17話「守るもの」
白嶺が玄関の鍵を開けた。
『入って』
無月は動かなかった。
白嶺の背後から見えるのは、ごく普通のアパートの玄関だった。
虹結家の屋敷にあるような広い土間もなければ、来客を迎える者もいない。
脱ぎ散らかされた靴はないが、隅には小さな靴が一足置かれている。
それを見た瞬間、無月はここへ来た理由を改めて思い出した。
白嶺の娘を守る。
その代わりに、身を置く場所を得る。
言葉にすれば単純な契約だった。
だが、無月は今も白嶺を殺すための刀を持っている。
昨夜まで標的だった者の家へ、これから住もうとしている。
「本当に、よろしいのですか」
『何が?』
「私を家へ入れることです」
『ここまで連れてきて、玄関で追い返すと思う?』
「そうではありませんが」
『なら、早く入って。娘を長く一人にしているの』
その言葉に、無月はようやく足を踏み入れた。
「お邪魔いたします」
『しばらく住むのだから、毎回それを言う必要はないわ』
「まだ、しばらく住むと決めたわけではありません」
『一時的な契約なのでしょう? 一晩で終えるつもり?』
「……そういう意味ではありません」
無月は耀彩を持ったまま靴を脱いだ。
上がったところで、白嶺が振り返る。
『その刀、ここでは振らないで』
「当然です」
『宿彩と間違えないようにしないとね』
「刀身の長さがまるで違います」
『暗ければ分からないかもしれないでしょう』
「分かります」
『そう』
「刀を何だと思っているのですか」
『刀だけれど』
白嶺は平然と答え、部屋の奥へ進んでいった。
無月はその背中を見つめる。
虹結家にいた頃の白嶺は、無月にとって遠い存在だった。
器として選ばれた本家の長女。
宿彩を扱う剣士。
流派の型を身につけるだけでなく、自ら技を生み出す者。
無月が声をかけられる機会など、ほとんどなかった。
その白嶺が今、自分の前を無防備に歩いている。
昨夜、命を狙った相手が背後にいるにもかかわらず、一度も振り返らない。
信頼されているとは思わなかった。
ただ、自分がここで斬りかかることなどないと見抜かれている。
そのことが、無月には少し悔しかった。
◇
部屋へ入ると、無月は足を止めた。
畳はない。
襖もない。
壁際に置かれた棚には、仕事に使うらしい書類と、赤子用の品が入り交じっている。
洗濯物が部屋の隅にまとめられ、ソファの背には脱いだ服が掛けられていた。
机の上には飲みかけの水と、蓋の開いた菓子の袋が残っている。
「……白嶺様」
『何?』
「これは、まだ片づけの途中なのですか」
『いいえ』
「では、何なのですか」
『あたしの家よ』
「そうではなく、この有様は」
『生活感があるでしょう』
「物は言いようですね」
無月が知る白嶺は、常に隙のない人間だった。
髪の一本まで乱さず、刀や装束の手入れにも妥協しない。
無駄な動きを嫌い、誰よりも早く型を覚え、誰よりも遅くまで鍛錬を続けていた。
その白嶺が、脱いだ服をソファへ放置している。
無月には、昨夜色霊に呑まれたことより理解しがたい光景だった。
『何をそんなに見ているの』
「いえ……」
『言いたいことがあるなら言えばいいでしょう』
「白嶺様にも、人間らしい部分があったのだと思いまして」
『どういう意味?』
「そのままの意味です」
『住む前から随分な態度ね』
「申し訳ありません」
謝りながらも、無月の視線はソファの服へ向いたままだった。
そのとき、隣の部屋から小さな声が聞こえた。
「あぅ……」
白嶺の表情が変わった。
大きく変化したわけではない。
ただ、声のした方へ振り向く動きが、無月と話していたときより明らかに速かった。
『起きたわね』
白嶺が隣の部屋へ入る。
無月はその場に残った。
ここから先へ入ってよいのか判断できなかった。
『無月』
「はい」
『来なさい』
呼ばれ、無月は静かに後を追った。
部屋の中央に、小さなベビーベッドが置かれている。
白嶺はそこから赤子を抱き上げた。
白く短い髪。
眠りから覚めたばかりの瞳。
片手には、黄色い鳥の玩具が握られている。
赤子は白嶺の胸へ頬を寄せたあと、入口に立つ無月を見た。
無月の身体が固まった。
「その方が……御子ですか」
『そうよ』
白嶺は抱き方を変え、赤子の顔を無月へ向けた。
『彩華。この人は無月』
無月は、白嶺ではなく赤子の顔を見た。
「彩華……」
『あたしの娘。加藤彩華よ』
その名を口の中で繰り返す。
任務を与えられたとき、無月が知らされたのは、器が娘を産んだという事実だけだった。
その子供が、封印を解いた。
次代の器となる可能性がある。
帰参に応じれば、白嶺とともに。拒めば、宿彩を回収したうえで、彩華だけを連れ帰るべき存在である。
すべて虹結家の都合で語られていた。
名を知る必要などないとされていた。
だが、目の前にいるのは家のための器ではなかった。
眠そうに目を擦り、黄色い玩具を握っている、あまりにも小さな子供だった。
「この方を、お一人で置いていかれたのですか」
『ええ』
「昨夜も?」
『そうよ』
「目を覚ましたらどうするおつもりだったのです」
『どうにもできないわ』
「泣いても?」
『戻るまで待ってもらうしかない』
「何かあったら」
『分かっている』
白嶺の声が低くなった。
無月は口を閉じた。
危険を理解していないわけではない。
白嶺自身が、そのことを誰より重く受け止めている。
分かっていながら、置いていくしかなかった。
それが今までの白嶺だった。
『だから、あなたを連れてきたの』
無月は改めて彩華を見た。
守るべき御子。
そう考えれば、務めとして受け入れられるはずだった。
しかし、この小さな子供を家の言葉だけで呼ぶことに、わずかな違和感が残った。
「彩華様」
『様はいらない』
「必要です」
『家の中で娘に様をつけるのはやめて』
「本家の血を引く御方です」
『ここは虹結家ではないわ』
「ですが」
『彩華よ』
無月は返事に詰まった。
白嶺の言うことは理解できる。
それでも、無月にとって本家の者を呼び捨てにすることは、禁忌に近かった。
「……すぐには、難しいです」
『では、好きにすればいいわ。そのうち直して』
「努力します」
彩華が無月へ手を伸ばした。
小さな指が、空中で何かを掴もうとしている。
無月は一歩退いた。
『何をしているの』
「私へ手を伸ばしています」
『見れば分かるわ』
「どうすればよいのですか」
『触れば?』
「私が、ですか」
『ほかに誰がいるの』
無月は困惑した。
刀を持つ相手への対応なら分かる。
踏み込みの距離。
視線。
呼吸。
身体の軸。
それらを見れば、次にどのような動きをするのか予測できる。
だが、赤子が伸ばした手に、どのような意味があるのか分からない。
「敵意は……ありませんよね」
『あったらどうするの。斬る?』
「斬りません」
『なら、問題ないでしょう』
無月は恐る恐る手を差し出した。
彩華の指が、無月の人差し指を掴む。
力は弱い。
少し動かせば、簡単に離れるほどの力だった。
それでも無月は動けなかった。
「掴まれました」
『ええ』
「離しません」
『そうね』
「どうすれば」
『少しくらい、そのままでいなさい』
白嶺は彩華を抱いたまま、無月の顔を見た。
『それが、あなたの守る相手よ』
無月の指を、彩華が握っている。
任務として命じられたわけではない。
白嶺との契約で引き受けた役目だった。
殺すことでも、奪うことでもない。
ただ、この小さな手を守る。
無月には、その重さがまだ分からなかった。
「承知しました」
それでも、そう答えた。
◇
彩華をもう一度寝かせたあと、白嶺は無月を居間へ連れ戻した。
『まず、お風呂へ入って』
「不要です」
『土まみれのまま家を歩かないで』
「この程度の汚れで支障はありません」
『あたしにはあるの』
「白嶺様は、この部屋の状態を御覧になってからおっしゃってください」
『それとこれとは別よ』
白嶺は棚を開け、着替えを探した。
無月が持っているのは、身につけている装束と耀彩だけだった。
替えの衣服もない。
金銭も、身分を証明するものも持たされていなかった。
命令を果たし、そのまま帰る予定だったからだ。
『これでいいわね』
白嶺が黒い長袖のシャツと、部屋着用のズボンを差し出した。
「白嶺様のものですか」
『ほかに誰のものがあるの』
「お借りします」
『洗面所は向こう。使い方は分かる?』
「風呂の入り方くらい分かります」
『そうではなくて、給湯器』
「……分かります」
『今、間があったけれど』
「問題ありません」
『壊さないでね』
「刀ではありません。壊しません」
無月は衣服を受け取り、洗面所へ向かった。
◇
しばらくして、無月が戻ってきた。
借りたシャツの袖は、指先が隠れるほど余っている。
ズボンの裾も床へ触れそうになり、何度か折り返されていた。
長身の白嶺に合う衣服は、平均的な体格の無月には大きすぎた。
白嶺は無月の姿を見た。
『似合っているわ』
「どこがですか」
『随分と可愛らしくなった』
「からかわないでください」
『からかってはいないけれど』
「袖も裾も余っています」
『明日、何か考えましょう』
「装束で構いません」
『近所で目立つから駄目』
「白嶺様も、刀をお持ちのままではありませんか」
『あたしは目立たないようにしているわ』
「白髪でその身長の方が長刀を持って、どう目立たないのですか」
『案外、他人は人を見ていないものよ』
無月は納得していなかったが、それ以上は言わなかった。
白嶺が押し入れから布団を出す。
『あなたはここで寝て』
「見張りは」
『今夜は色霊の気配がない。寝ていいわ』
「ですが、私は彩華様を守るために」
『眠らない人間に娘は任せられない』
「私は鍛えています」
『人間は寝るものよ』
「白嶺様こそ、昨夜からほとんど眠っておられないのでは」
『あたしは平気』
「御自分のことになると、そのようにおっしゃるのですね」
白嶺の手が止まった。
『住み始めたその日に説教?』
「契約相手が倒れれば、私も困ります」
『そういうことにしておくわ』
白嶺は布団を床へ置いた。
無月はその場へ正座する。
『楽にしていいわよ』
「十分、楽にしています」
『それで?』
「はい」
『横になればいいでしょう』
「白嶺様より先に休むわけには」
『また家の決まり?』
「身についたものです」
白嶺は小さく息を吐いた。
無月の前へ座る。
『ここには、虹結家の決まりはないわ』
「……分かっています」
『あたしはあなたの主でもない』
「分かっています」
『本当に?』
無月は返事をしなかった。
白嶺様。
その呼び方も、身体へ染みついた礼儀も、簡単には消せない。
家へ戻らないと決めたわけでもない。
虹結家を捨てたわけでもない。
ただ今夜、帰ることができなかっただけだ。
そう考えていなければ、自分が何者なのか分からなくなる。
「私は、ここにいてよいのでしょうか」
無月の口から、思わず言葉がこぼれた。
白嶺は無月を見た。
「昨夜、あなたの命を奪おうとしました。私は任務を果たせず、色霊に呑まれ、あなたに救われた。今度はあなたの家へ上がり込み、衣服まで借りている」
余った袖の中で、無月が手を握る。
「何一つ、自分の力で得ていません」
『耀彩を任されたのは、あなたの力でしょう』
「耀彩は、任務のために与えられたものです」
『その耀彩を使いこなしたのは、あなたよ』
「それでも、あなたには届かなかった」
『届かないことと、価値がないことは同じではないわ』
無月が顔を上げた。
『あなたは強くなった。昨夜言ったでしょう』
「戦いの最中に聞きました」
『なら、何度も言わせないで』
白嶺は立ち上がった。
『ここにいる理由が欲しいなら、娘を守って。あたしが色霊を斬りに行っても、帰るまであの子のそばにいて』
「……はい」
『それで十分よ』
白嶺が背を向ける。
「白嶺様」
『何?』
「先ほどの御言葉は、契約上の評価ですか」
『何の話?』
「私が、強くなったという……」
白嶺は振り返った。
『事実を言っただけよ』
「そうですか」
無月は視線を落とした。
わずかに肩から力が抜けている。
白嶺はそれ以上触れなかった。
『おやすみ、無月』
「おやすみなさいませ、白嶺様」
部屋の扉が閉じる。
無月は布団へ視線を落とした。
誰かの家で眠るのは、落ち着かなかった。
それも、昨夜まで殺そうとしていた相手の家だ。
帰れないことへの後悔は消えていない。
使命を捨てかけている罪悪感もある。
白嶺への怒りも、まだ胸の中に残っている。
それでも。
強くなった。
白嶺は確かに、そう言った。
認められたかった。
ずっと、その一言を求めていた。
無月は余った袖を握り、静かに横になった。
◇
夜半。
彩華の泣き声で、無月は目を覚ました。
反射的に耀彩を掴み、立ち上がる。
敵の気配はない。
色霊もいない。
聞こえるのは、隣の部屋からの泣き声だけだった。
無月は戸口まで進んだ。
中では白嶺が彩華を抱いている。
『大丈夫よ。ここにいるから』
会社で部下に指示を出す声とも、色霊を斬るときの声とも違う。
静かで、柔らかい声だった。
彩華の泣き声が少しずつ小さくなる。
無月は部屋へ入らず、その様子を見ていた。
白嶺が顔を上げる。
『起きたの?』
「警護中ですので」
『寝ていたでしょう』
「浅く眠っていただけです」
『そう』
白嶺は彩華の背をゆっくりと叩く。
「私にできることはありますか」
『今はないわ』
「では、ここにおります」
『好きにして』
無月は戸口へ座った。
耀彩を膝の上へ置く。
しばらくして、彩華は再び眠った。
白嶺がベビーベッドへ戻す。
その背中を見ながら、無月は思った。
白嶺が戦いに出れば、この場所に残るのは自分だけになる。
泣き出した彩華を抱くことも。
危険から守ることも。
すべて自分がしなければならない。
「白嶺様」
『何?』
「彩華様の抱き方を、明日教えてください」
白嶺が無月を見る。
『怖いの?』
「分からないものを扱うのは、当然警戒します」
『あの子は武器ではないわよ』
「それくらいは分かっています」
『そう。では、明日ね』
「お願いいたします」
無月は耀彩へ手を添えた。
命を奪うために磨いてきた技が、この家でどこまで役に立つのかは分からない。
それでも、守ると約束した。
今の無月がここにいる理由は、それだけでよかった。




