21話「語られる想い」
数日後の月曜日。
玄関の扉が開いた。
『……ただいま』
「お帰りなさいませ、白嶺様」
無月は彩華を抱いたまま、玄関へ向かった。
白嶺は扉を閉めると、片方の靴だけを脱いだ。
もう片方へ手をかけることなく、壁へ背中を預ける。
ずるずると身体が沈み、そのまま玄関へ座り込んだ。
「白嶺様?」
『今日はもう無理』
「何がですか」
『全部』
白嶺は片方だけ靴を履いたまま、両脚を投げ出した。
肩から外した鞄も、廊下へ落とす。
鞄が倒れ、中から書類の端が覗いた。
「会社で何かあったのですか」
『普通に働いただけ』
「では、立ってください」
『無理』
「せめて、もう片方の靴を脱いでください」
『無月、お願い』
「御自分で脱いでください」
『足が遠い』
「先ほどまで、その足で歩いておられたでしょう」
『家へ帰ったから、もう動かない』
無月は無言で白嶺を見下ろした。
会社へ向かう朝の白嶺は、隙のない姿をしている。
髪を整え、化粧を施し、皺一つないスーツを着ていた。
色霊を斬るときには黒い着物をまとい、宿彩を振るう。
そのどちらとも同じ人物には見えなかった。
今の白嶺は、片方だけ靴を履いて玄関へ座り込んでいる。
「……本当に、虹結白嶺なのですか」
『失礼ね』
「私の知っていた白嶺様は、玄関で動けなくなるような方ではありませんでした」
『家の中まで完璧でいるのは疲れるでしょう』
「完璧でなくとも、最低限というものがあります」
『あたしの最低限は、家まで帰ることよ』
彩華が無月の腕の中から、白嶺へ手を伸ばした。
「あー」
『ただいま、彩華』
白嶺は手だけを上げ、彩華へ振った。
立ち上がる気配はない。
「彩華様がお待ちです」
『こっちへ連れてきて』
「御自分で抱きに来てください」
『厳しいわね』
「白嶺様がだらしなさすぎるのです」
『では、そこで待っていて。少し休んだら行くから』
「玄関で休まないでください」
無月は溜息をついた。
彩華を片腕で支え、白嶺が履いたままの靴を脱がせる。
『ありがとう』
「御礼を言えば許されると思わないでください」
『許されたとは思っていないわ』
無月は白嶺の鞄も拾った。
「立てますか」
『手を貸して』
「そこまで疲れておられるのですか」
『甘えているだけ』
無月の手が止まった。
「それなら、御自分で立ってください」
『正直に言ったのに』
「正直であれば何でも許されるわけではありません」
無月は彩華を抱いたまま、先に部屋へ戻った。
背後で白嶺が壁へ手をつき、ゆっくり立ち上がる音が聞こえる。
『薄情者』
「聞こえております」
◇
白嶺が居間へ入ってきた。
玄関では立てないと言っていたにもかかわらず、冷蔵庫へ寄って缶のコーヒーを取り出している。
「動けるではありませんか」
『喉が渇いたから』
「先ほど手を貸せとおっしゃったのは?」
『甘えたかっただけ』
無月はしばらく白嶺を見つめた。
「……私の知っている白嶺様とは、随分違いますね」
『外ではきちんとしているもの』
「家の中にも限度があります」
白嶺は答えず、缶を開けた。
スーツの上着を脱ぎ、ソファの背へ投げる。
外した腕時計を机へ置く。
続いて髪留めを外し、白い髪を無造作に広げた。
ブラウスの一番上のボタンを外す。
スカートの留め具も緩め、そのままソファへ身体を倒した。
片脚だけが座面から落ちている。
「白嶺様」
『何?』
「着替えてからお休みください」
『あとで』
「皺になります」
『明日、別のものを着るわ』
「そういう問題ではありません」
『細かいわね』
白嶺はコーヒーを一口飲んだ。
無月は彩華を床へ下ろす。
彩華は黄色い鳥を握り、白嶺の方へ這っていった。
ソファの前まで来ると、白嶺の垂れた手を掴む。
『何?』
「あぅ」
『お腹に乗る?』
白嶺は彩華を抱き上げ、自分の腹の上へ乗せた。
彩華は満足したように身体を預ける。
白嶺も、そのまま目を閉じた。
「そこで眠らないでください」
『少しくらいいいでしょう』
「彩華様が落ちます」
『支えているわ』
「目を開けてください」
『無月が見ているから大丈夫』
「私を何だと思っているのですか」
『頼りになる同居人』
「護衛です。子守まで当然のように任せないでください」
『でも、見ていてくれるでしょう』
「今は白嶺様が抱いておられるからです」
『やはり頼りになるわね』
「話を聞いてください」
無月は白嶺の上着を拾い、形を整えてハンガーへ掛けた。
床に落ちていた鞄も、机の横へ置く。
白嶺はそれを眺めながら、彩華の背中を撫でていた。
『無月』
「今度は何ですか」
『そこへ座って』
「なぜです」
『話すから』
無月の手が止まった。
『約束したでしょう。あたしが虹結家を出た理由を話すと』
無月の表情から、呆れが消えた。
「今、お話しになるのですか」
『今なら話せそうだから』
「その姿で?」
白嶺はソファへ横になり、スカートの留め具を緩めている。
腹の上には彩華がいる。
片手には缶のコーヒー。
虹結家の過去を語る姿には、とても見えなかった。
『着物へ着替えた方が雰囲気が出る?』
「結構です」
『そう』
「ですが、せめて起きてください」
『疲れているの』
「では、日を改めましょう」
『改めたら、また話したくなくなる』
白嶺の声は平坦だった。
だが、その言葉が冗談ではないことは、無月にも分かった。
無月は白嶺の向かいへ腰を下ろした。
「承知しました」
『楽に座っていいわよ』
「白嶺様の姿を見ていると、私まで姿勢を崩してはならない気がします」
『反面教師ね』
「自覚がおありなら起きてください」
白嶺は起きなかった。
◇
『無月は、器についてどこまで教えられている?』
「十二色霊をその身へ封じる存在です。虹結家の直系から選ばれ、三振りの刀のいずれかを用いて完全な封印を行う」
『それだけ?』
「器は、自らの感情を律しなければならないとも」
『律する、ね』
白嶺は天井を見た。
『随分と綺麗な言い方をするのね』
「違うのですか」
『感じるな、と教えられるのよ』
無月は黙って白嶺を見る。
『笑うことは許される。でも、本気で喜んではいけない。悲しんでもいけない。誰かを強く憎んでも、深く愛してもいけない。器の中にある感情が大きく揺れれば、封印された色霊まで反応するから』
「それは、私も教わりました」
『教わるのと、それを毎日やらされるのは違うわ』
白嶺の指が、彩華の背中をゆっくり撫でている。
『食べたいものを我慢する。欲しいものを口にしない。誰かを好きになっても、近づかない。失っても泣かない。器に余計な色を与えるな。白いままでいろ。そう言われ続けた』
「白髪も、器としての素質を示すのですね」
『ええ。ただ、それだけで器になると決まるわけではないわ』
無月は白嶺の髪を見る。
会社では、生まれつきの珍しい髪としか見られていない白髪。
虹結家では、器としての強い素質を示す色。
白嶺が自分で選んだものではない。
『あたしは、母上から器を受け継いだ』
「黒花様から」
『母上も、器だったときにあたしを産んでいる。子を産むこと自体が禁じられているわけではないわ』
白嶺は彩華へ視線を落とした。
『その後、母上は自分の中に封じていた十二色を、すべてあたしへ移した』
黒花は器としての役目を白嶺へ渡した。
器ではなくなったあとも、虹結家最強の剣士であることに変わりはなかった。
無月が知っている黒花は、すでに十二色を宿していない黒花だった。
「では、白嶺様もいずれ、次の器へ色霊を渡すはずだったのですか」
『家の決めた相手との間に、次代の器となる子を産む。それが、あたしへ用意されていた生き方よ』
「家の管理下で」
『ええ。封印を揺らさないよう感情を抑え、時期も相手も、産んだあとの扱いも、全部家が決める』
無月は指先へ力を入れた。
分家の者に、そこまで詳しく知らされることはなかった。
本家の器は守られるべき存在だと教えられていた。
だが、その守りが何を意味するのか、深く考えたことはなかった。
『それを嫌だと思った』
「それだけで、家を出られたのですか」
『十分な理由でしょう』
「虹結家には、虹結家の役目があります。色霊を封じ、世の安寧を守るという」
『分かっているわ』
「白嶺様が器である以上、すべてを御自身だけで決められることではありません」
『そうね』
白嶺は否定しなかった。
『だから、あたしは裏切ったのよ』
無月の目が揺れる。
『正しいことをしたと主張するつもりはない。家の役目を知ったうえで、自分の人生を選んだ。虹結家から見れば、裏切りでしかないわ』
「では、なぜ……」
無月は言葉を探した。
「なぜ、それほどまでして外へ?」
『好きな人ができたから』
白嶺は淡々と答えた。
無月の表情が止まる。
『普通の人よ。剣も知らない。色霊も見えない。虹結家のことも知らなかった』
「どこで出会われたのですか」
『屋敷の外』
当時の白嶺が屋敷を出る機会は多くなかった。
家の使い。
剣や薬の調達。
色霊の痕跡を確かめるための外出。
行き先も帰る時刻も決められ、常に家の役目を背負っていた。
『ある日、使いの帰りに雨が降ったの。あたしは傘を持っていなかった』
「その程度の雨なら、白嶺様は気にせず帰られるのでは」
『そうしようとしたわよ』
「では、なぜ」
『あの人が傘へ入れてきたから』
白嶺は少しだけ目を細めた。
『勝手にね』
「見知らぬ白嶺様へ?」
『白い髪でずぶ濡れになっている女がいたから、放っておけなかったのでしょう』
「警戒はされなかったのですか」
『したわ。毒でも仕込まれているのかと思った』
「当然です」
『でも、ただの傘だった』
男は白嶺の白い髪について尋ねなかった。
どこから来たのかも。
なぜ一人で雨の中を歩いていたのかも。
ただ駅まで傘へ入れ、そこで別れた。
『それだけだった。最初はね』
「再び会われたのですか」
『何週間かあと、同じ駅で偶然会った』
「二度も偶然が?」
『あたしも疑ったわ。家の者が用意した人間ではないかと』
「調べられたのですか」
『ええ。ただの会社員だった』
「ただの会社員を、そこまでお疑いになったのですね」
『そういう家で育ったもの』
三度目からは、偶然ではなかった。
屋敷の外へ出る用事があるたび、白嶺はあの駅を通る道を選ぶようになった。
男も時折、同じ時間に駅の近くへいた。
初めは短い挨拶だけだった。
やがて立ち話をするようになり、近くの店で飲み物を口にすることも増えた。
『あの人は、あたしを器として見なかった』
「何も知らなかったのですから、当然ではありませんか」
『その当然が、あたしには初めてだったの』
虹結家では、白嶺を見る者のすべてが器を見ていた。
本家の長女。
十二色霊を宿す身体。
次代へ役目をつなぐための存在。
だが男は、白嶺が何を好むのかを聞いた。
何をしているときが楽しいのか。
これから何をしたいのか。
白嶺自身も考えたことのないことばかりを、当たり前のように尋ねた。
『最初は、答えられなかった』
「白嶺様にも、答えられない問いがあったのですね」
『たくさんあったわよ』
「今のお姿を見ていると、そのような気もしてまいりました」
『余計な一言ね』
「続きをお願いします」
『会うたびに、少しずつ考えるようになった。何が食べたいか。どこへ行きたいか。誰と一緒にいたいか』
「そして、その方を選んだ」
『ええ』
「感情を抑えなければならないと、分かっていたはずです」
『分かっていたわ』
「それでも?」
『それでもよ』
やがて、二人のことは虹結家に知られた。
男と二度と会わないよう命じられた。
器が一人の人間へ強い感情を抱けば、封印を揺るがす危険がある。
白嶺の結婚も出産も、本来は虹結家が管理するものだった。
誰と結ばれるか。
いつ子を産むか。
生まれた子をどのように育てるか。
白嶺自身が決めることは、何一つ想定されていなかった。
『あの人から離れるか、家を出るか。あたしは選ばされた』
「虹結家を選ばなかったのですね」
『選べなかった』
白嶺は自分の白い髪へ触れた。
『あの人と出会って、初めて自分にも人生があると思ってしまった。知る前なら、器のまま生きられたかもしれない。でも、知ったあとでは無理だった』
「だから、宿彩を持ち出した」
『三振りの中で、一番あたしの手に馴染んでいたからね』
「宿彩でなければ封印できないからではなく?」
『器と三振りのどれかが揃えば、完全な封印はできる。宿彩だけが特別というわけではないわ』
白嶺は自分の長身に合わせ、扱いづらい長刀を選んだ。
並の剣士には長すぎる。
だが、使いこなせば広い間合いを支配でき、複数の敵や広がった色霊の力を一度に断てる。
白嶺にとって、宿彩は最も自分の剣に合う刀だった。
『宿彩を持って屋敷を出た。あの人には、そのあとで会いに行った』
「待ち合わせて逃げたのではないのですか」
『違うわ。あの人まで共犯にしたくなかった』
「それでも、受け入れられた」
『随分怒られたわよ。何も相談しなかったから』
「当然です」
『あなたと同じことを言うのね』
白嶺は虹結家を出たあと、初めて自分で住む場所を探した。
働かなければ生活できないことも、そのとき知った。
白い髪を理由に、採用を断られることもあった。
現在の会社の面接では、髪について何も言われなかった。
仕事に支障がないなら問題ない。
そう言われたことが、入社を決めた理由だった。
「今の会社へ入られたのは、家を出たあとだったのですね」
『ええ。あの人と出会った場所ではないわ』
「そして、会社で働きながら、その方と」
『結婚した。加藤は、あの人の姓よ』
「それで、虹結白嶺ではなく、加藤白嶺になられた」
『そういうこと』
◇
『彩華ができたと分かったとき、家へ戻る選択も考えた』
無月が顔を上げる。
『あたし一人なら逃げ続けられる。でも、子供を連れて虹結家から逃げ切れる保証はない。戻れば守ってもらえるかもしれないとも思った』
「では、なぜ戻らなかったのですか」
『守られるのは、彩華ではない。次の器だからよ』
白嶺の腹の上で、彩華が身体を動かした。
白嶺は落ちないよう、腕の位置を直す。
『あの家へ戻れば、この子もあたしと同じように育てられる。感情を抑えろ。好きなものを作るな。家のために生きろ。そう教えられる』
「彩華様が器になるとは限りません」
『限らない。でも、可能性があるだけで家は手放さない』
「……だから、戻らずに産むことを選ばれた」
『ええ』
白嶺は彩華の短い髪へ触れた。
『出産で封印が崩れる可能性は分かっていた。強い感情と、身体への負担が同時にかかるから』
「それでも、産んだ」
『それでも産みたかった』
迷いのない声だった。
『この子が生まれた瞬間、十二色霊はあたしの中から逃げた。だから今、あたしが斬って戻している』
「その結果、どれほどの者が色霊に襲われるかも御存じだったはずです」
『ええ』
「白嶺様の選択で、無関係な者が危険に晒されています」
『そうね』
白嶺はそれも否定しなかった。
『だから、あたしが全部戻す。彩華を産んだことを誰かのせいにはしない。その結果も、あたしが引き受ける』
「すべてを封じれば、白嶺様がどうなるか分かりません」
『分からないわね』
「死ぬ可能性も」
『あるでしょうね』
「それを、彩華様は望まれません」
『まだ話せないもの』
「そういう意味ではありません!」
無月の声が大きくなった。
彩華が驚き、顔を上げる。
「あぅ」
「……申し訳ありません、彩華様」
無月はすぐに声を落とした。
白嶺は彩華の背中を撫でる。
『だから、死なないようにするわ』
「簡単におっしゃらないでください」
『難しく言っても結果は同じでしょう』
「白嶺様は、御自身の命を軽く扱いすぎです」
『そうかもしれないわね』
「他人事のように」
『でも、今はあなたがいる』
無月の言葉が止まった。
『あたしが戻れなくても、彩華を守る者がいる』
「そのために私を置いたのですか」
無月の声が低くなる。
「御自身が死んだあとの代わりとして?」
『それも、あなたを必要とした理由の一つよ』
「そのような理由は認められません」
『無月』
「私は、白嶺様を守るために育てられました」
無月は立ち上がった。
「彩華様をお守りします。それは、すでにお約束したことです。ですが、白嶺様が戻らなくてもよいように、ここにいるのではありません」
『同じことではないの?』
「違います」
無月は即座に言った。
「白嶺様が生きて戻られることと、白嶺様を失ったあとに彩華様だけを守り続けることは、まったく違います」
『でも、あたしに何かあれば、この子にはあなたが必要になる』
「白嶺様にも、私が必要です」
その言葉に、白嶺が黙った。
「少なくとも、私はそのためにここまで剣を振ってきました。白嶺様が御自身の命を投げ出すことを受け入れるためではありません」
無月の顔には、明確な怒りが浮かんでいる。
本家の人間へ向けるには、強すぎる言葉だった。
それでも引くつもりはなかった。
白嶺の命に関わることだけは、黙って従うことができない。
「御自身が戻れない場合を先に考えないでください」
『考えておく必要はあるでしょう』
「必要ありません」
『言い切るのね』
「戻ってください」
無月は白嶺をまっすぐ見た。
「何があっても、彩華様のもとへ戻ると約束してください」
『無月』
「私へ彩華様を任せるという言葉ではなく、白嶺様御自身が戻るという約束をしてください」
白嶺はしばらく無月を見た。
やがて、小さく息を吐く。
『分かったわ』
「何がです」
『戻る。何度でも約束する』
「……必ずです」
『必ず』
無月はすぐには座らなかった。
白嶺の言葉が、どこまで本気なのか見極めようとしている。
やがて再び、向かいへ腰を下ろした。
◇
「元夫の方は、今どこにおられるのですか」
『知らないわ』
「知らない?」
『離婚してから連絡を取っていない』
「その方が、白嶺様と彩華様を捨てたのですか」
『違う』
白嶺の声が、わずかに強くなった。
『あたしが別れたの』
「なぜです」
『一緒にいれば、あの人まで虹結家に狙われる。色霊が解けたあとなら、なおさらね』
「事情を話して、御自身から?」
『ええ』
「相手の方は納得されたのですか」
『していなかった。でも、最後には受け入れた』
白嶺はコーヒーの缶を傾けた。
もう中身は残っていない。
それでも口をつけたまま、しばらく動かなかった。
『普通の人だった。剣も持たない。色霊も見えない。虹結家から身を守る術もない』
「白嶺様がお守りすれば」
『彩華と色霊と、あの人を一人で守る?』
無月は答えられなかった。
『無理だと思った。だから、あたしから切った』
「その方を愛しておられたのに?」
『愛していたからよ』
過去形だった。
だが、その感情が失われたという意味ではない。
今も大切だから、遠ざけた。
無月には、その選択が正しかったのか分からなかった。
『加藤の姓を使い続けているのは、虹結とのつながりを表へ出したくないから。それに、今さら戻す必要も感じなかった』
「その名に未練がおありなのでは」
『あるかもしれないわね』
「否定されないのですか」
『嘘をつく必要はないでしょう』
白嶺は彩華を抱き上げ、隣へ寝かせた。
それから身体を起こそうとする。
途中で諦め、再びソファへ沈んだ。
『無月、コーヒー』
「今、大切なお話をしていたはずですが」
『喉が渇いた』
「御自分で取りに行ってください」
『もう動けない』
「先ほど冷蔵庫まで歩かれたでしょう」
『あれで今日の分を使い切った』
「白嶺様」
『お願い』
「……そのような声を出しても駄目です」
『効いた?』
「効いておりません」
無月は立ち上がった。
冷蔵庫から新しい缶を取り出し、白嶺へ渡す。
『ありがとう』
「話を中断されたくないだけです」
『そういうことにしておくわ』
白嶺は缶を開けた。
無月は呆れたように、その姿を見る。
「私は、白嶺様をもっと厳格な方だと思っておりました」
『外では厳格よ』
「家では?」
『休んでいる』
「休むことと、だらしがないことは違います」
『似たようなものよ』
「まったく違います」
『幻滅した?』
「少し見方は変わりました」
『そう』
「剣を握っているときと、あまりにも違いますので」
『剣の腕は変わらないわよ』
「それは存じております」
『なら問題ないでしょう』
「それと、脱いだ上着を放り出してよいかは別の問題です」
『細かいわね』
「白嶺様が細かくなさすぎるのです」
白嶺は気にした様子もなく、コーヒーを飲んだ。
◇
しばらくして、無月は再び表情を改めた。
「一つ、まだ伺っておりません」
『何?』
「なぜ、私へ何も言わずに行かれたのですか」
白嶺の手が止まった。
「私が本家の人間ではないからですか。分家の者へ説明する必要などないと思われたのですか」
『違うわ』
「では、なぜです」
『余裕がなかった』
白嶺は缶を机へ置いた。
『家を出ることも、あの人と生きることも、全部あたしが自分で選んだ。でも、怖くなかったわけではない』
「白嶺様が?」
『怖いことくらいあるわよ』
「……そうでしたか」
『何、その意外そうな顔』
「白嶺様が迷われるところを、当時の私は見たことがありませんでしたので」
『見せなかったもの』
「続きをお願いします」
白嶺は天井を見る。
『あなたへ話せば、止められると思った』
「当然です」
『それでも行くと言えば、あなたはどうした?』
「黒花様へ報告したでしょう」
『そうね』
「あるいは、白嶺様を止めるために刀を抜いたかもしれません」
『だから話さなかった』
無月の目が険しくなる。
『それだけではない。あなたがついてくると言い出す可能性もあった』
「そのようなことは」
言いかけて、無月は口を閉じた。
当時の自分なら、どうしていただろう。
憧れていた白嶺から、家を捨てると告げられる。
一緒に来てほしいと言われたなら。
無月には、拒めたという自信がなかった。
『あたしの選択に、あなたまで巻き込む資格はないと思った』
「それは、私を思ってのことだったと?」
『綺麗に言えばね』
白嶺は無月を見る。
『でも、本当は自分のことで精一杯だった。あなたがどう思うかより、あたしは自分が逃げることを選んだ』
無月の胸が痛んだ。
言い訳をしてほしかった。
無月を守るためだった。
本当は連れていきたかった。
そう言われれば、置いていかれた年月にも意味を見つけられたかもしれない。
だが、白嶺は都合のよい言葉を選ばなかった。
『あなたを見捨てたつもりはなかった。でも、そう感じさせたことに変わりはないわ』
「……はい」
『ごめんなさい、無月』
無月が顔を上げた。
白嶺はソファへ横になったままだった。
髪は乱れている。
スカートの留め具も緩めたまま。
謝罪をする姿としては、あまりにもだらしがない。
それでも、その目は無月をまっすぐ見ていた。
『置いていって、ごめんなさい』
無月はすぐに答えられなかった。
長く求めていた言葉だった。
それを聞けば、怒りが消えると思っていた。
実際には、何も消えなかった。
寂しかった年月も。
白嶺の背中を追って振り続けた剣も。
殺せと命じられ、喜びにも似た感情を抱いてしまった自分も。
なかったことにはならない。
「……許せません」
『ええ』
「今さら謝られても、簡単に許せることではありません」
『分かっている』
「私は、白嶺様を殺そうとしました」
『そうね』
「黙れ、殺すとまで申し上げました」
『言われたわ』
「それでも私は今、白嶺様の家にいる」
無月は自分の手を見る。
白嶺を斬るために耀彩を握った手。
今は、その手で彩華を抱いている。
「頭では、今も家の命へ背いたことを正しいとは思えません。任務を果たせなかった自分を許せない気持ちもあります」
白嶺は黙って聞いている。
「白嶺様が御自身のために家を捨てたことも、すべて肯定することはできません。封印が解け、犠牲になる者がいる以上、なおさらです」
『ええ』
「ですが……」
言葉が止まる。
無月は眠り始めた彩華を見る。
この子が生まれなければ、色霊は解けなかった。
白嶺も家へ戻ったかもしれない。
それでも今、彩華が生まれなければよかったとは思えなかった。
「彩華様を、否定することもできません」
無月は苦しそうに言った。
「白嶺様が御自身の生き方を選んだことを、羨ましいと思っている自分もいます」
『無月』
「私は、家の命令に従う以外の生き方を知りませんでした。何を食べるか。どこで眠るか。誰を斬るか。それさえ、自分で決めたことがない」
机の上には、白嶺が渡した金が残っている。
身体に合う服も持っていない。
社会で生きるための名前も、身分も、知識もない。
家を離れた無月には、何もなかった。
「白嶺様は、すべてを失うと知っていても選ばれた。私は、その選択を裏切りとしか考えておりませんでした」
『今は?』
「今も、虹結家に対する裏切りではあると思っています」
無月ははっきりと答えた。
「ですが、それだけではなかったことも分かりました」
白嶺がわずかに目を細める。
「許せません。すべてを理解したとも申し上げられません」
『それでいいわ』
「ただ……もう少しだけ、ここにいさせてください」
『契約中でしょう』
「契約がなくても、です」
白嶺の表情が止まった。
無月も、自分が何を言ったのか理解した。
視線を逸らす。
「今の言葉は忘れてください」
『嫌よ』
「忘れてください」
『聞いたもの』
「白嶺様」
『好きなだけいればいいわ』
「同情は不要です」
『同情ではない』
白嶺は彩華へ目を向ける。
『あたしにも、あなたが必要だから』
「彩華様の警護に?」
『それだけではないわ』
無月は白嶺を見る。
続きを待った。
しかし白嶺はコーヒーを机へ置き、目を閉じた。
「それだけではないとは、どういう意味ですか」
『疲れた。続きは今度』
「今、すべて話すとおっしゃったでしょう」
『話したわよ』
「最後に新たな疑問を残さないでください」
『おやすみ』
「まだスーツのままです」
『無月、毛布』
「着替えてください」
『動きたくない』
「では、そのままお休みください」
『寒いわ』
「御自分で取りに行ってください」
『お願い』
無月は白嶺を見た。
白嶺は目を閉じたまま、動こうとしない。
その隣では、彩華が小さく寝息を立てている。
無月は溜息をつき、立ち上がった。
持ってきた毛布を、彩華へ掛ける。
少し迷ったあと、白嶺の肩まで広げた。
『ありがとう』
「起きておられたのですか」
『ええ』
「それなら御自分で取りに行けたでしょう」
『無月が持ってきてくれると思ったから』
「次は持ってきません」
『そう』
「本当です」
『分かったわ』
白嶺の返事には、少しも反省が感じられなかった。
無月は床に落ちた髪留めを拾い、机へ置く。
「明日は、脱いだものを御自分で片づけてください」
『覚えていたらね』
「覚えていてください」
『善処するわ』
「なぜ、そのようなところだけ外の言葉を使うのですか」
白嶺は答えなかった。
今度こそ眠ったらしい。
無月は白嶺の寝顔を見る。
本家の長女。
十二色霊を宿す器。
虹結家でもっとも優れた剣士の一人。
無月が幼い頃から追い続けてきた背中。
そのどれもが、目の前の白嶺に間違いはなかった。
同時に、家へ帰れば靴を脱ぐことさえ面倒がり、上着を放り出し、他人へ平然と甘える人でもある。
知っていた姿と違うからといって、これまで見てきたものが偽りになるわけではない。
ただ、知らなかっただけだ。
白嶺にも疲れることがある。
迷うことがある。
怖がることがある。
間違いを自覚しながら、それでも自分で選ぶことがある。
無月はまだ、白嶺の選択を正しいとは思えなかった。
置いていかれたことも許していない。
それでも、白嶺を守るために振ってきた剣を、無意味だったとは思わなかった。
無月は耀彩を手元へ置き、白嶺と彩華の近くへ座った。
この二人を守る。
それだけは、もう迷わない。
白嶺には必ず戻ってもらう。
彩華のためだけではない。
無月自身が、それを望んでいた。
窓の外へ目を向ける。
色霊の気配はない。
白嶺の寝息と、彩華の小さな寝息だけが重なっている。
無月はもう一度、ずれた毛布を直した。
「まったく……だらしのない方です」
返事はない。
その声に侮りはなかった。
呆れと、変わらない敬意。
そして無月自身にも、まだ名前をつけられない想いだけが残っていた。




