣を振っていた」
白嶺は遮らなかった。
「それなのに、あなたは私を置いていった。家を捨て、名を捨て、すべてを捨てた。残された者がどう思うかなど、考えもしなかったのでしょう」
『考えなかったわ』
無月の目が揺れた。
否定してほしかった。
仕方がなかったと。
あなたまで捨てたわけではないと。
そう言ってほしかった。
『あのときのあたしには、自分が逃げることしか考えられなかった』
白嶺は続ける。
『あなたに何かを説明すれば、巻き込むことになる。そう思っていたのも事実よ。でも、それをあなたのためだったと言うつもりはないわ』
「ならば……」
『あなたが傷つくことより、あたしは自分が逃げることを選んだ。それだけ』
無月は唇を噛んだ。
綺麗な弁解ではなかった。
だからこそ、怒りを向ける先を失った。
「私は、ずっと……」
言葉が続かない。
白嶺を恨んでいた。
忘れられなかった。
殺すよう命じられたとき、迷いより先に、もう一度会えると思ってしまった。
その事実が何よりも惨めだった。
「昨夜、あなたを殺そうとしました」
『知っているわ』
「あなたへ、あのような言葉まで」
『それも聞いた』
「なら、なぜ助けたのですか」
『目の前で色霊に呑まれた人間を助けるのに、理由がいる?』
「私は、あなたの敵です」
『昨日まではね』
無月の眉が動く。
「何をおっしゃっているのですか」
『契約をしましょう、無月』
「契約?」
『あなたは家へ帰れない』
「帰れます」
『本当に?』
短い問いだった。
無月は答えられなかった。
『帰ったところで、任務失敗の責任を問われる。耀彩を取り上げられるだけなら、まだ軽い方でしょうね』
「それは私が受けるべき処罰です」
『死ぬことになっても?』
「命を果たせなかったのですから」
『それで納得している顔には見えないけれど』
「……黙ってください」
昨夜のような荒々しさはなかった。
声は弱く、苦しげだった。
「私は分家の人間です。家の命に従うために育てられました。それ以外の生き方など知りません」
『なら、今から覚えればいい』
「簡単に言わないでください!」
無月の声が、無人の商店街へ響いた。
「あなたは自分で家を出ることを選んだ。私は違う。私は失敗したのです。あなたを殺せず、色霊にも敗れ、助けられた。帰れないのではありません。帰る資格を失ったのです」
『同じことよ』
「違います」
『なら、その場で処罰を待つ?』
無月は黙った。
白嶺は一歩近づいた。
『あたしは、あなたを慰めに来たわけではない。可哀想だから拾ってあげるつもりもないわ』
「では、何を」
『あたしには、あなたを置いておく利益がある』
無月が警戒するように白嶺を見た。
『あたしには娘がいる』
「御子のことですか」
『ええ。まだ一人では何もできない』
白嶺は一度、言葉を切った。
口にするだけで、昨夜の光景が蘇った。
眠る彩華を残して玄関を出たこと。
戻るまで、無事を確かめる術さえなかったこと。
『色霊が現れるのは夜が多い。そのたびに、あたしは娘を家へ残して出ている』
無月の表情が変わった。
「お一人で、ですか」
『ほかにいないもの』
「それは……危険です」
『分かっているわ』
「分かっていて、置いていくのですか」
『だから、あなたが必要なの』
無月は息を止めた。
『あたしが色霊を斬りに行く間、娘を守ってほしい。虹結家が手を出してきた場合にも、あなたなら対処できる』
「私に……御子を?」
『任せるわ』
「私は昨夜、あなたを殺そうとした人間です」
『娘へ刃を向ける?』
「そのようなことはしません!」
返事は迷いなく出た。
白嶺がわずかに目を細める。
『なら、問題ないわね』
「問題しかありません」
『あなたには帰る場所がない。あたしには、娘を守る者がいない。お互い、必要なものを補える』
「私を利用するおつもりですか」
『ええ』
白嶺はためらわずに答えた。
『あなたも、あたしを利用すればいい。身を隠す場所と食事は用意する。家へ戻らずに済む時間も与える。その間に、これからどうするか考えなさい』
「私が再び、あなたの命を狙わないとでも?」
『狙いたければ狙えばいいわ』
無月が睨む。
『ただし、娘の前では駄目。部屋を汚されるのも困る。あと、夜中は近所迷惑になるから静かにして』
「ふざけているのですか」
『大真面目よ』
「あなたは昔から、そうやって……」
無月は言葉を止めた。
昔から。
その言葉を口にしたことで、失った時間が急に近づいた。
白嶺がまだ虹結家にいた頃。
遠くから剣を見ていた。
一度だけ構えを直された。
褒められたことはほとんどない。
それでも、白嶺と同じ場所に立てる日を願っていた。
その白嶺が今、自分を必要だと言っている。
憧れていた形とは、あまりにも違う。
家族としてでも、剣士としてでもない。
幼い娘を守るための、利害による契約。
それでも、胸の奥に生まれた安堵を、無月は否定できなかった。
帰らなくてもよい。
今すぐ処罰を受けなくてもよい。
白嶺のそばにいてもよい。
そんな都合のいい解釈をした自分が、無月には許せなかった。
「……私は、任務を捨てたわけではありません」
『そう』
「あなたを許したわけでもありません」
『分かっている』
「あなたの下につくつもりもありません」
『それでいいわ』
「御子を守るのも、あなたのためではありません」
『構わない』
白嶺は何一つ否定しなかった。
無月の逃げ道を、すべて残したまま待っている。
だからこそ、無月は決断しなければならなかった。
耀彩の柄へ手を置く。
この刀は、白嶺を殺すために渡された。
その刀で、白嶺の娘を守る。
家への裏切りになるのかもしれない。
一度踏み出せば、もう元の場所へは戻れない。
それでも昨夜、白嶺の命を奪えなかった。
色霊に呑まれた自分を救った手を、振り払うこともできなかった。
「……一つ、条件があります」
『何?』
「いつか、すべて話してください」
無月は白嶺を見た。
「なぜ虹結家を出たのか。なぜ名を捨てたのか。そして、なぜ御子を産む道を選んだのか」
白嶺はすぐには答えなかった。
『今すぐには話せない』
「分かっています」
『でも、いつか話すわ』
「約束してください」
『約束する』
無月は目を閉じた。
短く息を吐く。
後悔が消えたわけではない。
白嶺へ向けた刃も、言葉も、なかったことにはできない。
任務を果たせなかった自分への失望も残っている。
それでも、今ここで終わるよりはましだった。
「……承知しました」
目を開く。
「その契約、お受けします」
『決まりね』
「ただし、これは一時的なものです」
『ええ』
「それから、あなたの命を諦めたわけではありません」
『寝込みを襲うのだけはやめて。起きるのが面倒だから』
「それはクチツチの影響ですか」
『半分くらいは』
「残りの半分は?」
『元からよ』
無月は、返す言葉を失った。
白嶺は踵を返す。
『来なさい。娘を紹介するわ』
「今からですか」
『あなたを捜していたせいで、長く家を空けているの。急ぐわよ』
白嶺の歩調が速くなる。
無月は数歩遅れて、その背中を追った。
かつて追い続け、ある日突然見失った背中。
今も、追いついたとは思えない。
並んで歩く資格があるとも思えなかった。
それでも今回は、白嶺が先へ行く場所を教えている。
無月は耀彩を手に取り、歩き出した。
家へ帰るためではない。
任務を果たすためでもない。
自分がこれから何者になるのか。
まだ分からないまま、その答えを探すために。




