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19話「帰りたい場所」

玄関の扉が閉まったあとも、無月はしばらく動かなかった。


 腕の中には彩華がいる。


 傍らには耀彩がある。


 部屋の中に異常はない。


 窓の外にも、玄関の向こうにも人の気配はなかった。


 警護だけを考えるなら、何も難しいことはない。


 侵入者が現れれば斬る。


 色霊が近づけば、彩華を守りながら白嶺の帰りを待つ。


 問題は、それ以外だった。


「あぅ」


「はい」


 彩華が声を出した。


 無月は返事をしたが、彩華が何を求めているのかは分からない。


「何か御用でしょうか」


「あー」


「できれば、具体的にお伝えいただけますか」


 彩華に言葉は通じていない。


 それでも無月は、ほかに話し方を知らなかった。


 黄色い鳥を持たせてみる。


 彩華は受け取った。


「こちらでよろしいですか」


「あぅ」


「承知しました」


 無月はひとまず納得した。


 だが、しばらくすると彩華が身をよじり始めた。


 黄色い鳥を床へ落とす。


 口元が歪む。


「どうされました」


「う……」


「どこかに敵が?」


 彩華が泣き出した。


 無月の身体が強張る。


「お待ちください」


 まず窓を確認する。


 誰もいない。


 玄関にも異常はない。


 彩華の身体へ外傷がないことも確かめる。


 熱があるのかと額へ手を当てたが、無月には平熱との違いが分からなかった。


「彩華様。どこが痛むのですか」


 答える代わりに、泣き声が大きくなった。


 無月は朝に教わったことを思い出す。


 おむつ。


 空腹。


 眠気。


 順番に確かめればよい。


「まず、おむつですね」


 彩華を寝かせ、おむつを確認する。


 汚れていない。


「違いました」


 次に時計を見る。


 夕食は済ませたばかりだった。


 ミルクを欲しがるには早い。


 それでも念のため哺乳瓶を用意しようとすると、彩華がさらに激しく泣いた。


「少々お待ちください。今、適切な温度に調整します」


 湯を沸かす。


 粉の量を測る。


 朝教わった手順に誤りがないよう、何度も缶の表示を確認する。


 その間も、泣き声は続いていた。


 完成したミルクを口元へ近づける。


 彩華は顔を背けた。


「空腹でもない……」


 無月は哺乳瓶を置いた。


 おむつではない。


 空腹でもない。


 外傷も、敵の気配もない。


 原因が分からなかった。


 刀を向けるべき敵なら見つけられる。


 隠れた気配も追える。


 しかし、目の前で泣いている彩華が何を求めているのか、無月には見抜けなかった。


「白嶺様は、すぐに戻られます」


 抱き上げながら言い聞かせる。


「それまで私がお守りします。ですから、どうか」


 彩華は泣きやまない。


 無月の胸へ手を押しつけ、白嶺を探すように顔を動かしている。


 そこで、ようやく無月は気づいた。


「白嶺様がいないから、ですか」


 返事はない。


 だが、それ以外に思い当たる理由もなかった。


 無月は戸惑った。


 白嶺を呼び戻すことはできない。


 色霊を追っている最中に、彩華が泣いていると伝える手段もなかった。


 仮に伝えられたとしても、それだけで戻らせてよいのか分からない。


 白嶺が戻るまで、彩華のそばにいる。


 それが無月の役目だった。


「申し訳ありません。私では、白嶺様の代わりにはなれません」


 彩華を抱く腕へ力を込める。


 強すぎないように。


 それでも、身体が離れないように。


「ですが、一人にはいたしません」


 無月は部屋の中をゆっくり歩き始めた。


 彩華の背中へ手を添える。


 白嶺がしていたように、一定の速さで軽く叩く。


「ここにおります」


 何度も繰り返す。


「白嶺様がお戻りになるまで、私がここにおります」


 泣き声はすぐには収まらなかった。


 それでも無月は歩き続けた。


          ◇


 白嶺は、夜の住宅街を歩いていた。


 色霊の気配は近い。


 だが、これまでに斬った色霊とは様子が違った。


 赤は、人の欲望と生命へ食らいついていた。


 橙は、夕暮れの温かさへ紛れて心へ入り込んだ。


 黄は、人から温もりを集めていた。


 褐色は、疲れ果てた者を土へ沈めた。


 今夜感じる色は緑だった。


 強い敵意はない。


 奪おうとする渇望も、引きずり込もうとする重さも感じられない。


 ただ、懐かしい。


 知らないはずの道を歩いているのに、昔ここへ来たことがあるような錯覚が生まれる。


 塀の向こうから夕食の匂いがする。


 遠くで、子供を呼ぶ母親の声が聞こえた。


 白嶺は足を止める。


 夜であるにもかかわらず、道の先だけが夕暮れに染まっていた。


『今度は、そういう色なのね』


 宿彩の柄へ手を置く。


 色霊は、人の感情へ根を張る。


 十二の色は、それぞれ異なるものを奪う。


 同じように人を襲い、同じように斬れる存在ではない。


 虹結家に残された記録には、緑の色霊についても記されていた。


 捨てられない記憶。


 失った幸福。


 戻りたいと願い続ける過去。


 それらを養分として芽吹くもの。


 スイガロ。


 白嶺は夕暮れの残る道へ足を踏み入れた。


          ◇


 道の先に、古い一軒家があった。


 周囲には新しい住宅が並んでいる。


 その家だけが、長い時間から取り残されていた。


 門扉は錆びている。


 庭は雑草に覆われ、窓の一部には板が打ちつけられていた。


 人が住んでいるようには見えない。


 だが、玄関には一人の男が座っていた。


 二十代後半ほどの、痩せた男だった。


 汚れた作業着を着ている。


 靴も脱がず、閉ざされた玄関へ向かって話しかけていた。


「ただいま」


 家の中から声がする。


「おかえり」


 女の声だった。


 白嶺には、その声が本物ではないと分かった。


「今日、学校でさ」


 男は笑った。


 年齢に似合わない話し方だった。


「先生に褒められたんだ。算数のテスト、百点だった」


「すごいね。お父さんが帰ってきたら見せてあげようね」


「うん」


 男の足元には、細い蔓が絡みついている。


 作業着の裾から入り込み、肌へ根を張っていた。


 それでも男は痛みを感じていない。


 玄関の向こうにいるはずの誰かと、楽しそうに話している。


 白嶺は男へ近づいた。


『その家に、もう人はいないわ』


 男は白嶺を見なかった。


「今日の御飯、何?」


「あなたの好きなものよ」


「本当?」


「早く手を洗っておいで」


 閉ざされた扉は開かない。


 それでも男は立ち上がろうとした。


 足へ絡んだ蔓が、地面の奥へ根を伸ばす。


 男の身体が傾いた。


 白嶺は肩を掴み、倒れるのを防いだ。


『聞こえる?』


「離せ」


 男が白嶺の腕を振り払おうとした。


「母さんが待ってるんだ」


『中には誰もいない』


「いるよ」


『いないわ』


「いる!」


 男が初めて白嶺を見た。


 その瞳には、淡い緑色の膜が張っている。


「やっと帰ってこられたんだ。邪魔するな」


『あなたは、いつからここにいるの』


「学校から帰ってきたばかりだよ」


 男は当然のように答えた。


「母さんが待ってる。父さんも帰ってくる。三人で御飯を食べるんだ」


 家の中から、食器の重なる音が聞こえた。


 味噌汁の匂いが漂う。


 炊きたての米。


 焼いた魚。


 白嶺の知る家の匂いではない。


 それでも胸の奥が揺れた。


 帰りたい。


 そんな感情が、白嶺の内側から浮かび上がる。


 虹結家の長い廊下。


 庭へ落ちる雪。


 遠くで響く、稽古用の木刀の音。


 まだ宿彩を持つことも、器の意味も知らなかった頃。


 母の背中を追いかけるだけでよかった頃。


 思い出したはずのない光景が、目の前の家へ重なっていく。


「白嶺」


 名を呼ばれた。


 加藤ではない。


 虹結の名を持っていた頃の、自分を呼ぶ声だった。


 白嶺の足首へ、細い蔓が触れた。


『……趣味が悪いわね』


 宿彩を抜く。


 白銀の刃が、足元の蔓だけを断った。


 幻の家が揺れる。


 夕食の匂いが消えた。


 夕暮れが一瞬だけ夜へ戻る。


 男が白嶺の腕へしがみついた。


「やめろ!」


『このままでは、あなたが枯れる』


「ここにいさせてくれ」


『それはできない』


「どうしてだよ! もう、どこにも帰る場所がないんだ!」


 男の叫びとともに、庭の雑草が一斉に伸びた。


 緑の蔓が玄関を覆う。


 閉ざされていた扉の表面に、女の顔が浮かび上がった。


 優しく笑っている。


「この子は、ようやく帰ってきたの」


 女の声がした。


「ここなら、何も失わない」


 白嶺は刀を構える。


『あなたがスイガロ?』


「名前なんて、どうでもいいでしょう」


 扉の女は男を見つめている。


「この子が望んだの。あの頃へ帰りたいと」


『帰ることと、留まり続けることは違うわ』


「この子は幸せよ」


『現在を失っても?』


「幸せな過去だけが残るなら、それでいいでしょう」


 男の足へ、さらに蔓が絡んでいく。


 作業着の下の肌が、少しずつ樹皮のように変わっていた。


 白嶺が踏み込む。


 扉に浮かんだ女の顔へ宿彩を振り下ろした。


 刃が触れる寸前、顔が消えた。


 宿彩は古い扉を浅く裂く。


 だが、手応えはなかった。


 周囲の草木から笑い声が響く。


「斬れないでしょう」


 庭。


 塀。


 屋根。


 男の身体へ絡む蔓。


 緑の気配が、至るところへ分かれている。


 これまでの色霊とは違い、本体が一つの場所に留まっていない。


 過去を宿す場所そのものへ根を張っている。


 今ここで無闇に斬れば、男まで傷つける可能性があった。


 白嶺は宿彩を鞘へ戻した。


「諦めるの?」


『今日はね』


「賢い人」


『でも、その人は連れていく』


 白嶺は男の襟を掴んだ。


「やめろ! 離せ!」


 男が暴れる。


 足へ絡んだ蔓が、引き離されることへ抵抗した。


 白嶺は宿彩を再び抜き、男の身体へ触れないぎりぎりの位置で刃を走らせる。


 蔓だけが断たれた。


 男の瞳から、緑色の膜が薄くなる。


「母さん!」


 白嶺は男を抱え、門の外へ跳んだ。


 背後で草木がざわめく。


「また戻ってくるわ」


 スイガロの声が追ってくる。


「帰りたい場所がある限り、この子は何度でも戻ってくる」


『なら、戻れないようにするだけよ』


「あなたにもあるでしょう?」


 白嶺の足が止まった。


「帰りたい場所が」


 振り返る。


 古い家は、完全な暗闇へ沈んでいた。


 夕暮れも、女の顔も消えている。


 だが、緑の気配は残っていた。


 スイガロは、まだあの家にいる。


          ◇


 白嶺は男を人通りのある場所まで運んだ。


 意識はなかったが、呼吸は安定している。


 足へ残った蔓の跡も、これ以上広がってはいなかった。


 近くの店員へ、道で倒れていたとだけ告げて男を預ける。


 救急車を呼ぶ声を背中で聞きながら、白嶺はその場を離れた。


 完全には救えていない。


 男の心には、まだスイガロの根が残っている。


 あの家へ戻れば、再び取り込まれる。


 次は本体を見つけ、根ごと断たなければならない。


 だが今夜は、これ以上追えなかった。


 スイガロの気配が周囲へ広がりすぎている。


 闇雲に斬れば、どこへ影響が出るか分からない。


 それに――。


 白嶺は自宅の方角を見る。


 無月へ彩華を任せている。


 以前のように、今すぐ戻らなければならないという焦りはなかった。


 それでも初めての夜だ。


 無月が彩華を抱く姿を思い出す。


 任せたのは自分だった。


 ならば、信じて帰るべきだった。


          ◇


 彩華の泣き声は、少しずつ小さくなっていた。


 無月は部屋の中を歩き続けている。


「ここにおります」


 同じ言葉を、何度繰り返したか分からない。


 彩華の背中を軽く叩く。


「白嶺様がお戻りになるまで、どこにも行きません」


 やがて、彩華の手が無月の服を掴んだ。


 白嶺から借りた、大きすぎる服。


 余った布を小さな指が握っている。


 泣き声が止まった。


 無月も足を止める。


「……眠られましたか」


 彩華の顔を覗き込む。


 目は閉じている。


 呼吸も静かになっていた。


 無月は安堵した。


 敵との戦いを終えたときとは違う。


 任務を達成したときとも違う。


 力が抜け、その場へ座り込みたくなるような安堵だった。


「よかった」


 無月の口から、自然に言葉がこぼれた。


 そのとき、玄関の前に気配が現れた。


 無月はすぐに顔を上げる。


 耀彩へ手を伸ばしかけ、止めた。


 この気配を知っている。


 鍵が回り、玄関の扉が開いた。


『ただいま』


「お帰りなさいませ、白嶺様」


 無月は声を抑えて答えた。


 黒い着物姿の白嶺が、静かに部屋へ入る。


 その髪は元の長さへ戻りつつあった。


 無月の腕の中で眠る彩華を見て、白嶺は足を止めた。


『寝かせたの?』


「はい」


『泣かなかった?』


 無月は答えるまでに、わずかな間を置いた。


「少しだけ」


『随分歩き回ったのね』


 白嶺は床を見る。


 無月が同じ場所を何度も往復したため、敷物が少しずれていた。


「おむつを確認し、ミルクも用意しました。しかし、どちらも原因ではありませんでした」


『寂しかったのね』


「おそらくは」


『それで抱いていたの?』


「ほかに方法が思いつきませんでした」


 白嶺が近づく。


 彩華を受け取ろうと腕を伸ばした。


 その瞬間、眠っている彩華の指が、無月の服を強く掴んだ。


 白嶺の手が止まる。


 無月も動けなかった。


「離されません」


『そうみたいね』


「どうすればよろしいでしょうか」


『起こさないように、そのまま寝かせて』


「私がですか」


『あなたを掴んでいるもの』


 無月は戸惑いながら、彩華をベビーベッドへ運んだ。


 身体を寝かせても、指は服から離れない。


 無理に外せば起こしてしまいそうだった。


 無月はベッドの横へ膝をつく。


「離れるまで、ここにおります」


『ええ』


 白嶺は二人を見た。


 彩華のそばに、無月がいる。


 当たり前の光景ではない。


 昨日まで存在しなかった光景だった。


『ありがとう』


 無月が白嶺を見る。


「契約を果たしただけです」


『そうね』


「礼には及びません」


『では、取り消す?』


「……その必要はありません」


 白嶺の口元がわずかに緩んだ。


 無月はそれを見て、視線を彩華へ戻した。


「色霊はいかがでしたか」


『緑。スイガロだった』


「討たれたのですか」


『いいえ。本体が場所へ根を張っている。今夜は被害者を引き離すだけにしたわ』


「明日、私も参ります」


『あなたは彩華と留守番』


「しかし、相手の性質が分かっているのなら、私も戦力に」


『あなたはスイガロと相性が悪い』


 無月の表情が硬くなった。


「なぜですか」


『捨てられない過去が多そうだから』


 無月は答えなかった。


 白嶺に置いていかれた過去。


 追いつくため、剣を振り続けた日々。


 命令を果たせず、帰る場所を失った自分。


 スイガロが見せるものを想像する。


「白嶺様にも、おありになるでしょう」


『何が?』


「帰りたい過去が」


 白嶺の表情から、わずかに笑みが消えた。


『あるわよ』


「それでも、お一人で向かわれるのですか」


『だから斬れるの』


 白嶺は静かに答えた。


『帰りたいと思うことと、戻ることは違う。過去へ戻っても、今のあたしにはなれないもの』


 白嶺の視線が、眠る彩華へ向く。


『それに、今は帰る場所がここにある』


 無月は何も言わなかった。


 自分にとって、帰る場所とは虹結家だった。


 そう教えられ、それ以外を知らずに生きてきた。


 だが今は戻れない。


 ここを帰る場所と呼ぶ資格もない。


 それでも白嶺がいない間、この部屋で帰りを待っていた。


 玄関が開いたとき、確かに安堵した。


「……明日も、彩華様をお守りします」


『お願い』


「必ずお戻りください」


『分かっているわ』


「約束です」


『昨日もしたでしょう』


「確認です」


『心配性ね』


「白嶺様が無頓着なのです」


 白嶺は反論せず、宿彩を壁へ立てかけた。


 彩華の指は、まだ無月の服を掴んでいる。


 無月も無理に離そうとはしなかった。


 その夜。


 白嶺は初めて、誰かが彩華のそばにいることを確かめてから、目を閉じた。


 無月は初めて、誰かの帰りを待つという役目を終えて、朝を迎えた。

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