20話「過去に咲くもの」
翌日。
白嶺は普段どおり出勤した。
昨夜見つけた古い家のことも、スイガロの言葉も、会社へは持ち込まない。
午前中の会議へ参加し、資料の不足を指摘する。
部下から上がってきた企画書を確認し、修正箇所を書き込む。
取引先からの電話にも、いつもと変わらない声で応じた。
胸の内側には、四つの色が沈んでいる。
赤の渇望。
橙の甘い諦め。
黄の温もり。
褐色の安息。
そこへ昨夜から、まだ封じていない緑の気配までまとわりついていた。
ふとした瞬間に、古い記憶が浮かび上がる。
虹結家の長い廊下。
庭に積もる雪。
木刀を振る音。
白嶺はそのすべてを、仕事の裏側へ押し込めた。
「加藤さん、先ほどの修正ですが」
美咲が資料を持って立っていた。
『見せて』
「はい」
白嶺は差し出された資料を確認する。
指摘した箇所は直っている。
それだけではなく、数字の根拠となる資料も追加されていた。
『いいと思うわ。これで進めて』
「ありがとうございます」
『ただし、次の頁は説明が長い。半分まで削って』
「分かりました」
美咲は資料を受け取り、自分の席へ戻った。
白嶺も何事もなかったように仕事を続ける。
会社にいる間、自分は加藤白嶺でいればよい。
虹結家の器でも、色霊を斬る剣士でもない。
その境界だけは、誰にも越えさせなかった。
◇
夜。
自宅へ戻り、夕食と彩華の世話を済ませる。
白嶺は黒い着物へ袖を通した。
髪が膝まで伸び、その一部に赤、橙、黄、褐色の光が差す。
長い髪を大きく結い、宿彩を腰へ差した。
無月は彩華を抱いたまま、その姿を見ている。
「今夜、スイガロを討たれるのですね」
『そのつもりよ』
「本体の居場所は分かったのですか」
『大体は』
「大体、ですか」
『あの家全体に根を張っている。すべてを斬れば、どこかに本体が出るでしょう』
「随分と乱暴な策に聞こえます」
『そう?』
「被害者の方は」
『今は病院にいる。今夜、家にいる人間はいないわ』
「ならば、私も」
『留守番』
無月が言葉を止めた。
昨夜と同じやり取りをする必要はなかった。
「……承知しました」
『素直ね』
「契約を理解しただけです」
『彩華をお願い』
「お任せください」
無月の返事に迷いはなかった。
昨日までとは違う。
白嶺は玄関へ向かった。
「白嶺様」
『何?』
「スイガロの見せる過去に、惑わされませぬように」
『大丈夫よ』
「昨日、気配を追うだけで足を止められたのでしょう」
白嶺が無月を見る。
『見ていたの?』
「帰還された際、緑の気配が残っておりました。推測しただけです」
『よく見ているわね』
「あなたを殺すために、長く観察しておりましたので」
『それを本人へ言う?』
「事実です」
無月は真剣な顔のままだった。
「帰りたい過去が見えても、必ずこちらへお戻りください」
『約束したでしょう』
「確認です」
『行ってくるわ』
「行ってらっしゃいませ」
白嶺は玄関を出た。
扉の向こうには、彩華と無月が残っている。
昨夜よりも迷いなく、白嶺は歩き出した。
◇
古い家は、昨夜と同じ場所にあった。
錆びた門扉。
伸び放題の雑草。
板で塞がれた窓。
人の住んでいない家。
ただし、今夜は玄関の前に男の姿はない。
救急搬送された男が戻ってきた形跡もなかった。
白嶺が門扉へ手をかける。
「おかえり」
家の中から声が聞こえた。
『まだ何も言っていないけれど』
「帰ってきたのでしょう?」
『あたしの家ではないわ』
「でも、帰りたいと思っている」
門扉がひとりでに開いた。
庭を覆う雑草が左右へ分かれ、玄関までの道を作る。
「入って」
女の声が優しく誘う。
「今度は、あなたの家を見せてあげる」
『遠慮するわ』
「怖いの?」
『早く終わらせて帰りたいだけ』
「どこへ?」
白嶺は答えず、庭へ入った。
一歩進む。
足元で草が揺れる。
二歩目を踏み出した瞬間、夜の住宅街が消えた。
◇
雪が降っていた。
虹結家の庭だった。
白嶺の髪は膝まで伸びていない。
虹色にも変わっていなかった。
身体も今より小さい。
手にしているのは宿彩ではなく、稽古用の木刀だった。
「止めなさい」
声が聞こえる。
庭の向こうに、白い着物の女が立っていた。
虹結黒花。
白嶺の母。
若い頃から、黒花は美しかった。
白い髪も。
刀を持つ立ち姿も。
相手を射抜くような瞳も。
幼い白嶺にとって、母は誰よりも強く、遠い存在だった。
「今日の稽古は終わりです」
『まだできます』
幼い白嶺の口が、勝手に動く。
「手を見せなさい」
『平気です』
「見せなさい」
黒花が近づき、木刀を取り上げた。
白嶺の手のひらには、潰れた豆から血が滲んでいる。
黒花は白嶺の前へ膝をついた。
懐から白い布を出し、小さな手へ巻いていく。
「剣は一日で身につくものではありません」
『母上より強くなりたいのです』
「それは難しいでしょうね」
『なれます』
「では、明日も励みなさい」
黒花の手は温かかった。
厳しい言葉とは裏腹に、傷へ触れる指は優しい。
「今夜はもう休みなさい」
『一緒に夕餉を食べてくださいますか』
黒花は一瞬だけ黙った。
やがて、幼い白嶺の頭へ手を置く。
「ええ。今夜は一緒に食べましょう」
白嶺の胸が揺れた。
忘れていたわけではない。
ただ、思い出さないようにしていた。
母を憎むために。
虹結家へ戻らないために。
黒花がいつでも冷酷な母だったと思う方が、都合がよかった。
「白嶺」
黒花が手を差し出す。
「帰りましょう」
幼い手が、その手へ伸びる。
白嶺の意志とは関係なく、身体が母を求めていた。
もう一度、その手を握りたい。
剣も、器も、家の宿命も知らなかった頃へ戻りたい。
母を憎まなくてもよかった頃。
ただ褒められたくて、木刀を振っていた頃。
「ここにいればいいの」
黒花の声に、別の女の声が重なる。
「つらいことは、まだ何も起きていない」
庭の雪を割り、緑の芽が出た。
「子を産むこともない」
芽が伸びる。
「封印が解けることもない」
蔓が幼い白嶺の足へ絡みついた。
「家を捨てる必要もない」
葉が開く。
「母に刃を向けることもない」
黒花の背後に、緑の花が咲き始めた。
「あなたは、ずっと愛される娘でいられる」
白嶺は伸ばしかけた手を止めた。
黒花が微笑む。
幼い頃、何度も望んだ顔だった。
「どうしたのです、白嶺」
『……その顔は、違うわ』
「何が違うのです」
『母上は、そんなふうに笑わない』
黒花の微笑みが固まった。
『少なくとも、あたしの記憶の中ではね』
「なら、望んだ姿に変えてあげる」
『必要ない』
「なぜ?」
『優しかった記憶まで、偽物にしたくないもの』
白嶺は自分の足へ絡んだ蔓を見た。
幼い手が伸び、蔓を掴む。
引きちぎった瞬間、身体が元へ戻った。
黒い着物。
膝まで伸びた白髪。
その一部に宿る四つの色。
腰には宿彩がある。
白嶺は母の手ではなく、宿彩の柄を握った。
『帰りたいと思うことくらいはあるわ』
黒花の姿が揺れる。
『あの頃が幸せだったことも否定しない』
「なら、ここにいればいい」
『嫌よ』
「過去には、あなたが失ったものが全部ある」
『今のあたしが守りたいものは、ここにはない』
白嶺は宿彩を抜いた。
白銀の刃が、緑の花を映す。
『あたしが帰るのは、彩華のいる家よ』
刀を一閃する。
黒花の姿が斬れた。
庭も、雪も、幼い白嶺の木刀も、緑の光となって崩れていく。
◇
白嶺は古い家の庭へ戻っていた。
足元から無数の蔓が伸びている。
幻を見ている間に、膝近くまで絡みついていた。
「どうして拒むの?」
スイガロの声が、家のあらゆる場所から響く。
「あなたは帰りたかったのでしょう?」
『ええ』
白嶺は否定しなかった。
『でも、帰らない』
宿彩を両手で構える。
蔓が四方から襲いかかる。
正面から三本。
左右から二本ずつ。
背後から一本。
白嶺は一歩踏み込み、長い刀身を水平に走らせた。
正面と右から迫った蔓が、まとめて断たれる。
そのまま身体を回す。
宿彩の長さを利用し、左から伸びた二本と背後の一本を一度に薙いだ。
切断された蔓から緑の液体が飛び散る。
足元の蔓が締まった。
白嶺は腰を落とし、刃を低く返す。
『虹結封彩流――』
庭を埋め尽くした蔓が、再び白嶺へ集中する。
『蝶の七舞踊』
一閃。
二閃。
刀身の長さを感じさせない速さで、宿彩が翻る。
斬撃の軌跡が重なり、羽を広げた蝶のような形を描いた。
白嶺へ触れる寸前だった蔓が、七つに分かれて落ちる。
庭に広がっていた根の流れが、初めて一箇所へ集まった。
家の下。
古い玄関の奥だった。
『見つけた』
白嶺が踏み込む。
通常の刀では、玄関の外から届かない距離だった。
だが、宿彩は長い。
扱いづらさと引き換えに、使い手の間合いを大きく広げる。
白嶺は玄関へ入らず、長い刀身を床板の隙間へ突き入れた。
刃が、家の下へ隠れていた太い根を貫く。
「見ないで!」
女の声が悲鳴へ変わった。
床板を突き破り、巨大な花が現れる。
花弁の内側には無数の人の顔が並んでいた。
笑う顔。
泣く顔。
過去へ戻り、同じ幸福を繰り返す者たちの顔。
花の中央から、上半身だけの女が姿を現す。
その下半身は幾重もの根に分かれ、家の地中へ広がっていた。
「私は救っているの!」
スイガロが叫ぶ。
「失ったものを返している! この場所では、誰も前へ進まなくていい!」
『そうね』
白嶺は突き入れた宿彩を引き抜いた。
『でも、それでは生きているとは言えないわ』
「今を生きれば、また失う!」
『失うでしょうね』
「なら、過去にいた方が幸せよ!」
『幸せだった過去と、これから幸せになれないことは別でしょう』
スイガロの周囲から、再び蔓が伸びる。
白嶺は宿彩を鞘へ戻した。
腰を落とす。
右手を柄へ添える。
「また失うわ」
『ええ』
「愛したものも、守りたいものも!」
『それでも、今を選ぶ』
蔓が白嶺へ届く。
その直前、宿彩が鞘を走った。
『虹結流抜刀術――居彩』
白銀の線が、夜を横切る。
蔓も、花も、スイガロの身体も。
地中へ広がっていた根まで、一つの斬撃に引かれるように断ち切られた。
「帰りたいと……思ったくせに」
崩れていくスイガロが、白嶺を見る。
『思ったわ』
「なら、どうして」
『帰る場所を、自分で選んだからよ』
スイガロの身体が緑の光へ変わる。
古い家を覆っていた根も、光となって抜け落ちていく。
無数の光が宿彩の刀身へ集まり、そのまま白嶺の身体へ流れ込んだ。
懐かしい。
帰りたい。
あの頃に戻れば、何も失わずに済む。
封じられたスイガロの感情が、白嶺の内側へ根を伸ばす。
白嶺は目を閉じた。
黒花の手の温かさが、まだ手のひらに残っている。
それを消そうとは思わなかった。
優しかった母も。
自分を器として扱った母も。
どちらも、白嶺の記憶だった。
『……帰りましょうか』
目を開く。
髪に緑の一筋が加わっていた。
◇
自宅へ戻ると、部屋の明かりがついていた。
白嶺が鍵を開ける。
『ただいま』
「お帰りなさいませ、白嶺様」
無月がすぐに玄関へ現れた。
耀彩を腰へ差している。
白嶺から借りた服の袖は、今日も余っていた。
『彩華は?』
「お休みになられています」
『泣かなかった?』
「少しだけです」
『昨日よりは慣れた?』
「原因を特定するまでの時間は短縮できました」
『業務報告みたいね』
「契約ですので」
白嶺は靴を脱いだ。
部屋へ上がろうとしたところで、無月が白嶺の髪を見る。
「緑が増えております」
『スイガロは斬ったわ』
「御身体に異常は?」
『昔のことを思い出すくらい』
「虹結家のことですか」
『ええ』
無月の表情がわずかに曇る。
「私には、まだお話しいただけませんか」
『すべて話す約束だったわね』
「はい」
『でも、今夜は疲れた』
「……そうですか」
無月は追及しなかった。
白嶺はその横を通り、彩華の眠る部屋へ向かう。
ベビーベッドを覗く。
彩華は黄色い鳥を胸元に置き、眠っていた。
その傍らには、無月が畳んだらしい小さな布が置かれている。
白嶺は彩華の頬へ触れた。
温かい。
帰ってきたのだと、その温度で実感する。
「白嶺様」
背後から無月が声をかける。
『何?』
「先ほど、帰りたい過去があるとおっしゃいました」
『言ったわね』
「今も、虹結家へ戻りたいと思われるのですか」
白嶺は少し考えた。
『帰りたいとは思うわ』
無月の顔が強張る。
『でも、戻りたいとは思わない』
「違うのですか」
『違うわよ』
白嶺は彩華から手を離し、無月を見る。
『帰りたいと思うのは、そこに大切な記憶があるから。戻りたくないのは、その先にあるものを知っているから』
「私には、よく分かりません」
『そのうち分かるわ』
「また、そうやって先延ばしにされるのですね」
『今夜は本当に疲れているの』
「クチツチの影響を言い訳にしておられませんか」
『半分くらいは』
「残りの半分は?」
『普通に眠い』
無月は小さく息を吐いた。
「食事はどうされますか」
『いらない』
「駄目です」
『どうして?』
「昨日、倒れたら契約違反だと私へおっしゃいました」
『一食くらい抜いても倒れないわ』
「私も同じことを申し上げました」
『覚えていたのね』
「当然です」
無月は居間へ向かう。
「簡単なものを用意してあります」
『料理はできないと言っていなかった?』
「調理方法を確認しました」
『何を作ったの』
「米を炊きました」
『それだけ?』
「初日ですので」
『随分と慎重ね』
「失敗したものを白嶺様へお出しするわけにはいきません」
白嶺は無月の後を追った。
机の上には、炊き上がった米と、冷蔵庫にあった総菜が並んでいる。
料理と呼べるほどのものではない。
それでも白嶺が帰る時間に合わせ、無月が用意したのだと分かった。
『ありがとう』
「契約の一部です」
『食事の用意は契約に入っていないでしょう』
「警護対象の保護者が倒れれば、彩華様へ影響します」
『そういうことにしておくわ』
白嶺は席へ座った。
無月も向かいへ座る。
『いただきます』
「いただきます」
口へ入れた米は、少し硬かった。
水の量を間違えたのだろう。
白嶺は何も言わずに食べた。
「いかがでしょう」
『硬いわね』
「……申し訳ありません」
『でも、食べられる』
「次は修正します」
『次も作るつもり?』
「必要であれば」
『では、お願い』
「承知しました」
無月がわずかに背筋を伸ばす。
白嶺はその姿を見ながら、もう一口食べた。
虹結家の食卓とはまるで違う。
豪華な料理もない。
広い座敷もない。
向かいにいるのは母ではなく、かつて自分を殺しに来た分家の剣士だった。
それでも、ここが今の白嶺の帰る場所だった。
寝室では彩華が眠っている。
目の前には無月がいる。
スイガロの見せた過去よりも不格好で、狭く、片づきすぎた部屋。
白嶺は、その光景を静かに受け入れた。
◇
夜が更けたあと。
無月は一人で耀彩の手入れをしていた。
白嶺はすでに眠っている。
彩華の寝息も聞こえていた。
無月は刀身へ映る自分の顔を見る。
帰りたい場所。
その言葉が頭から離れない。
虹結家へ帰れば、処罰を受ける。
それでも、あの場所しか知らなかった。
帰れないことが苦しいのか。
帰りたいのか。
自分でも分からなかった。
ただ、今夜は白嶺の帰りを待っていた。
玄関の鍵が回ったとき、安堵した。
食事を用意し、同じ机を囲んだ。
それを家と呼ぶには、まだ早すぎる。
「私は、何をしているのでしょうね」
耀彩へ問いかける。
当然、答えはない。
隣の部屋から、彩華の小さな声が聞こえた。
無月はすぐに刀を鞘へ収め、立ち上がる。
その動きに迷いはなかった。
帰る場所がどこなのかは、まだ分からない。
だが今夜、自分がいるべき場所だけは分かっていた。




