18話「任せる夜」
翌朝。
無月は、白嶺より早く目を覚ました。
正確には、ほとんど眠れていなかった。
慣れない部屋。
身体に合わない大きな寝間着。
壁を一枚隔てたところにいる、昨夜まで命を狙っていた相手。
そして、その娘。
眠りが浅くなる理由はいくらでもあった。
無月は布団を畳み、部屋の隅へ寄せた。
耀彩を腰へ差し、室内を確認する。
窓に異常はない。
玄関にも、誰かが侵入した痕跡はない。
色霊の気配も感じなかった。
警護の対象に危険はない。
そう結論づけたところで、隣室から物音が聞こえた。
無月は耀彩の柄へ手を置く。
「あぅ」
続いて聞こえた声に、手を離した。
彩華が起きたらしい。
無月は寝室の前まで進んだ。
戸口から中を窺う。
ベビーベッドの中で、彩華が身体を動かしている。
白嶺はその隣で眠ったままだった。
「白嶺様」
返事はない。
「白嶺様、朝です」
白嶺が布団の中でわずかに動いた。
『……あと少し』
「起きてください」
『会社には間に合うわ』
「彩華様が起きておられます」
白嶺が片目を開いた。
彩華を見てから、枕元の時計へ視線を移す。
『まだ早いでしょう』
「あー」
『あなたもそう思うわよね』
彩華は答えるように声を出した。
「同意ではありません」
『分からないでしょう』
「少なくとも、白嶺様へ二度寝を勧めているとは思えません」
白嶺はしばらく動かなかった。
やがて諦めたように身体を起こす。
白い髪が、顔の片側へ乱れている。
無月が知る白嶺からは想像できない姿だった。
「そのように寝癖がつくのですね」
『人間だからつくわよ』
「虹結家では、一度も見たことがありませんでした」
『人前へ出る前に直していたもの』
「今の私は、人前には含まれないのですか」
『同居人でしょう』
白嶺は欠伸を噛み殺し、彩華を抱き上げた。
『ちょうどいいわ。今から教える』
「何をですか」
『彩華の世話』
無月の背筋が伸びた。
「承知しました」
『返事だけは立派ね』
◇
白嶺は床へ座り、自分の前に彩華を寝かせた。
無月はその隣で正座している。
『まず、おむつ』
「はい」
『替えてみて』
「私がですか」
『ほかに誰がいるの』
昨夜も聞いた言葉だった。
無月は彩華を見下ろした。
彩華も無月を見上げている。
互いに動かない。
「手順を御教示ください」
『外して、拭いて、新しいものに替えるだけよ』
「だけ、とおっしゃっても」
『刀の手入れより簡単でしょう』
「刀は動きません」
無月が慎重に手を伸ばす。
彩華が足を動かした。
無月の手が止まる。
「動かれました」
『赤ん坊だから動くわよ』
「押さえてもよろしいのですか」
『力を入れすぎなければ』
「適切な力とは、どの程度でしょうか」
『それを覚えて』
無月は昨夜、白嶺へ斬りかかったとき以上に慎重だった。
彩華の足首へ指を添える。
細い。
少し力を加えただけで傷つけてしまいそうだった。
「……白嶺様」
『何?』
「代わっていただけませんか」
『駄目』
「私は、やはり警護だけを」
『あたしがいないときにおむつが汚れたら、そのままにするつもり?』
「それは」
『守るというのは、敵を斬ることだけではないわ』
無月は黙った。
耀彩を振るうだけなら、迷うことはない。
だが、目の前の小さな身体へ触れるには覚悟が必要だった。
「失礼いたします、彩華様」
『おむつを替えるのに許可を取る人、初めて見たわ』
「静かにしてください。集中しております」
無月は一つずつ手順を確かめながら、おむつを替えた。
途中で彩華が何度も足を動かし、そのたびに無月の動きが止まる。
白嶺は横から口を挟んだが、最後まで手は出さなかった。
新しいおむつを留め終える。
「できました」
『左右がずれているわ』
「……やり直します」
『少しくらいなら平気よ』
「いけません」
無月は真剣な顔でもう一度留め直した。
今度は左右が揃っている。
「いかがでしょう」
『合格』
無月がわずかに息を吐いた。
彩華は無月の苦労など知らず、黄色い鳥へ手を伸ばしている。
◇
次はミルクだった。
白嶺が缶に書かれた量と、湯の扱いを説明する。
無月は一言も聞き漏らさないように耳を傾けた。
「粉の量は正確に測るのですね」
『ええ』
「湯の温度を下げてから与える」
『熱いまま飲ませたら火傷するでしょう』
「毒見は必要ですか」
『必要ない』
「しかし、口へ入れるものです」
『ここは虹結家の屋敷ではないわ。誰も毒なんて入れない』
「白嶺様を狙う者が、御子を利用する可能性はあります」
白嶺の表情から眠気が消えた。
無月は哺乳瓶を持ったまま続ける。
「食料や日用品が外から入ってくる以上、絶対に安全とは言い切れません。今後は私も確認します」
『……好きにして』
「はい」
『でも、先に自分の口へ入れる必要はないわ。封が開けられていないか見れば十分よ』
「承知しました」
完成したミルクを、今度は彩華へ与える。
白嶺から抱き方を教わり、無月は彩華を腕へ乗せた。
身体が固い。
腕だけではなく、肩も背中も緊張している。
『もっと力を抜いて』
「抜いております」
『それで?』
「これ以上抜けば、落とします」
『落とさないわよ』
「断言できません」
『あたしへ斬りかかったときは、随分と思い切りがよかったのに』
「白嶺様は落としても御自分で立てます」
『落とさないで』
「例えです」
彩華の口元へ哺乳瓶を近づける。
すぐに吸い始めた。
無月は動かなくなった。
『腕、疲れるわよ』
「問題ありません」
『呼吸もして』
「しております」
彩華はミルクを飲みながら、無月の顔を見上げている。
無月も視線を逸らさなかった。
こんなにも無防備な命を抱いたのは初めてだった。
自分が腕を動かさなければ、この子は何も飲めない。
哺乳瓶を傾ける角度が悪ければ、うまく口へ入らない。
剣の修行とは違う。
正しい型を覚えれば終わるものではない。
「いつまで飲まれるのですか」
『満足するまで』
「満足されたかどうかは、どのように判断を?」
『飲むのをやめるわ』
「明確ですね」
『でしょう』
やがて彩華の口が哺乳瓶から離れた。
無月が白嶺を見る。
「終わりました」
『次はげっぷ』
「まだあるのですか」
『守るのは大変でしょう』
「色霊を斬る方が、単純かもしれません」
『やっと分かった?』
◇
朝食を終えると、白嶺は出勤の準備を始めた。
寝癖を直し、白い髪を整える。
化粧を済ませ、スーツへ着替える。
部屋を出る頃には、朝まで布団の中で彩華と会話していた人物の面影はなくなっていた。
営業企画部主任、加藤白嶺。
無月が知らない、もう一つの白嶺の姿だった。
「本当に会社で働いておられるのですね」
『何だと思っていたの』
「身分を隠すため、名目上だけ籍を置いているのかと」
『毎日働いているわよ』
「なぜ、その会社を選ばれたのですか」
『面接で髪について何も言われなかったから』
無月は返事を失った。
「それだけですか」
『当時のあたしには、それが重要だったの』
虹結家を出た白嶺が最初に必要としたのは、名誉でも地位でもない。
家とは無関係に働ける場所だった。
白い髪を見ても、染めろとも、理由を話せとも言わない会社。
ただそれだけのことが、白嶺には大きかった。
無月は白嶺の白髪を見る。
器は色を持たない。
十二の色を内へ宿すため、生まれながらに自分の色を与えられない。
虹結家で、そう教わってきた。
だが会社の人間は、その髪が器としての強い素質を示すことを知らない。
色霊を封じるための身体も、ここでは一人の会社員として扱われている。
「会社とは、そのような場所なのですか」
『どういう意味?』
「髪が白くても、剣を持つ家の者でなくても、その人間を受け入れる場所なのかと」
『会社によるでしょうね』
「白嶺様の会社は?」
『仕事さえできれば、少なくとも髪の色は問題にされないわ』
「そうですか」
無月には、まだ実感できなかった。
生まれや血筋ではなく、仕事ができるかどうかで居場所を得る。
そのような生き方を考えたこともなかった。
白嶺は彩華を抱き上げた。
『保育園へ送ってから会社へ行く。あなたはここにいて』
「私も同行します」
『その格好で?』
無月は白嶺から借りた服を着ている。
袖は折っているが、それでも長い。
ズボンも裾を何度か折り返していた。
「装束へ着替えます」
『もっと駄目よ』
「しかし、道中で襲撃を受けた場合は」
『今まで、あたしは一人で送っていたの』
「今日からは私がおります」
『今日は家にいて』
白嶺は財布から数枚の紙幣を取り出し、机へ置いた。
『必要なものがあれば、近くの店で買って。食べるものは冷蔵庫にあるわ』
無月が紙幣を見る。
「これは?」
『お金』
「見れば分かります」
『なら、聞かないで』
「受け取れません」
『どうして?』
「私はまだ、何の働きもしておりません」
『昨夜、戸口で見張っていたでしょう』
「あれは警護とは呼べません」
『では、前払い』
「返せない可能性があります」
『娘を守れば返したことになるわ』
無月は紙幣へ手を伸ばさなかった。
白嶺はそれを机へ置いたまま、玄関へ向かう。
『外へ出るなら、耀彩は置いていって』
「置いていけません」
『では、家にいて』
「私を閉じ込めるおつもりですか」
『出たければ出ていいわよ。黒装束で刀を持った女が歩いて、通報されてもあたしは知らないけれど』
「通報……」
『警察に捕まること』
「刀を持っているだけで、ですか」
『普通は持ち歩かないもの』
「白嶺様は持ち歩いておられるではありませんか」
『必要なときだけよ』
「私にも必要です」
『では、見つからないようにして』
「承知しました」
『本当に分かっている?』
「気配を消すことには慣れております」
『そういう問題ではないのだけれど』
白嶺は言いかけて、諦めた。
『行ってくるわ』
「お気をつけて」
『夕方には戻る』
玄関の扉が閉じた。
無月は部屋に一人残された。
正確には、彩華のものが置かれた部屋に一人だった。
白嶺と彩華が出ていくと、急に静かになる。
耀彩を傍らへ置き、室内を見回す。
畳むべき洗濯物。
机の上の空き容器。
ソファへ掛けられた服。
昨夜より、散らかっている部分がよく見えた。
「……これは、警護の妨げになります」
無月は立ち上がった。
◇
白嶺が出勤してから、無月は部屋を片づけ続けた。
洗濯物を畳む。
空の容器を捨てる。
床を拭く。
彩華の品と白嶺の品を分けて棚へ戻す。
刃物を扱うような集中力で、一つずつ作業を進めた。
昼を過ぎた頃には、部屋から生活感の大部分が消えていた。
無月は整然とした室内を眺める。
「これでよい」
その一方で、机へ置かれた金には触れなかった。
冷蔵庫も開けていない。
白嶺が食べてよいと言ったものが、どこまでを指すのか分からなかったからだ。
勝手に口へ入れることには抵抗がある。
水だけを飲み、無月は耀彩の手入れを始めた。
刀身を抜く。
淡い光が部屋の中へ広がった。
耀彩は三振りの中で最も扱いやすい。
使い手の動きを妨げず、速度にも力にも素直に応える。
無月へこの刀を渡したのは黒花だった。
白嶺への特別な感情を、黒花は見抜いていた。
そのうえで、白嶺を殺せと命じた。
無月が刃を向けられるか。
向けたとして、最後まで振り抜けるか。
試されていたのかもしれない。
「私は、失敗しました」
耀彩は答えない。
それでも取り上げられず、今も手元に残っている。
白嶺が返したからだ。
敵へ武器を返す。
無月には理解できない行為だった。
だが白嶺は昔から、家の理屈だけでは動かない人だった。
だからこそ憧れた。
だからこそ、置いていかれたことが許せなかった。
無月は刀身を拭い、耀彩を鞘へ戻した。
◇
夕方。
白嶺は予定どおり仕事を終えた。
会社にいる間、クチツチの影響は一度も表へ出さなかった。
仕事を残さず、誰よりも早く状況を判断し、必要な指示を出した。
同僚も部下も、白嶺の内側に四つの色が沈んでいることなど知らない。
それでよかった。
保育園へ彩華を迎えに行き、帰宅する。
玄関を開けた瞬間、白嶺は足を止めた。
『……部屋を間違えた?』
「お帰りなさいませ、白嶺様」
無月が玄関へ出てきた。
白嶺から借りた大きな服を着たまま、背筋を伸ばしている。
『何をしたの』
「警護に適した環境へ整えました」
『あたしの服は?』
「畳んで棚へ入れております」
『机の上にあった菓子は?』
「袋が開いたままでしたので処分しました」
『まだ食べるつもりだったのだけれど』
「いつから置いてあったものですか」
『覚えていないわ』
「捨てて正解です」
白嶺は靴を脱ぎ、部屋へ入った。
綺麗になっている。
自分の家であるにもかかわらず、どこに何があるのか一瞬分からなくなるほどだった。
『勝手に片づけないで』
「契約には、警護に必要な行為を認めると」
『掃除は警護に入らないわ』
「床に物があれば、襲撃時の移動を妨げます」
『服一枚で?』
「わずかな遅れが生死を分けます」
『そう』
白嶺は反論を諦めた。
彩華を床へ下ろす。
彩華はすぐに這い始め、無月の方へ向かった。
「彩華様」
無月は腰を落とした。
彩華が白嶺の大きな袖を掴む。
「この衣服は、白嶺様から借りているものです」
『彩華には関係ないわね』
「あぅ」
「引っ張らないでください」
言葉とは裏腹に、無月は振り払わなかった。
白嶺は机を見る。
朝置いた金が、そのまま残っている。
『何も買わなかったの?』
「必要ありませんでした」
『昼は食べた?』
「水をいただきました」
『食べていないのね』
「許可された範囲が不明確でしたので」
『冷蔵庫にあるものを食べていいと言ったでしょう』
「白嶺様や彩華様の分まで口にするわけにはいきません」
『面倒ね』
「申し訳ありません」
『謝るくらいなら食べなさい。倒れたら契約違反よ』
「承知しました」
『今から作るわ』
「私が行います」
『料理できるの?』
無月が沈黙した。
『できないのね』
「必要な訓練を受けておりません」
『何ならできるの』
「潜入、追跡、警護、暗殺、剣術、弓術、毒物の判別――」
『もういいわ』
「まだございます」
『生活に必要なことは?』
「……これから覚えます」
『そうして』
◇
夕食を終え、無月は彩華を抱く練習をした。
朝よりは身体の力が抜けている。
それでも腕の位置を何度も確かめ、彩華の首が傾くたびに緊張した。
「こちらでよろしいでしょうか」
『ええ。朝より上手よ』
「ありがとうございます」
『褒められると素直なのね』
「教えを受けた成果を評価されれば、礼を申し上げるのは当然です」
『剣のときも、そう言えばよかった?』
無月の表情が止まった。
「……今、その話をなさいますか」
『嫌ならやめるわ』
「嫌とは申しておりません」
無月の腕の中で、彩華が黄色い鳥を振った。
玩具が無月の胸へ当たる。
「これは、彩華様の大切なものですか」
『気に入っているみたい』
「黄色い鳥……」
『少し前に玩具屋で買ったの。ここまで手放さなくなるとは思わなかったけれど』
無月は玩具を注意深く見た。
「危険な仕掛けなどは?」
『ただの玩具よ』
「購入された店は信用できますか」
『普通の玩具屋。あなた、玩具まで警戒するの?』
「彩華様が常に触れているものです。確認は必要です」
『あなた、あたしより厳しい母親になりそうね』
「私は母親ではありません」
『知っているわ』
無月は何かを言い返そうとした。
そのとき、白嶺の表情が変わった。
窓の外へ視線を向ける。
無月も遅れて気配を感じた。
遠い。
それでも、確かに色が揺れている。
「色霊ですか」
『まだ分からない。でも、確かめる必要はあるわ』
「私も参ります」
『駄目』
「昨夜は不覚を取りましたが、次は」
『契約を忘れた?』
無月は言葉を止めた。
腕の中には彩華がいる。
『あなたは、ここに残るの』
「しかし、お一人では」
『今までずっと一人だったわ』
「今は私がおります」
『だから、彩華を一人にしなくて済む』
白嶺は立ち上がった。
宿彩を手に取り、隣室へ向かう。
黒い着物へ着替える間、無月は彩華を抱いたまま動けなかった。
色霊の気配を感じたなら、刀を取る。
それが無月の知る生き方だった。
だが今は、耀彩へ手を伸ばすことができない。
守るものが腕の中にある。
黒い着物に身を包んだ白嶺が戻ってきた。
普段は長いだけの白髪が、変化を始める。
髪は膝へ届くほど伸び、その一部だけが赤、橙、黄、褐色の光を帯びた。
白嶺は長い髪を大きく結い上げる。
宿彩を腰へ差すと、家で寝癖をつけていた女の姿は消えた。
虹結家の器。
十二色霊を内へ封じる剣士が、そこに立っていた。
「白嶺様」
『何?』
「必ず、お戻りください」
『戻るわよ』
「そうではなく……」
無月は続く言葉を探した。
任務としてなら、命令できる。
主として仰ぐなら、身を挺して守れる。
だが、今の二人は契約を交わしただけの関係だった。
「私の契約は、あなたがお戻りにならなければ果たせません」
『そうね』
「ですから、御無理はなさらぬように」
『努力するわ』
「努力ではなく、約束を」
『あなた、意外と注文が多いのね』
「白嶺様が御自身を顧みなさすぎるのです」
白嶺はわずかに目を細めた。
『分かった。約束する』
「はい」
白嶺が玄関へ向かう。
扉へ手をかけたところで、一度だけ振り返った。
無月は彩華を抱いている。
その傍らには耀彩が置かれていた。
まだ危なっかしい。
それでも、彩華は泣いていない。
『行ってくるわ』
「行ってらっしゃいませ」
扉が閉じた。
白嶺は廊下へ出た。
すぐには歩き出さなかった。
閉じた扉を見る。
これまでなら、この瞬間から不安が始まっていた。
彩華が泣いていないか。
何か起きていないか。
戻るまで無事でいてくれるか。
今夜も心配がなくなったわけではない。
だが、扉の向こうには無月がいる。
耀彩を持ち、白嶺へ届くほどの剣を振るう者が、彩華のそばにいる。
その事実が、胸の奥にあった。
『……悪くないわね』
白嶺は小さく呟いた。
初めて、娘を一人にせず戦いへ向かえる。
それだけで、足取りが昨日までとは違っていた。
◇
部屋に残された無月は、玄関を見つめていた。
彩華が腕の中で動く。
「あー」
「白嶺様は、すぐに戻られます」
誰へ言い聞かせるでもなく、無月はそう告げた。
窓を確認する。
玄関の気配を探る。
室内に侵入できそうな場所を、もう一度頭の中で数える。
耀彩はすぐ手の届く位置にある。
何者が来ても、この子には触れさせない。
それはできる。
だが、彩華が泣き出したらどうすればよいのか。
空腹なのか。
眠いのか。
おむつなのか。
無月にはまだ、声だけで判断できない。
「彩華様」
無月は腕の中を見た。
「できれば、白嶺様がお戻りになるまで、静かにしていただけますか」
彩華は無月を見上げた。
しばらくして、口元が緩んだ。
笑ったように見えた。
無月は目を瞬いた。
「今のは、承諾でしょうか」
「あぅ」
「そうですか」
意味など分からない。
それでも無月は、彩華を抱く腕へ少しだけ力を加えた。
強く締めつけるのではない。
落とさないために。
守るために。
「白嶺様がお戻りになるまで、私がお守りします」
命令された言葉ではなかった。
無月自身が選び、口にした言葉だった。




