↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/36

16話「損得」

朝、目を覚ました瞬間、白嶺は自分が床で眠っていたことに気づいた。


 着物を脱ぎ、彩華の無事を確かめたところまでは覚えている。


 その後、身体を横にしたつもりはなかった。


 壁へ背を預け、少し休もうとしただけだった。


 クチツチから流れ込んだ安息への欲求が、白嶺の意識を奪ったのだ。


『……油断したわね』


 身体を起こす。


 床に触れていた背中が、離れることを嫌がった。


 もう少し休め。


 急いで立つ必要などない。


 今日は会社へ行かなくてもいい。


 柔らかな誘惑が、土の中から染み出すように全身へ広がる。


 白嶺は膝へ力を入れ、立ち上がった。


『生憎、休んでいる暇はないの』


 隣の部屋へ向かう。


 ベビーベッドの中で、彩華は黄色い鳥を抱いて眠っていた。


 呼吸を確かめる。


 昨夜も、何事も起きなかった。


 何事も起きなかったからよかった。


 それだけだった。


 白嶺が戻る前に彩華が目を覚ましていたかもしれない。


 泣いていたかもしれない。


 色霊ではなく、別の事故が起きた可能性もある。


 その危険を、白嶺自身が最もよく分かっていた。


 それでも、ほかに方法がなかった。


 色霊を放置すれば、犠牲者は増える。


 今、色霊を斬れる者は白嶺以外いない。


 だから、そのたびに彩華を残して出ていく。


 無事であることを祈りながら。


 危険だと分かっていながら。


『……最低ね、あたし』


 小さく呟く。


 彩華が瞼を動かした。


「あぅ」


『起こした?』


 白嶺の顔を見つけると、彩華は黄色い鳥を握ったまま両手を伸ばした。


 抱き上げる。


 胸の奥で、赤がざわめく。


 もっと強く。


 自分だけを求めるように。


 同時に、褐色の安息が囁いた。


 このまま何もせず、抱いて眠ればいい。


 白嶺はどちらにも従わなかった。


『おはよう、彩華』


「あー」


『今日も保育園よ』


「うー」


『あたしも会社。残念だったわね』


 彩華が不満そうな声を出す。


 白嶺はその頬へ、自分の頬を軽く触れさせた。


          ◇


 定刻より少し早く、白嶺は会社へ到着した。


 いつもと同じようにパソコンを立ち上げ、予定を確認する。


 提出された資料へ目を通し、不足している情報を書き出す。


 午前中の会議では、複数の意見を整理し、決定事項をまとめた。


 午後には、進行の遅れていた案件について担当者から事情を聞き、期限に間に合わせるための手順を組み直した。


 身体は重かった。


 椅子へ座るたび、立ち上がる必要などないとクチツチの声が囁く。


 書類から手を離せば、赤や橙や黄色が、心の隙間から浮かび上がろうとする。


 白嶺はそのすべてを沈めた。


 声の調子も。


 歩く速さも。


 判断の正確さも。


 いつもと変えなかった。


 営業企画部主任、加藤白嶺。


 会社にいる間、彼女はそれ以外の何者にもならない。


「加藤さん、こちらの確認をお願いします」


『置いておいて。十分後に見るわ』


「分かりました」


「先方から、日程変更の連絡が来ています」


『代替案を二つ作って送って。先方には一時間以内に返答すると伝えて』


「はい」


 誰も、白嶺が昨夜刀を振るったことを知らない。


 四体目の色霊を封じたことも。


 殺しに来た女を救ったことも。


 その女が今、帰る場所を失っていることも。


 白嶺自身でさえ、考えないようにしていた。


 無月へ耀彩を返した。


 そこで関係は終わったはずだった。


 殺せなかった刺客と、殺されなかった標的。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 だが、白嶺は知っている。


 任務に失敗した分家の者が、どのように扱われるか。


 命令へ背いたわけではない。


 それでも結果を出せなかった者に、虹結家は寛容ではない。


 まして、回収すべき宿彩を持つ相手に敗れ、その相手に命を救われた。


 無月が何もなかったように戻れるとは思えなかった。


「加藤さん」


 自分を呼ぶ声で、白嶺は顔を上げた。


 部長が資料を持って立っている。


『何でしょう』


「朝頼んだ数字、もう出た?」


『出ています。今、送ります』


 白嶺は保存していた資料を添付し、送信する。


 部長が自分の端末で確認した。


「早いね。助かるよ」


『これが仕事ですから』


 白嶺は再び画面へ向かった。


 無月のことを考えるのは、退勤してからでいい。


          ◇


 保育園へ彩華を迎えに行き、自宅へ戻った。


 夕食を済ませ、風呂へ入れる。


 彩華が眠るまで待ってから、白嶺は宿彩を持った。


 長い刀身が鞘の中で微かに鳴る。


『少しだけ出てくるわ』


 眠る彩華へ告げる。


 返事はない。


 また一人にする。


 胸の奥が重くなる。


 それでも、白嶺は玄関を出た。


 耀彩の気配は、まだ遠くへ離れていなかった。


 三振りの刀は、互いの存在を微かに伝える。


 宿彩ほど癖の強くない耀彩は、使い手の動きへ素直に馴染む。


 昨夜の剣筋を思い出す。


 無月は確かに強くなっていた。


 あの刀を持たされたことにも、理由があるはずだった。


 黒花が、何も考えずに耀彩を渡すはずがない。


 白嶺は気配を追った。


          ◇


 無月は、閉店した商店街の軒下に座っていた。


 傍らには耀彩が置かれている。


 装束は土に汚れたままだった。


 夜の冷気が通り抜けても、動こうとしない。


 行く場所がなかった。


 虹結家へ帰れば、失敗を報告しなければならない。


 白嶺を殺せなかった。


 宿彩を取り戻せなかった。


 それどころか色霊に呑まれ、討つべき相手に助けられた。


 その事実を、どのような言葉で報告すればよいのか分からなかった。


 命令を果たせなかったことが苦しかった。


 幼い頃から教えられてきた。


 本家へ尽くせ。


 器を守れ。


 家の命へ従え。


 それが分家に生まれた者の役目だと。


 無月はその教えを疑わなかった。


 疑わないように生きてきた。


 白嶺が虹結家を出ていくまでは。


 自分には何も告げずに。


 振り返りもせずに。


 姿を消すまでは。


「……なぜ、私は」


 呟いた声が途切れる。


 昨夜の自分の言葉を思い出す。


 黙れ。


 殺す。


 憧れていた相手へ向ける言葉ではなかった。


 それでも、嘘ではなかった。


 置いていかれた恨みも。


 追いつきたかった気持ちも。


 一度でいいから、自分を見てほしかったという願いも。


 すべて本物だった。


 白嶺を斬れば、迷いは消えると思っていた。


 命令を果たせば、置いていかれた過去にも決着をつけられると思っていた。


 結果は、白嶺へ刃を届かせることすらできなかった。


 そのうえ、助けられた。


「私は、何をしに来たんだ……」


 答える者はいない。


『暗いところが好きなの?』


 聞き慣れた声がした。


 無月は顔を上げた。


 商店街の入口に、白嶺が立っている。


 黒い着物ではない。


 普段着の上へコートを羽織り、片手に宿彩を持っている。


 白い髪は長く伸びておらず、虹色もない。


 それでも、無月にはすぐに分かった。


「……何の御用ですか」


『あなたを捜しに来たの』


「私を?」


『そう』


「私を笑いに来たのですか」


『あたしがそんなに暇に見える?』


 無月は立ち上がった。


 耀彩へ手を伸ばす。


 だが、柄を握る前に指が止まった。


 白嶺へ斬りかかったところで、結果は分かっている。


 昨夜の自分は全力だった。


 それでも勝てなかった。


『抜かないの?』


「……今の私を斬る価値もないと?」


『面倒な受け取り方をするわね』


「面倒にしたのは、あなたです」


 無月の口から、思っていた以上に強い声が出た。


「何も言わずにいなくなった。私は、あなたの背中を追っていた。いつか認めていただけると信じて、剣を振っていた」


 白嶺は遮らなかった。


「それなのに、あなたは私を置いていった。家を捨て、名を捨て、すべてを捨てた。残された者がどう思うかなど、考えもしなかったのでしょう」


『考えなかったわ』


 無月の目が揺れた。


 否定してほしかった。


 仕方がなかったと。


 あなたまで捨てたわけではないと。


 そう言ってほしかった。


『あのときのあたしには、自分が逃げることしか考えられなかった』


 白嶺は続ける。


『あなたに何かを説明すれば、巻き込むことになる。そう思っていたのも事実よ。でも、それをあなたのためだったと言うつもりはないわ』


「ならば……」


『あなたが傷つくことより、あたしは自分が逃げることを選んだ。それだけ』


 無月は唇を噛んだ。


 綺麗な弁解ではなかった。


 だからこそ、怒りを向ける先を失った。


「私は、ずっと……」


 言葉が続かない。


 白嶺を恨んでいた。


 忘れられなかった。


 殺すよう命じられたとき、迷いより先に、もう一度会えると思ってしまった。


 その事実が何よりも惨めだった。


「昨夜、あなたを殺そうとしました」


『知っているわ』


「あなたへ、あのような言葉まで」


『それも聞いた』


「なら、なぜ助けたのですか」


『目の前で色霊に呑まれた人間を助けるのに、理由がいる?』


「私は、あなたの敵です」


『昨日まではね』


 無月の眉が動く。


「何をおっしゃっているのですか」


『契約をしましょう、無月』


「契約?」


『あなたは家へ帰れない』


「帰れます」


『本当に?』


 短い問いだった。


 無月は答えられなかった。


『帰ったところで、任務失敗の責任を問われる。耀彩を取り上げられるだけなら、まだ軽い方でしょうね』


「それは私が受けるべき処罰です」


『死ぬことになっても?』


「命を果たせなかったのですから」


『それで納得している顔には見えないけれど』


「……黙ってください」


 昨夜のような荒々しさはなかった。


 声は弱く、苦しげだった。


「私は分家の人間です。家の命に従うために育てられました。それ以外の生き方など知りません」


『なら、今から覚えればいい』


「簡単に言わないでください!」


 無月の声が、無人の商店街へ響いた。


「あなたは自分で家を出ることを選んだ。私は違う。私は失敗したのです。あなたを殺せず、色霊にも敗れ、助けられた。帰れないのではありません。帰る資格を失ったのです」


『同じことよ』


「違います」


『なら、その場で処罰を待つ?』


 無月は黙った。


 白嶺は一歩近づいた。


『あたしは、あなたを慰めに来たわけではない。可哀想だから拾ってあげるつもりもないわ』


「では、何を」


『あたしには、あなたを置いておく利益がある』


 無月が警戒するように白嶺を見た。


『あたしには娘がいる』


「御子のことですか」


『ええ。まだ一人では何もできない』


 白嶺は一度、言葉を切った。


 口にするだけで、昨夜の光景が蘇った。


 眠る彩華を残して玄関を出たこと。


 戻るまで、無事を確かめる術さえなかったこと。


『色霊が現れるのは夜が多い。そのたびに、あたしは娘を家へ残して出ている』


 無月の表情が変わった。


「お一人で、ですか」


『ほかにいないもの』


「それは……危険です」


『分かっているわ』


「分かっていて、置いていくのですか」


『だから、あなたが必要なの』


 無月は息を止めた。


『あたしが色霊を斬りに行く間、娘を守ってほしい。虹結家が手を出してきた場合にも、あなたなら対処できる』


「私に……御子を?」


『任せるわ』


「私は昨夜、あなたを殺そうとした人間です」


『娘へ刃を向ける?』


「そのようなことはしません!」


 返事は迷いなく出た。


 白嶺がわずかに目を細める。


『なら、問題ないわね』


「問題しかありません」


『あなたには帰る場所がない。あたしには、娘を守る者がいない。お互い、必要なものを補える』


「私を利用するおつもりですか」


『ええ』


 白嶺はためらわずに答えた。


『あなたも、あたしを利用すればいい。身を隠す場所と食事は用意する。家へ戻らずに済む時間も与える。その間に、これからどうするか考えなさい』


「私が再び、あなたの命を狙わないとでも?」


『狙いたければ狙えばいいわ』


 無月が睨む。


『ただし、娘の前では駄目。部屋を汚されるのも困る。あと、夜中は近所迷惑になるから静かにして』


「ふざけているのですか」


『大真面目よ』


「あなたは昔から、そうやって……」


 無月は言葉を止めた。


 昔から。


 その言葉を口にしたことで、失った時間が急に近づいた。


 白嶺がまだ虹結家にいた頃。


 遠くから剣を見ていた。


 一度だけ構えを直された。


 褒められたことはほとんどない。


 それでも、白嶺と同じ場所に立てる日を願っていた。


 その白嶺が今、自分を必要だと言っている。


 憧れていた形とは、あまりにも違う。


 家族としてでも、剣士としてでもない。


 幼い娘を守るための、利害による契約。


 それでも、胸の奥に生まれた安堵を、無月は否定できなかった。


 帰らなくてもよい。


 今すぐ処罰を受けなくてもよい。


 白嶺のそばにいてもよい。


 そんな都合のいい解釈をした自分が、無月には許せなかった。


「……私は、任務を捨てたわけではありません」


『そう』


「あなたを許したわけでもありません」


『分かっている』


「あなたの下につくつもりもありません」


『それでいいわ』


「御子を守るのも、あなたのためではありません」


『構わない』


 白嶺は何一つ否定しなかった。


 無月の逃げ道を、すべて残したまま待っている。


 だからこそ、無月は決断しなければならなかった。


 耀彩の柄へ手を置く。


 この刀は、白嶺を殺すために渡された。


 その刀で、白嶺の娘を守る。


 家への裏切りになるのかもしれない。


 一度踏み出せば、もう元の場所へは戻れない。


 それでも昨夜、白嶺の命を奪えなかった。


 色霊に呑まれた自分を救った手を、振り払うこともできなかった。


「……一つ、条件があります」


『何?』


「いつか、すべて話してください」


 無月は白嶺を見た。


「なぜ虹結家を出たのか。なぜ名を捨てたのか。そして、なぜ御子を産む道を選んだのか」


 白嶺はすぐには答えなかった。


『今すぐには話せない』


「分かっています」


『でも、いつか話すわ』


「約束してください」


『約束する』


 無月は目を閉じた。


 短く息を吐く。


 後悔が消えたわけではない。


 白嶺へ向けた刃も、言葉も、なかったことにはできない。


 任務を果たせなかった自分への失望も残っている。


 それでも、今ここで終わるよりはましだった。


「……承知しました」


 目を開く。


「その契約、お受けします」


『決まりね』


「ただし、これは一時的なものです」


『ええ』


「それから、あなたの命を諦めたわけではありません」


『寝込みを襲うのだけはやめて。起きるのが面倒だから』


「それはクチツチの影響ですか」


『半分くらいは』


「残りの半分は?」


『元からよ』


 無月は、返す言葉を失った。


 白嶺は踵を返す。


『来なさい。娘を紹介するわ』


「今からですか」


『あなたを捜していたせいで、長く家を空けているの。急ぐわよ』


 白嶺の歩調が速くなる。


 無月は数歩遅れて、その背中を追った。


 かつて追い続け、ある日突然見失った背中。


 今も、追いついたとは思えない。


 並んで歩く資格があるとも思えなかった。


 それでも今回は、白嶺が先へ行く場所を教えている。


 無月は耀彩を手に取り、歩き出した。


 家へ帰るためではない。


 任務を果たすためでもない。


 自分がこれから何者になるのか。


 まだ分からないまま、その答えを探すために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。